第60回岸田國士戯曲賞選評(2016年)

第60回受賞作品 

『地獄谷温泉 無明ノ宿』タニノクロウ


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演劇と言葉の付き合い方 岩松 了
 タニノクロウ『地獄谷温泉 無明ノ宿』、三浦直之『ハンサムな大悟』、柳沼昭徳『新・内山』の三本を推すべき作品として選考会に臨んだ。私のなかではタニノクロウ氏の作品が二重丸だったので、結果には、当然の気持ちが強い。ただ最後まで争ったのは神里雄大『+51アビアシオン,サンボルハ』だった。
 『地獄谷温泉 無明ノ宿』は、他の候補作品が言葉との必死の格闘があらわななかで、見事なまでの言葉からの解放を感じさせた。地獄谷の温泉宿の冷ややかな空気のなかでの人たちの微熱と発熱のドラマだと言えるだろう。外界から隔てられた感のあるそこで、俗世間を向こうにまわすような熱を帯びる彼ら。その熱の理由は不鮮明であるがゆえに見るものの不安を煽るが、外界と(つまりわれわれの生活と)無関係ではないと感じられるから、目が離せない。この不安は何だ。消え去らぬ露天風呂のろうそくの火がひどく意味あるものに思え、熱を帯びた人たちが狂おしい行くあてのない行動に駆り立てられてゆくことに得心と感動を覚える。その冷と熱のたゆたいが、言葉ではないものによって表現されていることが見事だ。ト書きも、人たちの行動を丁寧にたどり(むろんそれが上演時にはその通りではなくてもかまわない)、人間の行ないとして、言葉と行為の間に何の差があろう、という強固な演劇観を感じさせる。そして現出せしめられた温泉宿の一夜は、独特の人物造形も相俟って、演劇という我々のいる場所から遠く離れたい、という意思にすら感じられた。そうすることが今演劇を発見する手立てだと、私にそう思わせてくれた。
 『+51アビアシオン,サンボルハ』であるが、私はこれを推すことができなかった。これでもかというほどに言葉が吐き出されるのだが、その言葉がほとんど耳に入らない。「演劇か……うーん……」それだけでいいんじゃないの? しゃべりたいことをしゃべれるなら何も苦労はしないさ、と言いたくなった。東京、沖縄、ペルー、劇場と《わたし》は移動しているのだが、実は移動していない。どこにいたって同じ問題について考えているだけだから。言葉は何かへのリアクションになっていないし、見られるはずの肉体が見事に欠落しているのだ。だから私には、冒頭の「(俳優のみが演ずることができる)」という宣言は、自分のそんな性癖をわかっている作者が自己へのいたぶりとして記しているのだと思えた。
 『ハンサムな大悟』は、まさに「ディテールを手に入れて、現実みたいになりました。」のセリフ通り、デタラメのようでいて、一瞬の出来事がすごくリアルなのだ。大悟と転校してきたすみこが会話するその片隅を、まさに片隅にすべくサッカー少年たちが動き回っているところや、肉体を感じない文章のような言葉しか吐かなかったねと言って二度と会わないだろうと別れを告げたその脇で気づけば鳥のカトウが死に絶えている、など、イメージの操りが魅力的で、的確だ。ただ問題は、あまりにもナレーション風のセリフで物語をすすめているところだと思える。次作に期待。
 『新・内山』も魅力的な作品だ。肯定とも否定ともとれる「ああ」が口ぐせのようになった役所職員の内山が、社会のなかで闘わざるをえなくなった話と言えばいいだろうか。社会の大事と役所仕事の些末さが実にうまく対比させられている。妻との離婚話も最小限の会話で上手い。ただ内山を変えていくはずの相原さんとのことが、もう少し深く描かれないと、最後の手紙(たぶん子供を堕ろすということなのだろう)が説得力を持たないだろうと思った。簡潔なセリフで多くを語れる作家だ。これも次作に期待したいと思わせてくれた。

反時代的な言葉の「強さ」と「甘さ」 岡田利規
