第22回 南海電気鉄道(2)

●模様替−難波〜住吉間を複線化
 日本初の純民営鉄道たる阪堺(はんかい)鉄道。南海電気鉄道のルーツであるが、同鉄道が明治18年(1885)に難波〜大和川(北岸)間を開業、同21年(1888)には当初の目的地である堺まで延伸した。摂津と和泉の大都市どうしを結び、しかも途中に住吉大社という有力な神社が存在することもあって乗客数は年を逐うごとに伸び、早くも同25年(1892)には複線化を行なっている。
 ここまでは前回すでに記したが、この年にはまだ営業運転する電車は国内に存在せず、おそらく民営鉄道としては最初期の複線化と思われるので、それを申請する文書を掲げておこう。

   鉄道線路中模様替之義ニ付御願
 弊社鉄道線路中、大阪府下(ふか)大阪市南区難波新地(なんばしんち)六番町難波停車場ヨリ、同府下(ふか)西成(にしなり)郡粉浜(こはま)村住吉停車場間ハ常ニ乗車ノ旅客多数ニテ、通常列車ノミニテハ不足ヲ感シ候事往々有之(これあり)候ニ付、今般両駅間ニ副線ヲ敷設シ、右等ノ場合ニハ随時列車ノ回数ヲ増加シ、一層乗客ノ利便ニ供(そなえ)候様仕度(つかまつりたく)情願(じょうがん)ニ御座候間、何卒(なにとぞ)御詮議ノ上右副線敷設、難波、天下茶屋、住吉三駅模様替之義、御許可被成下度(なしくだされたく)、別紙図面相添、此段奉願上(ねがいあげたてまつり)候也。
   阪堺鉄道株式会社々長
明治廿五〔25〕年七月廿〔20〕日  松本重太郎 印
内務大臣 河野敏鎌(こうのとがま)殿


図1 民営鉄道で最初期に複線化された難波〜住吉間。住吉以南は単線の表示になっている。
1:20,000仮製地形図「天保山」明治30年修正+「天王寺村」明治31年修正

 住吉大社での祭礼などで特に混雑する難波〜住吉間を複線化したいとの申請であるが、当時は「副線」という語が用いられていたようだ。なるほど単線に新たな線路を副えるイメージであろう。鉄道の工事関連の用語がまだ定まっていなかったのだろうが、「模様替」は新鮮に響く。次は工事方法書である。

   阪堺鉄道難波住吉間副線敷設工事方法書
 本工事ハ副線新設及停車場模様替等僅少ノ事業ニシテ、一ニ在来ノ構造ニ準拠スルモノナルカ故ニ、施工ノ方法等ニ関シ特ニ茲(ここ)ニ記載スルヲ要セスト雖(いえ)トモ、単ニ其梗概ヲ識(しる)スコト佐ノ如シ。
一 土工ハ現在線路(フヲーメーシヨン幅拾四尺〔約4.24メートル〕)ニ並行シ、其東側ニ存在セル剰地ニ添ヒ、幅拾尺〔約3.03メートル〕ノ増築ヲナシ之ニ新線ヲ布設シ、新旧両堤幅員合セテ弐拾四尺〔約7.27メートル〕トナス。
一 「カルゥバート」〔culvert=伏樋〕ハ現今ノ「アバットメント」〔abutment=橋台〕ニ倣(なら)ヒ、図面ニ示ス如ク増築ヲナシ、新ニ(あらたに)木桁ヲ架設スヘシ。而シテ石工、瓦工、及木工共大略従来ノ規模ニ拠リ、実際必要ノ部分ハ多少ノ変更ヲ来スコトアルベシ。
一 軌条ハ従来使用シタル諸種ノ内、最モ有利ト認メタル五拾磅(ポンド)鋼鉄ヲ購入ノ見込ニシテ、附属鉄具類及スリーパー〔sleeper=枕木〕等ノ撰定亦(また)之ニ同シ。
一 砂利敷ハ新堤土中ヘ沈入、及停車場用予備等ヲ合セ〔1字不明〕哩(マイル)数四哩ニ対シ毎哩三百七拾五坪〔約1240平方メートル〕ヲ使用スベキ予算ナリ。
一 停車場構内線路及築造物変更並ニ増設工事ハ図面ニ示ス如クニシテ、就中(なかんづく)難波駅ハ用地狭隘(きょうあい)ニ過キ、計画上種々ノ支障アルカ故ニ、決シテ完全ナル結構〔=構造〕ヲ得タルモノニアラスト雖(いえ)トモ、著シキ不便ナシト言フモ可ナラン歟(か)、将又(はたまた)「タルンテーブル」〔turntable=転車台〕ハ直径弐拾尺〔約6.06メートル〕トシ、「プラットフヲーム」屋根ハ現在ノ位置ニ接続シ、何レモ従来ノ形状ニ方(あた)リ新設シ、「プラットフヲーム」土留工事及「ラゥパーブリッジ」〔不明〕等ハ官線設置ノ計画ヲ模シ築造スベシ。此他(このほか)石炭台給水器等ハ位置ノ変更ニ止(とどま)ル迄ニシテ、別ニ掲グベキコトナシ。
一 機関車庫及客車庫ハ車輌ノ増加ニ従ヒ拡設ヲ要スルモノニシテ、現在ノ儘(まま)桁行ヲ延長スルコト。機関車庫ハ三間〔約5.45メートル〕、客車庫ハ八間〔約14.55メートル〕ナリ。
一 機関車庫及客車庫ハ当今使用ノモノト概子(おおむね)同趣ノ「スペシッヒケーシヨン」〔specification=仕様〕ニ拠リ購入或ハ作造スベシ。
 以上
右之通リニ候也
明治廿五年六月  工学士 植木平之允(へいのじょう)


