岡崎武志「愛書狂」第40回

 

 二〇一六年は夏目漱石没後一〇〇年、一七年は生誕一五〇年と記念年続きで、文豪の名をあちこちで見る。その弟子として寺田寅彦の名も、担ぎ出されたりする。この物理学者は随筆の名手でもあった。『柿の種』は、随筆というより、もっと簡素な雑感、アイデア、スケッチが短文で綴られている▼たとえば、イボだらけの男が小さな娘をおぶった姿を見る。「見るもおぞましい」男を背の娘は「おとうちゃん」と呼びかけ、片言で話しかけている。父子愛の本質を感じさせる名文だ。または安政の高知の話。刃傷事件で切腹させられた十九歳の少年がいて、祖母は「愁傷のあまり」失心しそうになる。あわてて周囲が鉄瓶の湯を飲ませた。然して老婆が鉄瓶の底をなでた手で触ったために、顔が黒くなった▼「極端な悲惨な事情」下にあっても笑いがあった。そんな何でもない話だと最初は読んだ。しかし岩波文庫版の池内了解説を読んで、印象は一変する。寅彦の父・利正は「実弟喜久馬の介錯役として首を切り落とす役目」を果たし、以後「内向的」な男になった、というのだ。つまり鉄瓶と老婆の話は、寺田一族が被った実話であった▼橋の上で上士と下士が争いになり、身分違いのため理不尽な裁定で、十九歳の若者が切腹。その介錯をしたのが兄。なんという悲劇か。この騒動を収めようと奔走したのが坂本龍馬で、司馬遼太郎『竜馬がゆく』にも描かれている。「なにげない文の中に、人間的なやさしさや悲しさの感情がほろりと出ていて」と池内は書く。この「ほろり」が寺田随筆の味だった。 (野)

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