 受賞作となったタニノクロウ氏『地獄谷温泉 無明ノ宿』のほか、神里雄大氏『+51アビアシオン,サンボルハ』を推した。この二作が圧倒的だった、というのがわたしの見解だ。
 この二作は、これは偶然だが、ともに反時代的な作品だ。しかも対照的な仕方で。そういう意味でもこの二作に同時に授賞できたらいいと、わたしは考えていた。
 タニノ氏は、富山の山奥のさびれた温泉地を舞台にしたこの作品で、われわれ(現代の日本に生きる者)が目を向けずにおこうとしているわれわれ自身の内なる外部を、見せつけた。一方神里氏は、沖縄や、ペルーの日系人コミュニティーを辿る自伝的な旅に、われわれを連れ出して、わたしたちが無関係と考え関心をもとうとしない外部と思ってしまいがちな、しかし内部でもあるはずの場所に、わたしたちを触れさせてくれた。
 タニノ氏の書く言葉・会話は、端正で、色っぽく、抑制が効いていて、でもムチムチしてる。野暮にならないようはっきりものを言う技術があって、堂々としている。「国中が気狂い、血に飢え出したいま、百福の容姿と人形芝居はとくに求められました。人々はいま惨めさを求めているのです。圧倒的な惨めさを!」というナレーションに、わたしは感銘を受けたけれども、これはちと説明的ではないか、などといった難詰が選考会では聞かれるかもしれないと予想し、そうなったときはそんなことはない、これはすばらしいフレーズだ、これは今・ここに存在するわれわれに向けてではなく、その外――地理的な外、そして時代的な外(つまり、未来)――の観客に向けて書かれたフレーズなのだ、とかなんとか反論しようと思っていたが、その機会はなかった。その必要がなかったのだ。選考委員の大多数が、タニノ氏を評価した。
 神里氏の言葉は、人を食っているところ、煙に巻くところ、断然オリジナルな詩情、などなどで観客を、旅へと強引に拉致していく力がものすごい。その強さは疑う余地がないと思ったのだが、他の選考委員――しかも複数の――から、言葉の弱さ、甘さ、が指摘された。神里氏の言葉は、強いのか、弱いのか……。議論が起きたらおもしろいと思う。
 三浦直之氏『ハンサムな大悟』、柳沼昭徳氏『新・内山』、山本健介氏『30光年先のガールズエンド』は、タニノ氏・神里氏には遠く及ばないと言わざるをえないけれども、岸田戯曲賞の最終候補作になったことを不思議とは思わない。柳沼氏の作品は、わたしたちの日常にまとわりつくありふれた諸問題と乖離しないようにしながら、太平洋戦争・広島・福島といった問題を一続きのものとしてとらえる想像力を提示する、というとてつもなく重要なことに挑んでいて、かつその挑戦に成功している。それはほんとうに立派なことだと思う。
 三浦氏の、すぐれた言語感覚でもってひとりの平凡な現代人の人生を、ほとんど神話的と言えるようなエロ・糞尿的イメージをぶつけて描く仕方には、独特で、そして切実な開放感があった。山本氏はそれと対照的で、現代の白けや閉塞を打ち破れないことのなかにとどまり、もがくような書き方をしていて、とても時代的である(今回のわたしのこの選評、反時代的であることをフィーチャーしているけれど、時代的なことがダメなわけではない。と念のため書き添えておく)。
 根本宗子氏『夏果て幸せの果て』、古川健氏『ライン(国境)の向こう』、ペヤンヌマキ氏『お母さんが一緒』については、わたしはまったく評価できなかった。この三作が最終候補作となっていることには、そのノミネートの過程に携わった人々に対して、ここで疑問を呈しておきたい。

「これを戯曲と呼べるか」という問い ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 選考会は毎度、配布されたシートに○、×、△の三段階で評価をつけることから始まる。議論の前に、何はともあれ、各々の評価を示してもらいましょうということだろう。私は今回、のっぴきならない事情でこの第一回投票に間に合わないことが事前に判っていたため、前日の夜、あらかじめ担当の方に自分の評価を伝えておいた。○をつけたのは授賞作『地獄谷温泉 無明ノ宿』(タニノクロウ)と『+51アビアシオン,サンボルハ』(神里雄大)の二作。△をつけたのは『ハンサムな大悟』(三浦直之)、『新・内山』(柳沼昭徳)、『30光年先のガールズエンド』(山本健介)。×をつけたのは残り三作ということになる。
