第5回 紛争・迷宮・翻訳

 

 一九九〇年代初めから一気に激化した旧ユーゴスラビア各地の紛争は、サラエヴォ包囲をはじめとする数多くの悲劇と難民を生んだ。ドイツやイタリアといった周辺諸国、さらにはアメリカ合衆国に逃れ、紛争終結後も移住先での生活を選んだ人々のなかから、やがて、新たに習得した言語によって創作を開始する作家たちが現れる。
 それは母国語ではない言語による物語に、自らの母国の物語を織り込んでいく作業である。そして何よりも、書き手を第二言語に誕生させたのは、すべてを理解することなど不可能に思えるような圧倒的な規模の暴力だった。そこから生まれる小説には、必然的に、紛争とそれを語る行為との抜き差しならない緊張関係が刻まれている。
 七歳でセルビアを離れ、アメリカ合衆国に移り住んだテア・オブレヒトは、英語によって『タイガーズ・ワイフ』を書いた。祖父の訃報に接した孫娘ナタリアは、「トラの嫁」と「不死身の男」という二つの謎を追うことになる。物語はやがて過去から現在をつなぐ一本の糸となり、ナタリア自身が経験した現代の内戦を含めた暴力の歴史を浮き彫りにしていく。明らかにセルビアを舞台とする物語でありながら、オブレヒトによる英語の物語は、土地をすべて架空の名前に置き換えたうえに、幻想の鏡に母国を映し出すことを選んだ。
 十代半ばでボスニアからドイツに逃れたサーシャ・スタニシチは、ドイツ語による『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』を発表した。アレクサンダルというボスニア人の語り手もまた、祖父の死からみずからの日々を語り起こしていく。小説の冒頭近くで、アレクサンダルは死んだ祖父と約束を交わす。「とても簡単な約束なんだ︱物語を語るのを、決してやめないって」(三五頁)。
 だが、その約束を実行することは易しくはない。やがて激化する紛争に追われて両親とドイツに移住した語り手にとっては、語るべき物語も、土地も、人々の記憶も、自らとは隔たったところにあるからだ。結果として、スタニシチの語り手は、他者が語る戦争の様子を物語に取り込むという形式をしばしば選択する。自らが不在であることを見据えた彼の物語には、「未完成」というモチーフがいたるところに顔を出す。
 そうした緊張関係を引き受ける、もう一人の偉大な「アレクサンダル」の存在を忘れるわけにはいかない。スタニシチと同じくボスニアに生まれたアレクサンダル・ヘモンである。一九九二年、アメリカ合衆国に滞在中にボスニア紛争が発生したために帰国できなくなり、そのままアメリカに残ったヘモンは、様々な職業を転々としながら、やがて英語での創作を開始した。
 サラエヴォでビートルズを演奏するヨーゼフ・プローネク(『ノーホエア・マン』)をはじめとするヘモンの登場人物たちを、旧ユーゴスラビアの崩壊という歴史に翻弄されたヘモンの自伝的投影、と考えることは可能かもしれない。だが同時に、そのような出来合いの型に小説が収まってしまうことへの警戒心が、ヘモンには常に存在する。戦争難民についてなぜ語るのか、その物語は誰のものなのか、真実はどこにあるのか、という問いが、物語をしばしば分岐させ、主人公の、さらには作者自身の分身さえも登場させて、小説を思いもよらない方向に導いていく。「春がシカゴにパラシュート降下した」(一二三頁)など見事な比喩を散りばめると同時に、読者を突き放すように締めくくられる『愛と障害』の各短篇もまた、語りへの欲求と反発を行き来している。
 ヘモンはそうして、物語の迷宮ともいうべき世界を作り上げた。そして岩本正恵さんの繊細な翻訳は、美しい眩暈にも似たその感覚を日本語の読者にも存分に味わわせてくれた。

◇ふじい・ひかる=翻訳家。同志社大学文学部英文学科准教授。訳書に、D・ジョンソン『煙の樹』、S・プラセンシア『紙の民』、ロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』、W・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、T・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』など。

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