 これを書いた植木平之允は幕末の文久元年(1861)に長州萩藩士の家に生まれ、明治15年(1882)に工部大学校(後の東京帝大工学部)を卒業、阪堺鉄道の前には日本鉄道(東北本線)の宇宮〜白河間の建設工事に携わっている。この複線化を担当した年に大阪府の技師に就任しており、その後は大阪築港や三井三池炭鉱の仕事も手がけた。文書に見られる頻度の高い片仮名用語は、おそらく彼が外国人教授に英語で学んだ土木工学用語が、まだ日本語として定着していなかったためであろう。まさに鉄道建設の黎明期を感じさせる文章だ。
 かくして難波〜住吉間の複線化工事は明治25年(1892)10月10日に着工、正月を目前に控えた同年12月29日には竣工した。えらいスピードだが、当時の阪堺鉄道沿線の多くがいかに農村風景の中にあったかがうかがえる。


図2 堺以南も順次複線化された。図ですでに複線表示となっている堺〜浜寺(現浜寺公園)間は明治40年(1907)の竣工。東側には高野山登山鉄道(現南海高野線)も見える。1:20,000正式地形図「堺」明治42年測図

●堺〜和歌山間を結ぶ紀泉鉄道
 複線化の3年前、阪堺鉄道の終点である堺から和歌山を目指す紀泉鉄道会社が創立の請願を提出している。社名はもちろん紀伊国の和歌山と和泉国の堺を結ぶことを指す。和歌山といえば御三家である紀州徳川家の大きな城下町であったが、もちろん当時の和歌山県に鉄道は1マイルも存在していない。以下はその請願書である。

   紀泉鉄道会社創立之義ニ付請願
 今般私共ニ於テ和歌山県下(けんか)紀伊国名草(なぐさ)郡紀ノ川北岸ヨリ大阪府下和泉国堺市ニ達スル里程凡(およ)ソ三拾六英里〔36マイル=約58キロメートル〕許(ばかり)ノ鉄道ヲ布設シ、旅客及物貨(ぶつか)運輸営業ノ目的ヲ以テ紀泉鉄道会社創立ノ義発起仕候ニ付、私設鉄道条例第壱条ニ拠リ起業目論見書捧呈仕候間、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ別紙特許請願ノ条件御聞届ノ上、会社創立御免許状御下附被成下度(なしくだされたし)。尤(もっと)モ御許可ヲ被(こうむり)候上ハ、堺市吾妻橋ニ於テ阪堺鉄道会社ノ鉄道線路ト接続仕度(つかまつりたく)、已(すで)ニ該会社トモ協議ヲ遂ケ、別紙写ノ通約定(やくじょう)仕候ニ付、是亦(これまた)御免許ヲ被リ度(こうむりたく)此段奉願上(ねがいあげたてまつり)候也。  明治廿二年五月九日
   大阪府下(ふか)東区平野町四丁目
     松本重太郎
   同府同区高麗橋二丁目
     佐伯勢一
   同府西区靱(うつぼ)北通一丁目
     田中市兵衛
   〔以下44人住所氏名略〕
内閣総理大臣伯爵黒田清隆殿


