第1回 サラリーマン表現者の精神史



   鐵雄と眞男(丸山眞知子氏提供)

丸山三兄弟
 明治・大正・昭和の三代にかけて活躍したジャーナリスト、丸山幹治には四人の息子がいた。そのうち三人は、『大阪朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』などを渡り歩いた新聞記者の子らしく——あるいは、らしくなく、と言うべきか——それぞれが別の形でマスメディアと濃厚に関わる人生を過ごした。彼らは俗に「丸山三兄弟」と称される。
 このうち最も著名なのは、東京大学法学部教授だった次男の眞男である。戦後を代表する知識人であり、日本政治思想史という学問分野の事実上の創始者として知られる。二〇一四年はその生誕百年にあたり、様々な書籍が刊行され、NHKではドキュメンタリーも作られた。死してなおメディア産業からラブコールを送られ、その思想の意義と限界が執拗に問い直されている存在である。
 四男の邦男は、フリーライター、評論家として活動した。兄弟の中でただひとり旧制高校―帝国大学というコースに乗れなかった邦男は、早稲田大学仏文科中退後に労働組合の書記、雑誌の「キャバレー記者」などを経験し、その後独立する。七〇年安保の際には、冴えないフリーライターや零細出版編集者などのマスコミ周辺人を糾合して「独立ジャーナリスト群団」を結成、闘争に参加した。天皇制批判、マスコミ批判の著作で知られる。兄の眞男とは違って新左翼に強い共感を抱いていた。
 そして、長男の鐵雄である。一九三四(昭和九)年に京都帝国大学経済学部を卒業して日本放送協会に入り、芸能番組のディレクター、プロデューサーとなった。草創期の放送メディアを作った人物のひとりである。音楽部長、考査室次長などを歴任し、一九六四(昭和三十九)年に退職。その後レコード会社の日本コロムビアへ移籍し、取締役制作本部長、子会社のコロムビア音楽芸能の社長を務め、一九八八(昭和六十三)年に七十八歳で死去した。NHKという大組織でそこそこ出世し、芸能界でも子会社ではあるが、一国一城の主となった。一見すると順風満帆のサラリーマン人生である。
 だが、なぜこのような人物が、眞男や邦男と並んで「丸山三兄弟」のひとりに数えられているのか。名を知られたとは言っても、所詮はサラリーマンである。眞男の巨大な影響力や、邦男の独特の個性と較べると、同一のカテゴリーに含めることにやや違和感を覚える。単純に、「三兄弟」の語呂がいいからだろうか。
 弟たちがこの兄から大きな影響を受けたことは、彼らの著作で確認できる。邦男は鐵雄の青少年期を評して、「成績は抜群だったが、いささか伝染性不良症にかかり、立川文庫とか『新青年』とか、心情的ぐれん隊の仲間入りをしていた」「かなりのわがままな〈反抗的人間〉に成長」した、と回想している。この鐵雄の不良性は丸山家にとってかなり深刻な問題だったようで、眞男によれば、ヤクザに勧誘され、親分と面談したこともあったそうだ。良家の子女は読まない講談本の立川文庫や映画、音楽の世界に弟たちを案内したのはこの鐵雄であり、眞男は「悪いことは全部兄貴に教わった」と語っている。邦男に資本家、プロレタリア、革命、マルクスなどの単語を教え込んだのも、鐵雄だという(『丸山眞男回顧談』、『豚か狼か』)。
 このような逸話から、次のような人物像が想像できる。成績は優秀だがどこかやさぐれた奔放な男が、何かの弾みで日本放送協会という官僚的組織に就職する。その中で、自分の性格に合った娯楽番組の仕事に出会う。そして、宮仕えのサラリーマンでありながら、虚実が入り混じり魑魅魍魎の跋扈する芸能界を相手に仕事をしていく――。丸山鐵雄を形容する際によく使われる言葉は「豪傑」であり、おそらく会う人はその人格に強い印象を持ったのだろう。だから、「丸山三兄弟」に加えることにさほどの違和感がなかったのだろうと思われる。
 しかし、「豪傑」とは言ってもサラリーマンである。その点で、東大法学部教授の眞男とも、筆一本で反権力・反権威を貫いた邦男とも違う。現に、今日も論争や研究の対象である眞男や、戦後言論界でひとつの強烈な個性だった邦男とは違い、鐵雄の人生に興味を持つ者はよほどの好事家か熱狂的な眞男のファンぐらいしかいない。サラリーマンは、いかなる業績をあげたとしてもその栄誉を独占することはない。草創期の放送メディアを作り上げた重要人物だったとしても、その仕事は大組織の「歯車」としてのものである。そして仕事の多くは、匿名で、外部からなかなかうかがい知れない形でなされている。
 丸山鐵雄に関して言及されることが多い経歴は、戦時下の時局歌謡の制作、「のど自慢」の企画、鋭い政治・社会風刺で知られた「日曜娯楽版」の制作であり、企画部副部長時代の一九四六(昭和二十一)年九月、管理職でありながら労働組合に同調して放送ストに決起し、連座した経験である。だが、どこまでが鐵雄の個性によるもので、どこからが組織のしがらみや同僚の力によるものなのかは判然としない。 また鐵雄は新聞や雑誌に芸能評論や時事川柳をよく寄稿した。しかし、これらの原稿仕事は芸能プロデューサーとしての余技に属する。立場上書けないことも多く、それが行間から透けて見えることもある。その意味で、鐵雄を純粋な文筆家と同列に扱うことも難しい。