 先に苦言を述べておくと、×をつけた三作は、どれも候補作として残ったことが疑問に思われるものばかりで、毎年一本はこうした作品が残るが、今年は目に余った。一言で言うならあまりにも稚拙だ。スキルを伴わない作品を机上に乗せるのであれば、それに代わる何かが必要だ。いや、そんなこと言われても迷惑なのは当の作家だろう。候補作に残すだけ残してボロクソ言われてもねぇ。下読みの担当者には、ぜひとも今後、この点をご考慮願いたい。作家のためにも、選考委員のためにも、なにより岸田國士戯曲賞の名のためにも。
 △をつけた三作は、どれも魅力的だった反面、その魅力を大きく減ずるような欠点も見受けられた。『30光年先のガールズエンド』において、「スタジオの外ではゾンビが闊歩している」という日常が果たして必要だったのか。『ハンサムな大悟』における劇中劇のテキストはあれでいいのか。小劇場事情に疎い私のような外野には、カリカチュアライズされた内輪ネタなのかまったくの創作なのかも判然とせず、読んでいて居心地の悪さを感じてしまう。『新・内山』には△のなかで最も好感を抱いた。ある男の人生の、ごく短い期間を切り取っているだけなのに、そこに社会のあらゆる悲哀が見える。見事だ。が、同時にクエスチョンマークの数も多かった。広島の被爆者の「声」が生々しいトーンで語られる場面では正直シラけてしまった。祖父と祖母の回想シーンもああした形で書き込む必要性は感じられず、「しんすけ君」という、主人公の妻の弟の存在も不可解で、その不可解さは面白味に繋がっているように思えなかった。中途半端だ。
 三浦、山本、柳沼の三氏の今後には大いに期待したい。本当だ。
 さて、最初の投票で○をつけた『地獄谷温泉 無明ノ宿』と『+51アビアシオン,サンボルハ』の二作について。
 最終投票直前、前者は多数の歓迎をもって、すでに授賞が内定したが、後者は三対三で可否が分かれた。今年は選考委員の数が六名と偶数だったのでこういうことが起こってしまう。結論から言えば、私が推すのを止めたことで、授賞作は『地獄谷温泉 無明ノ宿』のみとなった。私の優柔不断さが招いた結果のように思われては損なので弁明を。
 「はたしてこれが戯曲と呼べるのか」というのが大きな議論の焦点となった。「モノローグではなくダイアローグで書くべきだった」と言う選考委員もいて、もちろんダイアローグで書くことも可能だったろうが、私が魅かれた理由は異様なまでのモノローグの強度にこそあった。不意に台詞を脱臼させ、クスッと笑わせたり、「なんだこれは」と啞然とさせる(いや、時として失笑させたりもするのだが、それも「登場人物につまらない冗句を口にさせる」という相対的視点からの意図だとする意見もあり、私も同意する。ものすごいことを言うようだが、つまらないことも言いたいという作家の欲求を面白がることが、この作品の場合、私にはできたということだ)センスにも感嘆した。はたしてこれをどうやって上演したのだろうという興味も湧き、そうした興味が湧くこと自体、「戯曲」として認めている証だ。また、散見される独特な比喩等の表現(陳腐でしかない、という意見もあった)も、私には心地良かったし、美しいとも感じた。自分には書けないと思った。
 不勉強な私は佐野碩という人の存在も知らず、戯曲の末尾に添えられた「参考文献」の注釈で、初めてこの戯曲が実際の人物をモチーフにしていることを知ったのだけれど、そんなことは問題にならないぐらい刺激的に読めた。ではなぜ身を引いたのか。いくつかの台詞割りに強引さを感じたのは事実。終盤突然登場する「ある女」は唐突に感じられ、他にも、台詞を割る必要はないのではないかと思える部分がいくつかある。改めて読み返してみると、抽象的な作劇であるがゆえに、かろうじてかわすことができているものの、もっと詰められるだろう箇所も見受けられ、授賞作と同等に評価しなかったことを良かったと思っている。△をつけた三名と同じことを言うようだが、神里氏の今後にはひときわ期待している。個人的に読ませてくれと言いたいぐらいだ。