 発起人の冒頭に記された3人は松本が阪堺鉄道の社長、佐伯と田中は同社の取締役をつとめており、以下にも阪堺の役員の名が散見される。ちなみに田中は明治39年(1906)から南海鉄道の社長でもあった。住所に「大阪府下東区」などとあるが、前月の4月1日には市制施行により大阪府大阪市東区となっているはずだ。おそらく文書の準備をしている段階で「市」になったのだろう。
 創立の翌年にあたる明治23年(1890)1月15日には阪堺鉄道と紀泉鉄道は合併を決議するのだが、前年の凶作に由来する貿易赤字が、特に紡績事業の比率が高かった大阪の経済界を直撃、併せて同23年に起きた和歌山県内の洪水で県内出資者の勢いが削がれてしまう。その上さらに大阪と和歌山を結ぶルートが競合する「紀阪鉄道」も出現した。有力な都市間を結ぶ鉄道には競願がつきものであった当時ではあるが、結局これは松方正義元首相の仲裁を経て明治26年(1893)に紀泉・紀阪の両者は合併することが決まった。
 翌27年に合併新社名を紀摂鉄道(紀伊国・摂津国)として鉄道敷設の仮免許状を得るが、社名は後に南陽鉄道と改め、さらに同28年の創業総会が開催された時点では南海鉄道と二度目の改称で決着している。南海とは古代の「五畿七道」の南海道にちなむものである。五畿とは都を中心とする5か国、すなわち大和・山城・摂津・河内・和泉で、残りの国々を東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道というルート別に7分類したものだ。
 このうち南海道は紀伊の他に淡路、それに阿波・讃岐・伊予・土佐の四国を加えた計6か国から成っている。起点の大阪・難波はもちろん畿内(摂津国)であるが、そこから南海道である和歌山県へ向かう鉄道という意味では、その後の発展性を秘めた広々とした幸先の良い社名を選んだものと言えるだろう。実際に後年には和歌山港から南海道の阿波国・徳島県へのルート開拓を積極的に推し進めている。


図3 堺から和歌山へ伸びる南海鉄道の路線。図は大正期のものだが、後に強力なライバルとなるJR阪和線の前身・阪和電気鉄道の姿はまだ見えない。1:200,000帝国図「和歌山」大正9年製版

●日本で最初期の改軌
 阪堺鉄道は釜石鉱山鉄道の資材や車両を転用した経緯があるため、2フィート9インチ(838ミリメートル)という狭軌を採用したが、紀泉鉄道と直通して大阪〜和歌山間を結ぶためには同じ軌間としなければならない。もちろん紀泉鉄道を阪堺鉄道に合わせて狭軌で建設すれば話は早いかもしれないが、今後は日本各地に直通すべき鉄道網の一環として考えれば、軌間を官営鉄道に揃えるべきことは論を俟たず、おそらく鉄道当局でも認可にあたっては阪堺の改軌を条件としたのではないだろうか。かくして明治22年(1889)5月9日、まさに紀泉鉄道が出願されたその日であるが、阪堺鉄道の軌間を官営鉄道と同じ3フィート6インチ(1067ミリメートル)に改軌する申請が行なわれた。

   線路改築之儀ニ付御願
 弊社鉄道儀ハ嚮(さ)キニ御許可ヲ被(こうむ)リ弐呎九吋〔2フィート9インチ=約838ミリメートル〕ノ「ゲージ」ヲ用ヒ鉄道ヲ敷設シ営業仕来候処、今般出願中ノ紀泉鉄道会社鉄道線ト弊社鉄道堺停車場ニ於テ接続仕度奉存(ぞんじたてまつり)候ニ付、同鉄道布設之儀御許可相成候上ハ、弊社鉄道モ更ニ「ゲージ」ヲ三呎六吋ニ改メ、汽(ママ)関車其他諸車ノ如キモ右接続ニ差支無之様(さしつかえこれなきよう)改造仕候間、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ右改築ノ儀御許可被成下(なしくだされ)、夫(それ)カ為メ新ニ鉄道用地ト相成ヘキ地所ノ儀ハ、総テ私設鉄道条例第十五条ニ拠リ御処分ヲ被リ、尚ホ該地所ニ対スル一切ノ国税ヲ御免除被成下度、則(すなわち)別紙方法書相添ヱ、此段奉願上候也。
   坂堺(ママ)鉄道会社社長
明治廿二年五月九日  松本重太郎 印

