第10回 ヴェネツィアとパリ

 モンテーニュは「心を自分のなかにen soi立ちもどらせ、引きこもらせないといけない」(1・38「孤独について」)といってから、自分のいる場所と孤独の関係について、「都会や国王の宮廷のただなかでも、孤独を享受することはできるけれども、ぽつんと離れているほうが、より心地よくそれを味わえる」(1・38)と書いている。そして、彼は村の城館に引っこみ、さらに塔の書斎に引きこもる。ここで興味深いのは、彼の心には都会の孤独という観念も宿っていたことだと思う。冒頭の「心を自分のなかに立ちもどらせ、引きこもらせないといけない」は、セネカ『倫理書簡集』7の「できるかぎり君自身の中へ沈潜したまえ」(高橋宏幸訳、《セネカ哲学全集5》岩波書店)が発想源だとされる。で、その書簡を読むと、「君が何を避けるべきか、とくに心得ておくべきものをお尋ねかな。それは群衆だ」(同上)とあるから、ひょっとしたら、このあたりから都市・群衆のなかでの孤独というイメージが生まれたのかもしれない。わたしは『エセー』のこの個所を読むたびに、「群衆。孤独。活動的で多産な詩人にとって、たがいに等しく、置き換えることの可能な語」(『パリの憂鬱』「群衆」阿部良雄訳、ちくま文庫)と書いたボードレールを思い出してしまう。
 では、モンテーニュが好きな都会は、あるいは気になる都会はどこだったのだろうか? それは当然、故郷ボルドーなのかもしれないが、あまりに即自的en soiすぎて、『エセー』では言及されることがほとんどない。ボルドー・ワインの話題も登場せず、逆に「どのワインが最高かと聞かれたディオゲネスは〈よその家のワインだ〉と答えているけれど、わたしも同じ意見なのである」(3・9「空しさについて」)と、誤解されかねない発言が飛び出す。たまにボルドーとあると市長職がらみで、「ボルドー市の参事会の諸氏は、わたしがフランスから離れていて、そのようなことはまったく考えてもいなかったときに、わたしを市長に選出した。わたしはこれを辞退したものの、この件には国王のご命令も介在しているのだから、断るのはまちがっていると知らされた」(3・10「自分の意志を節約することについて」)といった具合だ。
 モンテーニュにとって、もっとも気になる都市はヴェネツィアだったと思う。その大きな理由は、『エセー』初版(1580年)の、亡き親友ラ・ボエシーに関する個所に、「わたしは、もしも彼が選択を迫られたならば、サルラ〔ラ・ボエシーの生地〕よりもヴェネツィアに生まれることを望んだであろうことも知っている」(1・27「友情について」)とあるからだ。これは、ラ・ボエシーの主著の次の個所に対応している。「ヴェネツィア人は、きわめて自由に生きているので、一番のならず者ですら、みなの王になりたいなどとは考えない、稀有な民である。彼らは自由を維持するための熟慮と警戒においてはだれにも負けないという気概だけを抱いて生まれ、育つ。[…]ヴェネツィア人を見たあとで、われわれが〈大帝〉〔オスマン帝国のスルタン、圧政の象徴〕と呼ぶ者の土地に赴いたとしよう。そこで目にするのは、ただ隷従するためだけに生まれ、その者の権力を維持するためなら命をも投げ出さんとする人々だ」(ラ・ボエシ『自発的隷従論』山上浩嗣訳、ちくま学芸文庫)。自由な共和国ヴェネツィアというのは、必ずしも実態を反映してはおらず、幻想に近い。でも、ルネサンスのユマニストたちにとっては、「ヴェネツィア神話」の磁力はとても強かった。ラ・ボエシーも、この神話に囚われた人間であって(ヴェネツィア滞在経験はなさそうだが)、モンテーニュに「ぼくはできればヴェネツィアに生まれたかったんだ」とかなんとか熱く語ったにちがいない。そう思って『エセー』をめくると、こんな一節にぶつかる。「自分の屋敷に引っこもうと心に決めて、いさかいの訴訟もなしに、家を治めることができる人は、ヴェネツィアの総督と同じく、自由なのですから。《隷属はわずかな人々をとらえるにすぎません。多くの人は、自分から隷属にとりつくのです》(セネカ『書簡集』)」(1・42「われわれのあいだの個人差について」)。自由・ヴェネツィア・隷属、ここではセネカが引かれているものの、明らかにラ・ボエシー『自発的隷従論』の影響が見てとれる。亡き心友が理想化した都市ヴェネツィアを、モンテーニュが訪れないはずはない。旅の途中でも、秘書に「ヴェネツィアを見ておかないことには、ローマにもイタリアの他のどこにも、落ちついて足をとめることができないだろう」(『旅日記』関根秀雄・斎藤広信訳、白水社)と話している。だが、期待が大きいほど、失望も大きくなる。ヴェネツィアの政治システムやサン・マルコ広場などには感心したものの、「この都市はいろいろな珍しいものでは相当有名であるが、殿は、来て見て想像がはずれた、と申された」(同上)というのだ。1週間という滞在期間の割に、ヴェネツィアに関する記述はとても短いのである。