 『地獄谷温泉 無明ノ宿』は圧倒的だった。エロティックな解放感にあふれた“生理的な”戯曲だ。宿の玄関、部屋、脱衣場、湯殿と、舞台が転換し、物語が進展するにつれ、登場人物も次第に自己を露呈し、裸になっていく。主人公父子が扱う人形の描写にもワクワクさせられた。ラストのあっけらかんとした明るさも意表を突く。まさに授賞に値する一作だと思う。

「気配」の奥から顔を出すもの 野田秀樹
 タニノクロウ氏の『地獄谷温泉 無明ノ宿』を推した。
 始まりからずっと続く、何かが起こりそうな気配、何かが起こっている、あるいは起こったことがある、そんな気配。その気配こそが、「日本」が持っている、「奥の奥で一体何をやっているの? 何が行なわれているの?」感に近い。そして、その「気配」をタニノ氏は、見事なまでに描ききったと思う。江戸川乱歩の世界に憧れる人は多いが、その乱歩の「気配」にも肉薄している。肉薄できる作家は少ない。この「肉薄」という文字さえ、この作品の「気配」の一部に感じられる。「白い肉薄」とでも言えばいいのか?
 その「気配」をずっと引っ張っていくのは、人形師がトランクのなかに入れて旅している「人形」であり、肉体を持たないものが闇から「肉薄」してくる。作品の大切なものを「人形芝居」に託した場合、無責任に終わることが多い。だが、タニノ氏は、そこも書ききっている。「ホムンクルス=裸の人形のだらりとした大きな陰茎」というイメージをもって、この中核部分の人形芝居も書ききっている。
 風呂屋の「三助」と「子宝の湯」の関係が、作品のなかに現われず、作品の外=(註)という形で説明されるのだけが残念だが、ま、残念というのは、その「三助」と「子宝の湯」の関係が、あっと思わせるくらい、巧みな仕掛けになっているからでもある。
 読んでいる側は、ずっといけないもの=「気配」を「覗き見」している気になっているのだが、最後に、読後感が優しい。その巧妙な「三助」と「子宝の湯」の仕掛けゆえにである。心憎いキクバリである。
 そういえば、気配は、気配りとも読める。この芝居が、優しく感じられるのは、「気配」と言うものに含まれる、そんな要素であるかもしれない。あれほど悲しい寂寥感とまで呼べるような「気配」で全編包みながら、なんと「気配」の奥から顔を出したのは、「子宝の湯」で、子供が生まれるというエピローグ。実に気配りされた「気配」の終わらせ方である……感心してしまう。
 その他の候補作品のなかでは、三浦直之氏の『ハンサムな大悟』を面白く読んだ。作者は、「演劇」という手法をとにかく面白く遊びきっている。テーマがどうとかというよりも、演劇は、これだけ遊べるのだ、と言う姿が見える。徹しきっている。そして、使っている言葉が面白い。岸田賞候補になったことなど気にせず、今後も無関係に演劇を面白がってくれると、どういう作品を作ってくれるのだろうか? 楽しみである。
 神里雄大氏の『+51アビアシオン,サンボルハ』は、他の選考委員の評価も高く、私も面白く読んだのだが、その面白さは、私には、創作ノート、取材日記、あるいは紀行文として読める面白さであり、戯曲と呼ぶには、劇作家本人のなかでの、書き捨てなければいけない部分が沢山あるように思われた。偉そうではあるけれども、私は、書いたけれども、捨てなくてはいけない、書かなかったものを含めて「劇作家」である、と勝手に思っている。神里氏の作品は、書いたものを全部見せてしまっているように思われた。ただこれも年とった劇作家の言っていることだから、神里氏は気にせず、これからもどんどん書き続けてください。

静謐な筆運び 平田オリザ
