第61回岸田國士戯曲賞選評(2017年)

第61回受賞作品

『来てけつかるべき新世界』上田誠

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克明な噓は大胆な本当に似る 岩松了
 市原佐都子『毛美子不毛話』をイチオシで選考会にのぞんだ。珍しく、と言うべきか“女性”についての戯曲だと思った。それが女性の地位の向上などを謳ったものではなく、むしろ逆に否応なく何かに従属していかなければならない中身のない人間としての女を、自虐的にユーモラスに描いてあって、しかもなぜか、ふてぶてしさをも感じさせる。そのふてぶてしさは何だろう? と思う。中身のなさは結局、人間全般につまり男にも通じる普遍であるはずのものだが、中身を埋めようとする男の脇で、自分には中身がないと図々しくも言い放っているそのふてぶてしさではないのか。言ったが勝ちとばかりに先にそれを言う女の図々しさ、ふてぶてしさ! でもそれは“おびえ”にも由来しているのだろうと思う。劇中で“私”が見せる《横になって鼻くそをほじくる》《床をゴロゴロ這いずり回る》などは、ほぼ生理的な必然だなと思う。そして何かが不穏で、何かが危険だ。体が本を書いている。そう思う。本革のパンプスを求めて路地を歩く“私”は遂にはつかまえきれない場所に逃げ込むために彷徨っている女のように感じるのである。受賞に至らなかったのは残念だが、次作に期待。
 瀬戸山美咲『埒もなく汚れなく』は、海に没した劇作家の評伝もので、その実在した作家に向き合う誠実な姿勢に好感を持つのだが、その内面を描くには山の頂でこの作家が何を見たのか、妻との生活にどんな闇を見たのか、などについての独自の発見が足りないと思った。ただの人間模様を書いている。どんなに凄い(魅力的?)人物だったか、ではなく、中心から外れたい人物と中心を求める人物たちの相剋にドラマがあるのだと考える、などの構図に対する意識を持つことによって漫然とした評伝を脱して欲しい。
 平塚直隆『ここはカナダじゃない』も面白いと思った。危ない橋を渡ってる、と思った。このアイデア先行が最後まで引っかかって、もう一作読んでから、という気持ちになってしまった。女が「私余計なこと言っちゃいました?」とか「行ったことにしてあげましょうよ」と言うけれど、それどうなの? と思ってしまった。女もこのカラクリからはぐれっぱなしの方がいいと思ったのだ。男1以外がみんな“わかってる”というのが話を味気なくさせていると思う。
 長田育恵『SOETSU 韓くにの白き太陽』は、あまりにも都合のいい話で、例えば白磁の壺についての描写、壺の違いを皆でこんなに簡単に納得するわけもないし、夫婦の関係も、ただ話を運ぶための浅薄な会話によるから表層的なものになっている。人物たちを生きたものにするための“否定”がないのである。嘘こそが演劇の力として機能するのではないだろうか。
 受賞は一回目の投票で決まった感があった。
 上田誠『来てけつかるべき新世界』だ。とにかく面白い。描かれているのは、大阪通天閣を望む商店街の過去と未来に挟まれた異様の現在、と言えばいいだろうか。串カツのソースに桂馬が浮いてるところから笑いながらああこれは古くからの商店街の様子だと見ているとすでに演歌歌手のQRコードだのダウンロードだのラーメン屋の出前ドローンだの、あり得べきこの先の状況が展開し始めている。旧来の軽演劇のように見せながらやがて訪れるAIの波に翻弄される庶民の様子を笑いのうちに展開させて見事。その今を見る視線はシニカルなようでいて妙に暖かい。コインランドリーのコンセントを借りて自ら充電するロボットの可愛らしさと言ったら! それを怒る店主の困惑がまた! フリからオチまでがみんな近すぎやしないかとも思ったが、それを凌駕する面白さがあった。まさに来てけつかるべき新世界! 受賞に異存はなかった。

社会の分断へのリアクション 岡田利規