サラリーマン表現者とは何か?
 にもかかわらず、この連載は、眞男でも邦男でもなく、鐵雄の人生に注目する。丸山鐵雄を通して、〈サラリーマン表現者〉の精神史が描けると考えるからだ。
 まず、この〈サラリーマン表現者〉なる耳慣れない言葉が何を意味するのかを説明しておきたい。要するに、正社員として新聞社、テレビ局、出版社に勤務する、記者、プロデューサー、ディレクター、編集者のたぐいのことである。マスコミ産業で会社員として月給をもらいながら、何らかの表現活動に従事する者たちのことだ。
 こういう言葉をあえて用いるのには、それなりの理由がある。普通「表現者」と聞いて想起するのは、小説家、音楽家、映画監督、演劇人、そういった人々だろう。場合によっては、学者や評論家も含まれる。しかし、彼らの作品や主張は、マスメディア各社に勤務する〈サラリーマン表現者〉の介入とパッケージングを経なければ多くの人に届くことはない。
 分かりやすい例をあげてみよう。我々は、学者のような人や評論家がテレビや新聞に出てきて、何らかの意見を述べている場面によく出くわす。それを見て「あいつは左翼だ」とか、「気が狂っている」と吐き捨てることもしばしばである。あるいは、知識人が世の中を変える力を持っていると信じているタイプの消費者は、彼らの言葉を服膺し、SNSなどでそれを拡散したりする。
 だが、その論者の意見は、その人を何かの拍子に「発見」し、仕事を依頼するプロデューサーやディレクター、記者、編集者などが存在してはじめて社会的な影響力を持つ。そして大なり小なり、彼ら〈サラリーマン表現者〉は知識人に「振り付け」を施して画面や紙面に出している。日本の言論界が腐敗堕落しているとすれば、露出する論者そのものよりも、その論者に仕事を与え、演出している者の腐敗堕落がまず問われなければならない。
 彼らは、誰に仕事を与え、誰に与えないのか。よく「自分は真実を語るのでマスコミから嫌われている」と嘆いてみせる芸風の論者がいるけれども、本当に嫌われている人、本当に危険な人には最初からそんなボヤキを披露する場すら与えられない。〈サラリーマン制作者〉は、多くの人の生殺与奪の権を握る、マスメディアの真の主人公である。
 そして、〈サラリーマン表現者〉は、誰かに仕事を与えるだけでなく、みずからが何らかの表現活動に従事することによって月給をもらっている。芸能番組などは分かりやすいかもしれない。いったい、このアイドルはどうしてこうも頻繁に同一番組に出演するのか。視聴者が求めているから? とりあえず、そういうことにしておこう。このアイドルも〈サラリーマン表現者〉の介入なしには世に出ることができない。何らかの理由で出演のオファーをするプロデューサー、きらびやかなセットを考案するデザイナー、実は番組の質を決定づける重要な役割を果たすライティング・ディレクター、細かくカット割りされた台本の通りに動き、その中で最良の絵を狙うカメラマン、そして、それらを差配する演出担当のディレクター。彼らは、それ自体がひとつの表現である流行歌に、みずからの表現を少しずつ混入させながらパッケージを作りあげる。彼らもれっきとした表現者なのだ。

