小池昌代「詩と幼年──水の町の物語」詩に出会ったころ(21)父のカード

 ふくよかな祖母が湯船に入ると、湯が風呂桶をざざざあっと溢れでる。こぼれた湯の分量が、すなわち祖母の質量である。さあ、計算せよ。算数の例題にはなりそうだが、覆水は盆に返らず。あふれた湯は、いずこへか、流れ去る。
 それは祖母の贅沢な至福のひとときだったかもしれない。お湯の時間は、一日が無事に終わったことの証でもある。たくましく溢れた湯の音にまざって、「あーあ」という溜息も聞こえる。それは快楽があげる声にも、深い悔恨の声にも聞こえた。
 生きることは難儀だった。湯を溢れさせないことには晴れない鬱屈があったとして、それは言葉にはならないものだったろう。実際、祖母はそれを口にはしなかったし、もしかしたら自分がそんな鬱屈を持っているということすら、自覚しなかったかもしれない。ただ、あの行いは、溢れさせないことにはどうにも収まらないというように、至極当然に続けられた。あれこそ、日常にあいた非常口だったのかもしれない。
 嫁だった母は、もっぱら現実的、経済的理由から、そんな祖母のふるまいを冷ややかに見ていた。湯船に入る前に体を洗い、お湯を前もって減らせば、溢れさせるようなことはないのにと、言われればその通りとしか言えないことを子供だったわたしにつぶやいた。同じことを当人に告げたかどうか。言って聞くような祖母ではなかったが。
 祖母の側に立てば、わかっていてだめなほうを選んでしまうこともあるし、無駄とわかってもやってしまうものだと、擁護してあげたい気持ちはある。
 人はどうやって自分をなだめているのか。どうやって、気の抜ける逃げ道をこしらえているのだろう。
 祖母は隙間の多いひとだった。無駄を重ね、人にだまされ、よく笑い、買い物が好きだった。商家のおかみさんとしては、まったくダメな妻であり、それがなんとなくの、皆の共通認識だったが、死んだ祖父は、そんな祖母を見限りながらも、怒らずどこかで許し暮らしていた節がある。そしてよくできた嫁である母に、一家のお金の状況、楽しく生活するコツなどを、折々、遺言のように語っていたらしい。
 例えばその一つが、「お金をかけなくていいから、四季折々の行事や、家族の誕生日、入学祝いなど、節目の行事だけはきちんとおやりなさい」というもので、これはわたしなども心にとめて生きている。五月人形を飾ってやれなくても、菖蒲の葉っぱをお風呂に浮かべるだけで、なんとなくうれしい。生活が華やぐ。家族とは実に面倒なものだが、束の間、この世を生きる、最小単位の仲間でもある。なぜだか不思議な縁に導かれ、小さな舟に同乗しているが、この船旅は永遠に続くわけではない。いつかは終る。ばらばらになる。
 あのころ母は台所などで、一人静かにタバコを吸っていることがあった。あれが母なりの鬱屈の晴らし方の一つだったのか。知らない人がそこにいるようで、子供だったわたしはどきどきした。タバコを吸うことくらいなんでもないことなのに、罪を犯しているような雰囲気があり、実際、母は、その行為を小さい悪事のようにして、わたしたちには隠していた。けれども家族はみんな知っていた。知っていて特に口にすることもなかった。
 商家の嫁として想像できないくらいの苦労をし、体が健康だったこともあり、人一倍働いた母は、本当はたばこくらいでは解放されないものを抱えていたはずだ。逃げ道はタバコでなくともよかったのだと思う。ともかく何か、人には告げえない秘密の行い、秘密の儀式というものが母には必要だった。母だけでなく、人にはきっと。

 お酒を飲めない父は、夕食のあと時々トランプをした。後に「クロンダイク」という名を知ったが、一人で行う遊びである。1枚から7枚まで階段状に7つの山を作り、それぞれ最後のカードだけめくっておく。残りの山札(場札)と手持ちのカード(手札)を使いながら、数字を赤黒交互に、13から1へと並べていく。伏せられたカードがすべて開けば、大変ラッキーなこと。だがそんなことはめったになくて、たいていは途中で行き詰まってゲームは自然消滅となる。
 「クサッタ」と父は言い、カードをぐしゃぐしゃに混ぜる。そうしてまたカードを切って新しく並べ始める。そんなことを何回か続けるが、どこでおしまいにするかは、父も知らない。父の心も知るまい。節くれだった指だけが知るというように、指先が動けばゲームは再び開始される。祖父もやっていたというその一人遊びのトランプ。教わった記憶はないが、時々、わたしもやることがある。
 簡素極まりないゲームだけれど、伏せられたカードをひっくりかえすとき、小さな期待や希望が泡立つ。泡立っては裏切られ、失望したりもするが、また、次の期待でカードをめくる。プラスチックカードのひんやりとした感触は、誰とも共有しないわたしだけのもの。裏が次々に表になって、世界の謎が剥かれていく。
 えんえんと何もしゃべらずにそれをやり続ける父を見て、どこが面白いのだろう。なんて陰気なゲームだろうと思っていた。
 同じことを自分も続けながら、ぼうぼうと草のはえた荒地を均しているような気分になってくる。
 「何やってるの?」と子供が聞く。この子にはこんな陰気なゲームを引き継ぎたくはない。そう思いながら、でもこんなものでも、慰めになる日がきっと来るような気もして、それは必ずしも幸せなこととは思わないにしろ、「簡単よ。赤黒交互に数字を並べていくの」と言う。子供の目が輝き出す。
 カードの照り返しが、光のように父の顔を照らしていたこと。同じ顔に、今度は別の瞬間、さっと影がさすこともあった。やがて飽きが来て、祖父は、父は、わたしは、一人遊びから足をぬく。全て遊びを切り上げるときには、清々しい寂しさがある。
 こんなばかばかしいことをいつまでやっているんだ。さあ、そろそろ切り上げなさい――それはわたしのなかから湧く、聞いた記憶のない祖父の声である。そのばかばかしいものになぜ人は耽溺するのか。耽溺から再び立ち上がるためにこそ、耽溺する必要があるというように、父も祖父も背中を丸め、一人、沈んでいった時間があった。
 ゲームを終えたトランプカードは、どこかよそよそしく他人の顔をしている。丁寧に四隅をそろえられ、箱のなか、とても静かに固まっている。人の鬱屈や罪を吸い取った分、たぶん、少しだけ重みを増して。

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