 社会の分断が世界的に進行しているように見える。その進行は今にはじまったことではなく、ただ、現在それがトレンドになっているというだけかもしれない。以前から分断していたのが顕在化してきているだけかもしれない。
 とにかく、これがその分断の状況に対するなんらかのリアクションにならないものかと思いながら今回の選考をした。どのような戯曲に岸田國士戯曲賞という権威を授けるのがそうしたリアクションになるのか、ということを考えながらやってみたかっ
た。
 私は市原佐都子氏『毛美子不毛話』と山縣太一氏『ドッグマンノーライフ』を推した。両氏は俯瞰の視点ではない、地面からのパースペクティヴで彼女及び彼にしか生み出せない力強い言葉を書き付けていると思った。身体を使って書かれた言葉の随所に、俯瞰の視点からでは為し得ない類いの批評性がにじみ出ているとも感じた。分断の状況に対するなんらかの介入が、舞台で発されるテキストという形でもしも行なえるのだとしたら、それはこういった類いのパースペクティヴ、こういった類いの批評性を持つ言葉なのではないだろうかという気がしている。
 受賞作となった上田誠氏『来てけつかるべき新世界』のことも推した。これにはここまで書いてきた選考のコンセプト云々はまったく関係ない。小難しかったりしちめんどくさかったりすることは抜きに、きわめて技術が高く、アイデアが全編に行き渡っており、結果すこぶるおもしろい作品になっていたから推した。シンプルな話だ。

「うまい」ことを忘れさせてくれるケース ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 授賞作となった上田誠氏『来てけつかるべき新世界』を読みながら、私は三十年前、四十年前のことを思い出していた。二十代、十代だった頃のことだ。
 二十代の半ば、私はあるテレビの深夜番組に呼ばれ、間もなく普及しつつあるという「携帯用電話」が、どれだけクリアな音声で交信可能なのかという「実演」をした。要は、わざわざ公共の電波を借りて、(なぜか)なぎら健壱さんに電話をして、どうでもよい話を三分ほど交わし、「いやあ、まったくノイズがありませんね」「トランシーバーよりずっと話し易い」などという感想を述べただけ。深夜とはいえ、そんなことで番組の一コーナーが成立した時代があったのだ。MCだった片岡鶴太郎氏は言った。「一般庶民が電話を持ち歩く時代がすぐ目前だなんて、すごいことですね」。
 たしかに、もし少年時代の私が、(それは今でいうアップルウォッチのように腕に巻かれていることが多かったが)テレビのアニメでよく見かける携帯用の小型電話を自分も日常で使えるようになるなんて知ったら小躍りして喜んだろう。まさにユートピアだ。ユートピアが実現する。人類はきっと、この携帯用電話をはじめとした様々な神器に囲まれ、至福感に溢れた未来を手に入れるに違いない。
 だがそうはならなかった。「人類の未来をバラ色にする」はずのテクノロジーの進化は、「便利だねぇ」という凡庸な台詞と共に、あっという間に日常生活にとり込まれ、我々はただただ「次」を待つ。それが現実だ。
 『来てけつかるべき新世界』の舞台となる近未来の大阪・新世界では、ドローンが空を飛びかい、人間より多くのロボットが労働し、人工知能があたりまえの存在になっている。ドローンはある程度現実的だが、仮にAIがここまで発展するとしてもまだまだ時間がかかるはずで、まあ、そこらへんは意図されてのことだろう、大変ラフだ。そんなことは面白けりゃどうでもいいのであり、上田氏のセンスが独特なのは、「オーバー・テクノロジーが人間の本質を、びっくりするぐらい変化させない」という点であり、現代に生きる我々はそのことにリアリティを感じる。『鉄腕アトム』、もっと古くは無声映画『メトロポリス』に描かれたような、「人類が作り出したテクノロジーを過信したばかりに、当の人類が手痛いしっぺ返しを食らう」的な風景と真逆の観点が大きな魅力となっている(もちろん、原発に象徴されるような『鉄腕アトム』的な教訓も、一方で我々は享受せねばならぬわけだが、それはまた別の話、上田君とは別の人の仕事だ)。だからこそ、どいつもこいつもろくでなしであるはずの登場人物たちは、その誰もが妙に頼もしく、彼らは現代を生きる人類にとって、大きな励みだ。
