第3回 狩猟の秋、幻獣の庭

 秋——来るべき冬籠りにそなえ、たっぷりと脂肪をたくわえた獣が、さらなる食料をもとめて森林や渓谷を跋渉するこの時期は、狩猟の季節でもあった。今でこそ一部の愛好家や職業ハンターらによって細々と営まれている観があるが、ルネサンスのころは、狩猟といえば王侯貴紳らの鍾愛する高貴なスポーツであった。その最大の意義は、平時における軍事訓練の側面であろう。マキァヴェッリは『君主論』のなかで、君主は常に狩猟を通じて肉体の消耗に耐える精神力を養うとともに、多彩な地形を踏破しその特性に習熟することで、有事の軍略に応用すべしと力説している。
 とはいえ軍事一辺倒であったわけではない。狩猟はまた、貴族のみに許された特権的な娯楽でもあった。ルネサンス最高の教養をうたわれた文人カスティリオーネは、著作『宮廷人』のなかで、狩猟こそは貴紳にふさわしい素養のひとつとしている。身体を酷使して動物を追い、乗馬や武器の練度を競う営みが、いつしかリベラル・アーツの仲間入りを果たしたのである。
 そんな狩猟文化と切っても切れない関係にあったのが、庭園であった。一定の土地を囲ってその内部に理想的な自然環境を作りあげる、そんな作庭術の起源のひとつとされているのが、古代ペルシアの王侯たちが営んだ狩猟園(paradeisoi)である。壁をめぐらせた敷地内に狩猟用の獲物を放し飼いにし、水場や四阿、園路などを整備した庭園の一種である。豊穣な自然美にあふれたその魅惑的な王苑を「パラダイス」としてギリシア文化圏に伝えたのが、アテナイの軍人クセノフォン。ここから庭=楽園の見立てが発達してゆく。
 安逸の場たる庭園と、騎馬や勢子たちが猛々しく駆け回る狩猟園とでは、そもそも相容れぬ印象を抱いてしまうが、ルネサンス期イタリアの事例を見るかぎり、両者の区分は曖昧だったようだ。たとえばプラトリーノ荘やカステッロ荘など、メディチ家がトスカーナに造営した珠玉の庭園群においては、園内の森林区画に鳥猟用の罠がしかけられ、あるいは各所に小動物が放し飼いにされるなどして、庭で自由に狩を楽しむことができた。
 一方ローマでは、十六世紀に大狩猟ブームが出来する。そもそも教会においては、聖職者が狩猟に従事することが禁じられていた——はずなのだが、いつしかこうした禁令は有名無実化し、あろうことかローマ教皇自身が率先して狩猟園に幾度も行幸した。なかでも大の愛好家として鳴らしたのが、メディチ家出身のレオ十世である。とはいえ教皇や枢機卿が自ら馬を駆り、弓を取るケースはまれであり、通常は雇われたプロのハンターが獲物をしとめる様子を、望楼などから優雅に鑑賞したようだ。時には数百騎もの騎士が華麗な衣装をまとって草原を疾駆するさまは、さぞかし壮大なスペクタクルであっただろう。
 ローマ近郊に多数造営された広大な狩猟園にはきまって迎賓用のヴィッラが作られ、その周囲には美麗な庭園が営まれた。仕留めた獲物は、庭での饗宴に並ぶ料理となる。十六世紀後半にガンバラ枢機卿が作ったヴィッラ・ランテも、もとは狩猟園であった。けれどもこの庭が整備された時、すでに狩りの機能は廃れていたという。代わりに枢機卿は、ユニコーンだのドラゴンだのペガサスだのを象った玄妙精緻な噴水を作って、庭中を幻想世界の動物で満たした。火器の発達によって戦争が近代化し、華やかな騎馬戦も遠い昔の記憶となりつつあった当時、人々はこの庭で、少々の郷愁とともに中世騎士物語の主人公を演じたのであろうか。

◇くわきの・こうじ=大阪大学准教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。著訳書に『叡智の建築家』、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著)、カナリー『古代ローマの肖像』、ペティグリー『印刷という革命』など。

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