内閣総理大臣伯爵黒田清隆殿


 この改築にあたっての「坂堺鉄道改築仕様書」が前日の5月8日に提出されている。抜粋して要約してみよう。まず第1項「土工改築ノ事」。盛土については既に普通鉄道の築堤に等しい幅員があるので、特に拡幅の必要のないことを述べている。具体的にレール幅は23センチメートル広がるのであるが、第3項「軌道ノ幅員ヲ広ケ三呎六吋トナス事」によれば、現状長さ7フィート(2.13メートル)の枕木は交換の必要なしとあるが、レールは在来の1ヤード41ポンドまたは50ポンド(1メートルあたり約20〜25キロレールに相当)であったのを順次60ポンド(30キロレール)のものに交換する見込みという。なお第4項「大和川橋台ヲ高ムル事」では水害防止のためか、これを機に大和川橋梁の橋台を2フィート(約61センチメートル)高めるとしている。もちろんこれに応じて線路の高さが上がるのは言うまでもない。その他には駅舎や車庫、機関車や客車・貨車の改造について細かく記されている。
 いずれにせよ日本では最初期の改軌と思われるが、「此工事ヲ為スニハ一時営業ヲ停止セザルヲ得ザルモ、能ク準備ヲ整ヘ日夜業ヲ操ラバ多分ノ〔多くの〕日子ヲ要セスシテ出来(しゅったい)スベシ」とあり、意外に簡単そうに記されている。『南海電気鉄道百年史』の年表によれば、明治30年(1897)6月10日に改軌に着手しているが、この日は南海鉄道が堺〜佐野(現泉佐野)間を開業するまで4か月を切った段階だ。結局改軌工事の完成は、同線がさらに尾崎まで11月9日に延伸された翌月の12月14日で、両者を直通する列車はその翌15日から運転が開始されている。


図4 岸和田市街の東側に設置された南海鉄道岸和田停車場とその周辺。現在市街化している東側には水田が広がっている。駅の所在地は「百姓町」を中心とする岸和田村で、岸和田町とは別の自治体であった。1:20,000正式地形図「岸和田」明治42年測図

●和歌山への道
 さて、後に南海鉄道となる紀摂鉄道が堺から和歌山まで約34マイル(約55キロメートル)の鉄道敷設仮免許状を得たのは、日清戦争が勃発する前月にあたる明治27年(1894)7月3日であった。ルートの選定と測量は急いで進められ、同28年4月20日付で提出された測量報告が『南海電気鉄道百年史』に掲載されている。「旧設計」と比較した箇所が見えることから、数少ない難所である和泉山脈越えの孝子(きょうし)付近のルート変更を決めた2度目の測量と考えられる。
 これによれば、当初の孝子越えは40分の1(25パーミル)という急勾配であったが、これを50分の1(20パーミル)に緩めた。このため工費は5万円ほど余分にかかるとしているが、機関車の牽引力と輸送可能な貨車の重量などを考慮すれば、最終的には勾配が緩い方がモトがとれると説明している。和歌山停車場の位置については当初市街の東側(現在のJR和歌山駅付近か)を予定していたのを、北西側の紀ノ川河畔に変更した。これは水運の便を考えたこと、それに市街各所にとってその方が利便性が高いためだとしている。
 堺〜佐野間は明治30年(1897)10月1日に開業、続いて尾崎までは11月9日、孝子越えで和歌山県に入り、和歌山北口までは翌31年10月22日に開業している。この駅は紀ノ川橋梁の北詰、当時の名草郡野崎村大字福島に設置されたが、おそらく和歌山市駅まで開業するまでの仮駅のような扱いであったらしく、和歌山市まで全通したその日に廃止された。しかし書類上は同日に900メートルほど大阪寄りに移転して「紀ノ川」と改称、という扱いらしい。
 その時点で開業していた停車場を、明治32年(1899)4月1日ダイヤ改正時と同37年(1904)3月改正の時刻表『汽車汽舩旅行案内』によって一覧してみよう。Mはマイル(約1.609km)、Cはチェーン(約20.1m=80分の1マイル)を示す。カッコ内は現駅名およびキロメートル換算である。