 候補作のなかではタニノ氏の作品が圧倒的に素晴らしく、これ一作の受賞で問題ないだろうと考えて選考会に出席した。初めての選考委員だったので、他の方と大きく見解が異なることを心配したが杞憂に終わった。
 タニノ氏の『地獄谷温泉 無明ノ宿』は、その静謐な筆運びが何より印象に残る。何者かに呼ばれた人形師という設定が、シンプルではあるが力強い演劇的構造をもたらし、最後まで軸がぶれない作品となっていた。他の作品が、どこか書き切れなかった印象があったり、あるいは緊張感が持続できていなかったりしたのに対して、タニノ氏の安定した筆致は際立っていた。
 北陸新幹線の開通と閉鎖される温泉宿というきわめて通俗的な背景を、抑制された表現で文学的な世界に昇華させた手腕は見事としか言いようがない。
 同時授賞に値するかどうかが議論された神里氏の作品に関しては、自己の経験(取材などを含む)を戯曲の言葉とする際に、劇作家が行なうべき作業について考えさせられた。はたしてその一つ一つの言葉の選択は適切か。またその作業自体を、どこまで客観視できるのか。劇作家にとってもっとも難しいこれらの事柄について、この作品は多少無自覚なのではないかという印象が残った。
 他のいくつかの作品は、才能の輝きはあっても、バランスに欠けていたり、戯曲を構成する技術が明らかに不足していて上記二作品に比べると大きな隔たりがあったように思う。選考会のあとに、私以外の委員は皆、一回目のノミネートで岸田賞を受賞していることに気がついた。落選の悔しさは、それを経験した者にしか分からない。ぜひ、その気持ちを次回作に、ストレートにぶつけて欲しいと願う。
 タニノ氏の年齢をあとから聞き、三十代のうちに受賞できたのはとても良かったと素直に思った。本人も、今回は、満を持しての執筆であり、自信を持っての受賞だったのではないかと思う。岸田戯曲賞は、できることならば、そのような真っ向勝負の作品が受賞するべきだろうとも思った。
 タニノさん、おめでとうございます。

肌理こまやかな「上演台本」という戯曲 宮沢章夫
 受賞の結果にはまったく異論はない。
 むしろ、タニノクロウの『地獄谷温泉 無明ノ宿』に漂う不思議な味わいは、作者の特別性と書いてもよく、かつて候補になったタニノの、『星影のJr.』を強く推したときもそう感じたが、その説明の希薄さから感じるのは、では、この人物は何者なのか、その背景になにがあるかなど、はっきり書くことを、あえてしようとしない印象だ。
 だからよくわからない。
 数年前の『星影のJr.』では、父親の職業が最後までわからなかったし、本作においても、書かなくていいこと、省略しても構わないことは書かないという作家の確固とした態度がある。そして、だからこそ奇妙な質感がにじむ言葉が巧みに紡がれ、ゆったりとした時間が流れてゆくのを感じる。それが心地いい。
 いったい人形師の親子はなぜこの温泉宿に来たのだろう。
 届いた手紙に導かれてこの宿に来たとはいえ、手紙を書いたのが誰なのかわからない。宿に着いても差出人に出会える様子はなく、二人の相手をするのは、温泉をしばしば利用している滝子という老婆であり、ほとんど視力を失った松尾という男だ。いつか答えが出るのかと思っても期待は裏切られる。人形師の親子の周囲を包む静謐さとは裏腹に、芸妓たちのにぎやかな姿が対称的に描かれるとき、いくつもの種類の声や音によって劇の世界が築かれてゆく。
 テキストのはじめ、演出上の指示が数点、ト書きとして記されるが、その直後に書かれた言葉が印象に残った。
「故郷・富山県に。/宇奈月温泉と八尾の町に。/北陸新幹線の開業により消失した多くの生命に。」
 そして、それに続いてタニノクロウはこう言葉を続ける。
「その戦いに。」
 森に響く様々な声が聞こえるような神話的世界は、読む者を奇妙な世界に誘う。これはまぎれもなく、すぐれた「戯曲」である。