 そのうえで、上田氏はこれでもかとばかりに笑いを詰め込み(経験則から断じるが、この作業は並大抵のことではない)、並行して、人格のバックアップに関する愉快なエピソードを通し、人間のアイデンティティへの実存的な哲学にも言及する。
 高いスキルをもつ若い劇作家は格段に増えていると実感させられる昨今ではあるが、本作品に於ける上田氏ほど「うまい」ことを忘れさせてくれるケースは稀だ。熱烈に授賞を推した。
 おめでとうございます。

こんな作品こそ現世界に 野田秀樹
 受賞作、上田誠氏の『来てけつかるべき新世界』のことを考えていたら、「落語」という日本独特のシュールレアリスムの「旧世界」に行き当たった。その「旧世界」は、日本語を理解していないと感じることのできない「間抜けさ」である。この作品が持つ「こてこての大阪感」と「ばりばりの新技術」が出会う近未来の新世界は、実に間抜けだ。その最たるものは、登場人物がバーチャルアリティの、あれはなんだ? 美容院のパーマをかけるヘルメットか? ぱかっとあくやつ。それをかぶって、バーチャルリアリティの世界で恋をしていたら、一瞬だけ、外からラーメン屋の親爺にそれを外されて現実と出会い、またバーチャルなラブラブの新世界に戻る。そのくだりを読んだ時、痛快な落語を聞いたように、私は吹き出してしまった。
 落語で、「自分の頭の上にできた池に飛び込んで自殺する」話がある。間抜け転じて、グロテスクである。この作品はまさにそれであった。声に出てしまうほど大笑いをして読んでいたら、「バリバリの新技術」共が、合体をはじめ、きっと上田氏の世代が興じた合体ロボットのように、立ち上がっていった。その総天然色の大阪の新世界のようなイメージのグロテスクさが、これまた見事であった。
 私は、こんな作品、と言ったら失礼かもしれないが、(でもコトバとして的を射ていると思う)……こんな作品こそ、翻訳されて海外に紹介され、「日本」や「日本人」あるいは「大阪人」というものの不可解さを、「現世界」に知らしめるべきだと思うが、自国の文化として的を射ているものほど、翻訳することが難しいのである。大阪弁も大阪文化も、つまり、日本語も日本の文化も、本当に海外に翻訳することは今のところ不可能である。海外に紹介されたり、簡単に受けているものはすべて、文化的にも言語的にも翻訳しやすいものだけである。「こんな作品」から、たくさんのことを私は受け取った。
 林慎一郎氏の『PORTAL』も面白かった。特に、高速道路のバイクに乗っている女が、あのトラックはなんというんだ? 光って、後部が丸くなっている奴、そこに凸面鏡のようにして顔を映しながら、そのトラックが運んでいる大量のミルクのことを思いながら事故死してしまうところ、その「死」を、次の場面でラジオから流れるただの「事故情報」として処理してしまう。この場面を書ききった林氏の次の作品も是非読んでみたい。
 他にも平塚直隆氏の『ここはカナダじゃない』の不条理演劇になりきらない、つまり、どこのなんだか正体不明な作品の感じが、実に巧みで面白かった。
 また、市原佐都子氏『毛美子不毛話』のパンプスっていうんですか? あの女性が履く靴の踵から血が流れるイメージや、作中の歌詞には、私の世代でさえ知らない路地裏のノスタルジーがあって、この二人の次回作も是非読んでみたい。
 ま、是非読んでみたいというのも偉そうな話で、読みたいので書いてください……どしどし。

卓越した笑いの「ロボット演劇」 平田オリザ