駅名      明治32年(1899)  明治37年(1904)
難波      0M00C(0.00km)  0M00C(0.00km)
天下茶屋    2M13C(3.48km)  1M77C(3.16km)
住吉*     3M40C(5.63km)  3M37C(5.57km)
大和川**   5M00C(8.05km)  4M77C(7.99km)
堺       6M17C(10.00km)  6M14C(9.94km)
湊       7M11C(11.49km)  7M08C(11.43km)
浜寺(浜寺公園)9M30C(15.09km)  9M27C(15.03km)
大津(泉大津) 12M70C(20.72km) 12M67C(20.66km)
岸和田     16M24C(26.23km) 16M21C(26.17km)
貝塚      17M74C(28.85km) 17M71C(28.79km)
佐野(泉佐野) 21M26C(34.32km) 21M23C(34.26km)
樽井      25M34C(40.92km) 25M31C(40.86km)
尾崎      26M77C(43.39km) 26M74C(43.33km)
箱作      29M12C(46.91km) 29M09C(46.85km)
深日***   33M12C(53.35km) 33M09C(53.29km)
紀ノ川     −            38M33C(61.82km)
和歌山北口   38M76C(62.68km) −
和歌山市 −               40M03C(64.43km)

*住吉駅は大正初期に廃止 **大和川駅は初代とは異なる南岸の駅で大正期に廃止 ***深日(ふけ)駅は昭和19年(1944)の多奈川線開業に伴って貨物駅となり、後に休止→廃止

 難波起点の距離が各駅でことごとく違うが、全体にほぼ3チェーン(約60メートル)短くなっているのは難波駅の改築に伴うものであろうか。なお、それを考慮するとこの間に天下茶屋駅は380メートル、住吉駅は120メートルそれぞれ北へ移転したようだ。
 和歌山北口駅から終点の和歌山市駅までは延伸に約4年半かかっていることからも推察できるように、川幅の広い紀ノ川に鉄橋を架けるのは一私鉄にとってまさに大仕事であった。大和川橋梁の全長218メートルに比べると3倍近くの627メートルに及ぶ堂々たる大橋梁で、南寄りの本流上にアメリカンブリッジ社から輸入した曲弦プラットトラス(ピン結合・径間203フィート9インチ=約62.1メートル)を3連、その前後を北側16連、南側3連のプレートガーダー橋が挟む形で、今でも上り線用として現役である。


図5 和歌山北口駅が終点だった頃の時刻表。『汽車汽舩旅行案内』明治32年(1899)4月号 庚寅新誌社


図6 紀ノ川の長い橋梁を完成し、明治36年(1903)3月に念願の和歌山市駅へ到達した。図は昭和9年(1934)の状態(発行は同22年)だが、当時の和歌山駅は現紀和駅、東和歌山駅が現和歌山駅である。1:25,000地形図「和歌山」昭和9年修正

 大橋梁が完成したことにより、明治36年(1903)3月21日に念願の難波〜和歌山市間が全通した。和歌山の街には紀ノ川沿いを走る紀和鉄道がひと足先の明治31年(1898)に和歌山停車場(現紀和駅)を開設していたため、2番目にこの街に到達した南海鉄道としては、ターミナルを別名とする必要があり、「和歌山市駅」としたようだ。翌37年の時刻表によれば、難波〜和歌山市間は1日10往復の列車が運転され、そのうち急行列車が2往復。所要時間は普通が2時間31〜37分、急行が1時間55〜56分(いずれも下り)であった。なお、南海が開通した同じ日に紀和鉄道は和歌山駅から線路を伸ばして南海鉄道に接続したが(接続地点は和歌山〜和歌山市間の「連絡点」)、この線路を用いて後に両者を直通する列車が走ることになる。

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

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