最終回 物語が響かせるこだま

 

 ある作家が属している民族や文化がある。その集団に固有の経験を、その作家は物語として語り始める。その物語はやがて、遠く隔たっているはずの他者や時代につながる道筋を見出していく。
 シンシア・カドハタによる『草花とよばれた少女』(二〇〇六)は、第二次世界大戦中にカリフォルニア州に暮らす日系人少女スミコを主人公としている。日本とアメリカが開戦すると、スミコの一家は財産を没収され、アリゾナ州の砂漠地帯にある強制収容所に移送される。ここまでは、戦後の日系アメリカ人作家たちが描いてきた強制収容の物語を忠実になぞる筋書きになっている。
 ただし、この小説を忘れがたいものにしているのは、スミコが経験する予想外の出会い、つまり収容所の近くに住むアメリカ先住民の若者フランクとの交流が始まるくだりである。どうして収容されているのかを説明するスミコに、フランクはこう言う。「財産を失うのは、お前たちが初めてじゃない」と。
 家も仕事も失ってアリゾナに追いやられた日系人たちの経験と、本来の故郷を奪われて西部にある居留地に押し込められたアメリカ先住民の経験、その二つが、様々な違いを越えて、物語において一瞬通じ合う。こうして、スミコの日系人としての経験は、合衆国に暮らすマイノリティーである他者に向けて開かれるのである。
 物語は、自己の経験を他者に向けて開いてくれる。そのことを、キルメン・ウリベの新刊『ムシェ 小さな英雄の物語』(二〇一五)もまた教えてくれる。第二次世界大戦に先立ち、スペイン内戦を逃れてバスクの少年少女たちが疎開したという歴史的事実がある。そのひとり、カルメンチュという少女の引き取り手になったベルギーの若者ロベール・ムシェは、やがて戦争の歯車に巻き取られていく。
 バスクからの少女が滞在したのは短期間にすぎない。一瞬バスクと交錯しただけの、その若者に、現代に生きる語り手の「僕」は魅せられ、やがてムシェの人生の歩みを調べ始める。「ロベールの物語があたかも僕自身のもののように感じられる」と 彼は言う。他者の物語を通じて、語り手は自分自身の人生における出来事を別の時間軸に触れ合わせ、新たな共感の結び目を作るのである。
 物語はこうして、「私」を形作る境界線を越えていく。そこに、音や映像やインターネットといったメディアとは異なる、小説の特質がある。複数の異なる時間がより合わさり、異質なもの同士が出会うなかで新しい経験を作っていく、そんな出来 事が小説においては起きる。書き手と読み手は、みずからの生きる世界とその「外」との接点を新たに与えられる。グローバル化が世界を近づけたという錯覚が、他者との交錯を困難にする時代において、小説の一つの使命はそこにあるだろう。
 遠い他者と出会い、自分との間で一種のこだまを作り出す物語。小説のもつこの特性は、海外文学との出会いにおいてより鮮明になるのかもしれない。ある言語において育ち、形作られてきた「私」は、異なる言語から発せられた物語に出会い、そこで自分自身の輪郭を変化させる。その営みにおいて、「私」は無数の物語が響き合い、高笑いにも似た不協和音を響かせる場となる。考えてみれば、それは翻訳という、他者の言葉に自らを委ねる行為において最も突き詰めた形で体現されている。
 世界の片隅での読書と、翻訳という営みは、僕にそんな夢を見させてくれる。どれほどささやかであっても、それは小説がもたらしてくれる奇跡なのだし、その奇跡を人から人に、過去から未来に受け渡すために、物語はこれからも長い旅をしていくのだろう。

◇ふじい・ひかる=翻訳家。同志社大学文学部英文学科准教授。訳書に、D・ジョンソン『煙の樹』、S・プラセンシア『紙の民』、ロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』、W・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、T・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』など。

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