 では、三浦直之の『ハンサムな大悟』はどうだったか。けっして積極的にそれを推さなかったが、たいへん興味深く読むことができた。候補作のなかで、もっとも印象に残ったと書いていいかもしれないが、それというのも、「上演台本」と記されるのにこれほどふさわしい姿をした作品はほかにないからだ。つまり、上演のために書かれたテキストであり──けっして意識的にそうしたのではないだろうが──、内部の関係者だけに了解され、舞台の中身が理解されればいいテキストから、外部の者(=他者)に向けて書く態度をほとんど感じさせない。
 たとえば、次のようなト書きをどう理解したらいいだろう。
「制作が登場し、挨拶をはじめる。」
 この「制作」がよくわからない。
 ちなみに──誰に向けているのかわからないものの──、テキストは、まず、「人物表」によって始まる。よく知られているように、どういった「役」があるか説明する形式的なそれによると、一人の俳優がいくつもの「役」を演じることが指示されており、「板橋駿谷」という俳優には、「ジョン/旦那/美千代先生/黒松/板橋駿谷/ナイスフルーツ/真後ろ」と七役があてられている。出演する俳優は五人だ。それぞれが何役も演じることがこれでわかる。けれど、「人物表」のどこにも、「制作」という「役」はない。さらに読みを進めると驚くべきト書きに出会うことになる。
「ももちゃん、でてきて、前説。」
 この「ももちゃん」も誰のことかわからない。もちろん「人物表」にもない。誰が演じるのか不明だが、ただわかるのは、「ももちゃん」を演じるのは、「ももちゃん」しかいないということだ。なぜなら、「ももちゃん」だからだ。
 この途方もない破綻に感心した。
 けれど上演する者ら、演出家、俳優、スタッフはそれを破綻だとは感じていないだろう。あたりまえのこととして理解しているだろう。他者がこれを手にしてわからなくても、そんなことはどうでもいいという態度がここにはある。厳密に考えればひどくいいかげんな書き方だ。つまり、もっとも「上演台本」と呼ぶのにふさわしいテキストであることによって、すぐれた「戯曲」とはべつの意味で読む者の興味をひく。もちろん、作品としてもいくつかの部分に魅力を感じた。
 テキストの冒頭に、「舞台は膜で覆われている。」とある。
 作者が意図する仕掛けがまず提示され、その三行ほどあと、「大悟は、布のなかに潜り込み、生まれるための準備をしはじめる。」と書かれるように、舞台を覆う布──最初は「膜」と記されていた、それ──に潜りこむことで表現されるのは、あきらかに母親の「胎内」だ。生身の俳優を前提にした演劇で、「胎内」を表現するのは、やり方によってはきわめて陳腐になるが、舞台を覆う布という簡単な仕掛けが巧みにそれを出現させる。同様に、いくつもの断片や部分、ディテールに興味をひかれるが、「ももちゃん」のような、(肯定的な意味で)いいかげんな書き方もまた、評価されてもいいと感じる。さらに、「蛍光灯、大きな木の近くに立っている。」というト書きのすぐあと、その「蛍光灯」がいきなり話し出すのもいい。
「いっつも最後まで歌えないんだよね」「うたってる最中にすげー不安になってきてさ、途中で心折れんの。ご覧のとおり、鳥になりたいわけ、あたし。」
 蛍光灯のくせになにを言い出したのかと思う。しかも、言ってることの意味がよくわからない。そのわからなさが魅力的だ。「歌えない」と漢字で表記したあと、すぐ、「うたってる」とひらがなで書いて表記を揃えないのも、これが「上演台本」だからだ。他者に読まれることなど前提にしていない。
 神里雄大の『+51アビアシオン,サンボルハ』は、「新潮」の二〇一五年六月号に掲載された。文芸誌に作品が掲載されるまでの経緯は──あくまで私が小説を発表した経験でしか知らないが──、何人もの編集者、校閲者によるチェックを通過しなければならない。だから、三浦の書き方のような、「歌えない」と漢字を使ったあと、すぐ、「うたってる」と書いて、表記にばらつきがあれば、当然のように直しが入るだろう。テキストとして、エクリチュールとして、「戯曲」を、「読むもの」として他者に届ける作業はきわめて精緻だ。おそらく、『+ 51 アビアシオン,サンボルハ』もそのような手続きを踏んで発表されたにちがいない。