 上田誠さんの『来てけつかるべき新世界』が圧倒的に完成度が高く、受賞作はこれ一作でよいだろうと考えて選考会に臨んだ。最初の投票では他に、消極的な推薦として市原さんの『毛美子不毛話』を推した。
 『来てけつかるべき新世界』については、他の選考委員も、その素晴らしさについて言葉を尽くすだろうから、一つだけ、私にしか書けない評を書いておく。
 今後、ロボットやAIが舞台に登ることは必然であり、この流れを止めることはできないだろう。また、実社会でも、ロボットは家庭や企業に入ってくるので、近未来の作品を創ろうとすれば、そこにロボットを登場させない方が不自然なことになる。
 しかしながら、現在のロボット技術はまだまだ未熟で、人間との自然なやりとりや、連日の舞台公演での安定した演技に耐えるレベルには達していない。
 今回の『来てけつかるべき新世界』は、おそらくヨーロッパ企画という希有な集団の技術に支えられた上演だったのだと推測するが、そうであったとしても、その最大の功績は、やはり上田さんの戯曲の巧みさにある。現在のロボット技術の限界と、描きたい未来との乖離を、随所に見られる卓越した笑いの技術でカバーしているのだ。演劇は、所詮、嘘を書く商売だから、そのほころびを、いかに「本当らしく」見せるかの技法の有無が、戯曲構成の要となる。本作は、その点を過不足なく、軽やかに、しかし丁寧に、そして真摯にくぐり抜けている。
 昨年同様、一作の授賞が先にきまり、もう一作を同時授賞とするかどうかのみが議論となった。そして、これも昨年同様、「同時授賞は、拮抗した作品の場合」という岸田賞の不文律からいって、市原さんの作品は、残念ながら受賞には至らないのではないかと考えた(私はこの厳しい伝統は守られるべきだと思っている)。
 審査員が、こんな弱音を吐いてはいけないのかもしれないが、候補作の半数が女性の作家だった今回は、やはり女性選考委員の不在を不安に思った。作品に(その評価に)性差は関係ないと言うのは容易いが、特に市原さんの作品を読むと、かえって、これと同じような内容の戯曲を、言葉を、男性の作家が書いていたら、自分はどう受け止めただろうかということが気に掛かってしまった。これほどに強い女性性を、違和感なく受け止めてしまえるのは、市原さんの才能なのか、私が男だからなのかが、正直、決めがたく、それが私を不安にさせた。選考委員として、申し訳なく思う。

喜劇的なるものをめぐって 宮沢章夫
 今年も興味深い戯曲にいくつも出会うことができた。そこから考える契機を与えられる。
 たとえば、オノマリコの『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』の、【インターミッション】の直前、第一幕第八場の最後に書かれたト書きだ。
 「喜劇的に一幕が終わる」
 ここでの〈喜劇〉はなにを意味するのだろう。「喜劇的」に「終わる」第八場とはどのような終わり方をするのか。作品の概略を書くと、まず、ムーンとタイガー、エンジェルという名前の男女が同居する部屋を中心にドラマは進む。タイトルにあるように、三人は、POLYAMORY な生活をしており、つまり同時に複数の人間を愛することを許し合い、しかも、性差による恋愛にもこだわらない。そんな三人の部屋を、またべつの女で、バイセクシャルのアリスが訪ねる。タイガーがアリスを応接し二人のやりとりが中心になっているのが第八場だ。バイセクシャルのアリスは、エンジェルに好意を持っていたが、ここではタイガーを誘う。けれど、二人のやりとりを垣間見るエンジェルの心中はまったく描かれない。ここでエンジェルが穏やかな気持ちでいること、平静さを保つことで彼らが理想とするPOLYAMORY な関係は安定するのだろう。その微妙な関係が淡々と描かれている場面に、エンジェルに好意を持つガンダムが訪ねて来る。部屋に入るなりガンダムは言うのだ。
  「ぼくと結婚しよう、エンジェル」