その苦悩
 〈サラリーマン表現者〉は、何か特殊な能力や実績が認められてその地位を得たわけではない。それはひとえに就職活動、最近の言葉づかいだと「就活」の結果である。大きなメディアで記者、プロデューサー、ディレクター、編集者と呼ばれる仕事に就いている人々は、極論を言えば銀行員になっていても、家電メーカーの社員になっていてもおかしくはなかった。運が悪ければ、ブラック企業のセールスマンになっている可能性もあった。逆に、本当はメディアの仕事に就きたかったが、些細なミス(主として面接)で叶わなかった者も大勢いる。
 数回にわたる長時間の面接試験、SPIなどを含む筆記試験を受け、大手では倍率五百〜一千倍という難関を突破して、〈サラリーマン表現者〉の卵ができあがる。彼らにとって、メディア産業であればテレビ局でも出版社でも広告代理店でも何でもよかったのかもしれない。現実問題として、特定の希望の会社に入ることが至難の技である以上、運良く決まったところに入るしかない。いくらテレビ番組の制作を希望していても、地方民放と電通の両方に内定すれば電通を選ぶのが人情というものでもある。
 マスコミ受験者は、面接で「こんな映像が作りたい」「こんな文章が書きたい」と言ってはみるものの、ほとんどの場合実際に何か作ったことがあるわけではなく、みずからの作品が誰かの評価を得たなどということもない。大方の場合、真綿が水を吸い込むように上司や先輩の言うことを素直に聞いて「成長」してくれるような人材が採用される。そういう人たちが、オン・ザ・ジョブ・トレーニングで様々な仕事を覚え、この国の言論と感性に大きな影響を与えるようになっていく。
 もちろん、〈サラリーマン表現者〉にも苦悩はある。現代のマスメディアの仕事は、一般に思われているほど自由でもやりがいのあるものでもない。
 サラリーマンはサラリーマンなりに、仕事を覚えるうちに「やりたいこと」が芽生えてくる。しかし、その「やりたいこと」を実現する機会は、実はそれほど多くない。自分の企画がそのまま通ることは少ない上に、管理職によるたび重なるチェックや「助言」によって骨抜きにされていく。むしろ既存の番組枠や紙面を埋めるため、出版点数を稼ぐため、特に興味もなければ感心もしていない人物にアクセスし、企画を生み出し続けることが求められる。上から降ってきた仕事、単にカネを稼ぐための仕事をこなすことは、曲がりなりにも表現にかかわる人間にとっては苦痛である。「サラリーマンなんだからやりたくない仕事をするのは当たり前じゃないか」と言われるかもしれないが、面白くも何ともないばかりかむしろ発表することが害悪に近い企画に創造性のようなものを傾注するのは苦痛である。メディア産業、特に放送局での予算の私的流用や性的事件は草創期から今日まで絶えることがないが、そこに漂う退廃的な気配には、仕事そのものから達成感を得ることができず、何か別の悦楽でそれを代補しようとする心の動きがうかがえる。