 もうひとつ、おもしろいことがある。孤独と場所というトピックについて、モンテーニュは次のように書いた。「したがって、遠くで、一人きりで死ぬことは、大した不幸ではないのである。われわれはそもそも、死ほどぶざまでもなければ、忌まわしくもない、自然の行為をするときにも、どこかに引きこもってすべきだと考えているではないか。[…]そうした衰弱した状態になったなら、わたしは隠遁の地として、ヴェネツィアを選びたいと思う。老いさらばえることとは、孤独であるべき性質のものだ。わたしは本来、極端なまでに社交的な人間なのだけれど、これから先は、自分の迷惑な姿を、世間の目からは遠ざけて、これをひとりひそかに抱きかかえていくことが、そしてカメのように、自分の殻に閉じこもり、思いを凝らすことが分別だと考えている。相手にしがみついたりせずに、人間たちを眺めることを学んでいるところだ。こんなに険しい峠でしがみつくのは、彼らにとっても迷惑千万であろう」(3・9「空しさについて」)。念のために説明しておくと、これは『エセー』の第3巻、1588年版で活字になった個所である。ところが、上の「そうした衰弱した状態になったなら、わたしは隠遁の地として、ヴェネツィアを選びたいと思う」という一文は、手沢本(「ボルドー本」)ではそのままだが、わたしが底本とした1595年版では削除されている。まあ、ヴェネツィアへの幻滅という流れからすると、削除されて不思議はない文章だという気がするものの、1595年版への依怙贔屓だといわれるかもしれない。
 では、彼が本当に偏愛した都市はどこかというと、首都パリなのである。「ここで忘れずにいっておきたいのだけれど、わたしはパリを意地悪な目で見るほど、フランスに腹を立てているわけではない。子供のころから、わたしはパリに魅せられていたのだ。そして、優れたものがそうであるように、その後、それ以外の美しい都市を見れば見るほど、パリという都市の美しさが迫ってきて、わが愛情を勝ち得るということが起こったのだ。わたしはパリそのものが好きで、余分にごてごて飾られたよりも、そのままの姿のほうがはるかに好きなのだ。そのいぼやしみまでも、優しく愛しているのである。この偉大な都市があるからこそ、わたしはフランス人なのだ。人口に置いて偉大であり、地理的条件に恵まれている点で偉大であるが、なんといっても、その多種多様な娯楽において、比類がなく偉大なのである。これこそフランスの栄光であって、世界でもっとも気高い誉れのひとつといえる。神よ、われわれの不和分裂をば、パリから遠くに追い払いたまえ。分裂することなく、全体がひとつにまとまるならば、パリは他からの暴力から守られると、わたしは思う。わたしはパリに告げる——「すべての党派のうちで最悪なのは、パリを不和におとしいれる党派なのだ」と。わたしはパリのためにも、パリ自身のことを危惧している。とはいえ、むろん、この国の他の部分を危惧するのと同じだけ、パリのことも危惧しているのだ」(3・9「空しさについて」)
 「いぼやしみまでも」好きと、惚れ込み方も尋常ではない。ただし、マイナス点もある。「宿に泊まるときに、わたしがいちばん気をつけるのは、いやな匂いのする、重苦しい空気を避けることだ。ヴェネツィアとパリという、ふたつの美しい都には、特別の愛着をいだいているけれど、ヴェネツィアは沼地のせいで、パリは泥のせいで、鼻につーんとくるのが玉に瑕(きず)である」(1・56「匂い」について)。これは1588年版『エセー』での加筆、減点に関してヴェネツィアとパリが並んでいる。でも、「空しさについて」の章におけるパリ礼讃の結語に注目したい。「この都市があるかぎり、わたしは、最期を迎えるための隠れ家に事欠かないはずだ。ここさえあれば、他の隠れ家への未練の気持ちも忘れさせてくれるのに十分であろう」とあるではないか。「隠れ家」としての都市の究極はパリということになる。「隠遁の地」ヴェネツィアという個所が最終的に削られてたのは、この価値判断と連動しているように思われるのだが。

(初出=雑誌『ふらんす』2017年1月号

◇宮下志朗(みやした・しろう)
放送大学特任教授・東京大学名誉教授。主な著書『本の都市リヨン』『神をも騙す』、主な訳書ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(全5巻)、モンテーニュ『エセー』(全7冊)

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