 この複雑な設定、特別な恋愛や生き方を描く作品にあって、ゆったりとした言葉のやりとりのなか、不意に現れ、いきなりなことを口にするガンダムと、その行動はたしかに喜劇的だ。けれど、作品の総体が喜劇というわけではないし、あくまで「喜劇的」と記述されるように、第八場の終わりがかすかに喜劇性を持っていると理解するべきだろう。だが、ト書きであっさり、「喜劇的に一幕が終わる」と書くことは許されるのだろうか。繰り返すが、本作が取り扱っているのは特別なテーマだ。興味深く読んだ。けれど、設定のねじれによってドラマを構成する筆致に粗さを感じる。作者の意図とは異なるだろうが、人間関係の深みにもっと踏み入れば、またべつのドラマになったかもしれない。それでもやはり、「喜劇的」と言葉にする手つきが安易だ。
 喜劇とはなんのことか。
 こうして、今回の選考は、上田誠の『来てけつかるべき新世界』が鮮やかな姿で喜劇的な作品として存在し、〈喜劇〉について考えることを促されるように感じられた。
 一点、オノマリコの『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』に、〈喜劇的な試み〉を感じるト書きがある。それに驚く。「第一幕第二場」の冒頭のト書き
だ。
 「公園か、喫茶店」
 これはすごい。
 どこでもいいのである。それに続けて「ガンダム、ムーンが話している」とあり、とにかく二人に話をさせたかったのだが、「話をさせたい」という作者の手つきだけが目立つ。二人が、どのような状況で、どのような声で対話するかなにも伝わってこない。むしろ、作者もどうでもよかったのだ。たとえば図書館だったらどうだったか。居酒屋だったらどうか。そうすることに意味があるから、戯曲はト書きに場所を指定する古くからの決まりがある。そうした約束事はどうでもいいという態度で書いているのかもしれない。これは企みなのだろうか。意図して書いているのだろうか。「第七場」も同様だ。ここでもまた、ガンダムとムーンが対話する。やはり最初に場所が示される。
 「公園か、喫茶店」
 だとしたら常に場所の指定が複数になっていてもよかったのではないか。つまり、それぞれの章が、「中央線のホームか、崖っぷち」とか、「天安門広場か、リビング」とか、「学校の渡り廊下か、神保町」といったように。
 上田誠の『来てけつかるべき新世界』は見事な喜劇のメカニズムによってドラマが進行する。
 タイトル通り、これはたしかに、『来てけつかるべき新世界』だ。ここでの、「新世界」は、大阪の地名としての新世界と、近未来を意味するような新世界の二重の意味をはらんでいる。路上でキャンペーンをする女性演歌歌手は、聴いていた街の男たちにQRコードを示し、「みんなダウンロードしてな」と促す。串カツ屋の娘はネット上にある「食べログ」の点数を気にし、常連の街の男たちのせいで自分の店の評価が低いと嘆く。それだけなら、いわば、現在のテクノロジーの傾向とほとんど変わりはないが、そこから少しずつ、様々なガジェットによって近未来へと物語が導かれる。なにしろ、男たちの頭上には頻繁にドローンが飛んでいる。
 「いわゆる『ドローンハイウェイ』が整備されて以来、大阪の空にも、出前ドローンや宅配ドローン、空撮ドローンに、宣伝ドローン。いろんなドローンが飛ぶようになりました」
 ナレーションによって語られる、社会的な意味での新世界は、ドローンをはじめ、様々なテクノロジーが人を管理する。それだけなら近未来ものの、よくあるSFにしかならなかったかもしれない。そこにトポスとしての「新世界」があり、べたべたな関西弁があり、だめな男たちがいて、男たちが生きる、くすんだ空間が背景にあることで、喜劇としての構造がぴたっと整えられている。シニカルだが、思いつきだけで終わらず、どこか幸福な笑いが出現するのは上田誠の高い作劇の技術だ。大阪の新世界という土地に生きる人物たちの生き生きとしたばかな姿が素晴らしい。そして上田誠は、「喜劇的な」という言葉を戯曲ではいっさい使わないだろう。なぜなら、そんなことをト書きや、台詞で語る必要はまったくないからだ。人物たちの行動がそれを示している。