丸山「鐵雄」へ
 この連載の関心は、メディアの真の主人公としての〈サラリーマン表現者〉とはいったい何者なのか、どうして生まれたのか、というところにある。ある時にはサラリーマンとして振る舞い、またある時には表現者として振る舞う。ヤヌスのように二つの顔を使い分ける。有名無名の表現者を差配し、彼らに発表の場と収入を与え、そこにみずからの表現を混ぜ込んで、言論界や芸能界を形成する。
 明治期に遡れば、たとえば新聞記者は必ずしも匿名の存在ではなかった。彼らは激しい政府批判を展開するとともに、時にみずからの思想を語る政論家でもあった。そして、記者であると同時に政治活動家であり、その論説や演説を心待ちにするファンがいた。ファンの側も積極的に投書を行い、それが認められれば自分も政論記者として華々しくデビューできる可能性があった(山本武利『新聞記者の誕生』)。それが大正期になると、筆記試験や複数回の面接をパスして入社する今日のようなシステムができあがる。
 新聞よりはるかに後発のメディアである放送の場合もそうである。一九三二(昭和七)年、日本放送協会東京中央放送局(JOAK)がアナウンサー六名を募集したところ、一二八〇名の応募者があった。彼らには、「依怙」「月下氷人」「社稷」などの読みと意味説明、「カルテル」などの外国語の説明、「徳川斉昭」「福島安正」といった人物説明を含む筆記試験や、発声テスト、面接試験が課された。当時、アナウンサーは「時代の尖端を行く新職業」「モダン職業」として憧れの的であり、「アナ君」「アナさん」採用試験の動向や内定者の情報は新聞で詳しく報じられていた。
 これに比べると一般職員はまだ楽だったようだ。丸山鐵雄が受験した一九三四(昭和九)年度の採用試験は作文と面接のみで、その作文も「最近聴いた放送について」と「私の家庭」の二つのお題から一題を選んで事前に提出すればよかった(『ラジオの昭和』)。面接重視の採用試験ということになり、したがって今と同じように「人間力」なる得体の知れないものが死命を制することになる。
 丸山鐵雄が日本放送協会に入った年、組織の姿を一変させる大改革が行われた。それまで自立性を持って放送プログラムを編成していた各地の放送局から権限が剥奪され、本部理事会による集権的支配が始まった。新聞社出身の理事は一掃され、逓信省から五人の局長が新理事として送り込まれた。「完全な中央集権」による地方文化の衰退と、「放送局の逓信省化」が懸念されるようになった(玉川太郎「放送協会改革裏面物語」『中央公論』一九三四年七月号)。丸山は、各地の放送局の「寄合世帯」から今日のような全国組織に変わるちょうどその時に、採用試験を突破して入局したことになる。

 丸山鐵雄という人物には、大正から昭和初期にかけての思想文化の申し子のようなところがある。映画や音楽に耽溺したこともそうだが、父・幹治を通して長谷川如是閑の謦咳に接し、大正教育界の画期である七年制高等学校の設立を、武蔵高等学校の第一期生として経験した。京都帝国大学では、一九三三(昭和八)年の滝川事件に遭遇、学生運動に参加した。このような人物が、「3T(逓信省出身・帝大出・低能)が揃わないと出世できない」と言われていた当時の日本放送協会で、組織と葛藤しながらどのような仕事を残したのか。その丸山の姿を追うことで、草創期放送メディア生え抜きの〈サラリーマン表現者〉の思想と行動を明らかにしていきたい。その人生の様々な局面で、弟たちがまた顔を出すことになるだろう。

 筆者は、丸山鐵雄のはるか後の時代にNHK芸能番組部に在籍した経験があり、また丸山眞男から直接指導を受けた学者の下で日本政治思想史の研究を始めた。そして、冴えないフリーライターとして露命をつないだこともある。鐵雄・眞男・邦男の人生の一部分を、パロディとして経験してきたことにはなるだろう。実際はパロディにすらならないほどのお粗末な成果しかあげていないが、思想研究者としての矩を越えないよう注意しながら、そのあたりについても綴っていきたいと考えている。

この連載は、サントリー文化財団の助成によって行われる「戦前・戦中・戦後直後の放送制作者の思想史的研究」の成果の一部である。

[著者略歴]
尾原宏之(おはら・ひろゆき)
政治思想史研究者、立教大学兼任講師
1973年生。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。元首都大学東京都市教養学部法学系助教。現在、サントリー文化財団鳥井フェローも務める。
著書に『大正大震災』(白水社)、『軍事と公論』(慶應義塾大学出版会)、共著に『近代日本政治思想史』(ナカニシヤ出版)など。

[2016年10月5日追記] 本連載を基にした『娯楽番組を創った男 ——丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』が10月下旬刊行されますので、WEBページの掲載は第1回までとさせていただきます。続きはぜひ書籍でお楽しみ下さい。

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