 これは「上演台本」ではない。だからというわけではないが、「戯曲」として、神里雄大の作品を積極的に私は推した。
 タイトルにある「+51」は、ペルーの国際電話番号だ。あたかも私小説のような文体で語られるのは、自身の生まれた土地である南米での体験だが──と、それを知ったのは、かつて対談をしたことがあるという個人的な事情があるからだが──、それは「器」でしかないだろう。書こうとしているのはもっとべつのことだ。かといって、「メキシコ演劇の父」と呼ばれた、佐野碩とおぼしき人物が「セキサノ」という名前で登場しても、べつに「佐野碩の評伝」を書こうというのではない。どれもが手法(=器)としてあり、手法(=器)としての「私小説」であり、手法(=器)としての「旅行記」や、手法(=器)としての「佐野碩の評伝」だ。それらが複層的に書かれる。そうして、いくつものレイヤーを重ねたときに出現するのは、むしろ神里の演劇観、いや、もっと大きな世界観として読める。佐野碩が、戦前の日本共産党員であり、治安維持法で拘留されたのち、ソ連に渡ったという歴史を前提に、「わたし」がその男に反駁するのは、その男、つまり、「セキサノ」が自身の演劇観を強い調子で語るからだ。
「左翼だのプロレタリアートだの、いまどき誰もそんなことに情熱をかたむけていません。自分のこと、それからちっぽけな悩み、見せかけの恋愛と空虚なカタストロフィー、そんなことばっかりです。それから一部の自称知識人が政府に対しての苦言をネットにつぶやくくらいで、演劇はますますその意義を見失っています」
 いつだったか、演劇を専門にするジャーナリストから、岸田戯曲賞の候補になった作品の大半が「上演台本」であることについて質問された。その疑問はつまるところ、「上演台本」は、「戯曲」なのかどうかということだっただろうし、もっというなら「戯曲賞」の意味だ。これは何年か前の選評にも書いたことがあって繰り返しになるが、そのような疑問はほとんど無意味ではないか。「上演台本」もまた、「テキスト」であり、「書かれたもの」だ。かつて、演劇雑誌をはじめ、さまざまな媒体に、「テキスト」が上演前に掲載される時代があった。あるいは事後的に上演されてから掲載されることが盛んだった歴史がある。
 けれど、「戯曲」も、「上演台本」も、「テキスト」であることに変わりがない。ある時代まで、それらは一様に「戯曲」と呼ばれていた。六〇年代から七〇年代に活躍したある劇作家の当時の「テキスト」が、稽古場で生まれ、ある場面は俳優たちが作った話を聞いたことがある。またべつの劇作家は、すべて口立てで台詞を俳優に伝えたという。それもまた「戯曲」と呼ばれるのは、演劇のために書かれた「テキスト」は、あらかじめ、「戯曲」として存在するからだ。
 神里作品のなかで「セキサノ」はこう語っている。

 「戯曲っていうのは素材だよ、人間で言えば肌だ肌。」

 つまり、「上演台本」である。
 読むための「戯曲」として、それに耐えうるかどうかは、読む側に委ねられる。
 すぐれた「戯曲」があるように、すぐれた「上演台本」がある。タニノクロウの『地獄谷温泉 無明ノ宿』はまさにそうだった。
 ときとして三浦直之のような「上演台本」が存在し、演劇の「テキスト」を考える手がかりを与えられる。
 ほかにも、山本健介の『30光年先のガールズエンド』も印象に残ったが、これもまた「上演台本」だった。きわめて丁寧に書かれていたし、興味深い内容だが、やはり「上演台本」であり、ごく一般的な演劇のための「テキスト」だ。
 不幸なのは、「戯曲」を発表する媒体がほとんどないことだ。上演さえ決まっていないテキストを、「戯曲」として読むことのできる場所がないことだ。

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