 ほんとうにばかだ。なにかが弛んでいる。ばかが、ばかのまま描かれているのが、すがすがしいほどだ。
 けれど、また一方で私たちは、チェーホフの晩年の戯曲をよく知っている。誰もが疑問に感じるのは、『かもめ』と、『桜の園』に、「喜劇四幕」と付されていることだ。けれど、どう読めば、主人公が自殺する、『かもめ』の幕切れを喜劇と考えればいいのか。『桜の園』もそうだ。桜の咲く自慢の庭が、いまでこそいっぱしの資本家になっているが、かつては農奴だったロパーヒンに買われる。庭の持ち主だったラネーフスカヤが留守にしているあいだに、桜の木は伐採される。どこにも喜劇らしさはないが、ここでチェーホフが見ているのは、愚かな人物たちの愚かなふるまいだ。それを喜劇とみなす。きわめてシニカルな視点だ。愚かさゆえに、不幸になってしまった者らの姿を喜劇と表現する。
 この「愚かさ」と、上田誠の書く「ばか」はどこかが異なる。
 チェーホフのように人物をシニカルに見るなら、長田育恵の『SOETSU 韓くにの白き太陽』の、理想を希求し、正しいと考えることをひるまず口にする英雄的な柳宗悦を、それでもなお、愚かな人物として読もうとすることができるのではないか。理想的な信念を抱く宗悦は、朝鮮総督府憲兵隊の塚田とのやりとりで、「あなたはさっき、私を学習院にふさわしくないと言った。その通り。私には学習院も帝大も面白味に欠けた。だが、私の友人を──『白樺』の同人たちを侮辱するのは金輪際許さない。『白樺』が掲げる、個人の魂の絶対的な自由。これほど輝ける思想が他にあるか?」と、激しく塚田を否定する。けれど、そうした宗悦に欠けているのは、しばしば理想主義的な人物にありがちだが、生活というリアリズムを省みず、家の経済などまったく気にしない態度だ。妻の兼子はもともと声楽家だ。まるで宗悦のそうした姿に向かって復讐するかのように、ヨーロッパに行って声楽を学ぶと宣言する。そして、「思想家なんですから、女についての思想も研究なさって」と兼子は言う。やりこめられた宗悦の姿は愚かだ。塚田に堂々と信念を語った宗悦とはあきらかに言葉の調子が変わる。
 「君は……とんでもないな」
 こうした場面に、一面的な、柳宗悦の英雄像だけではないドラマの起伏を感じ、その筆致を見事だと感じはするものの、作者は当然、喜劇を意識していないだろう。では、なぜ意識できなかったのか。唐突に思われるかもしれないが、それこそ現在の反映ではないか。つまり、『SOETSU 韓くにの白き太陽』をいま上演するのは、露骨なレイシストが跋扈(ばっこ)し、危うい時代が迫っている現在を意識して書いているように読めるからだ。かつて平田オリザは、一九〇九年の朝鮮半島で日本人がしたふるまいを、『ソウル市民』で描いた。徹底した客観描写によって、油断していると、なにが演じられているのかわからないほど微細な表現だ。だが、朝鮮半島を日本が統治している時代のソウルの、ある文房具屋の居間を舞台にしたそれは、考えてみれば、そこにいる者らの誰もが愚かだった。それとして描いていないにしても、愚かな人物らを配することで、無意識のうちに発している朝鮮人への差別がまざまざと記される。それは喜劇ではなかったか。はしばしに笑いの要素があることより、全体の構造が喜劇だと感じられる。長田育恵が描く、この国と朝鮮半島の関係は、より直接的で、どこか悲壮感に充ちている。それが現在を反映している。輪郭線のはっきりした筆致で書かなければいけない時代の不幸だ。柳宗悦を書く。けれど、喜劇としてそれは書けない。
 『来てけつかるべき新世界』で上田誠が書くのも、愚かなゆえに不幸になってゆく者らだが、残念ながら、自分たちが不幸とは微塵も考えていない類の、ほんとうの愚か者だ。そして、愚か者は、愚かであるのを自覚しているふしがある。つまりばかものである。あるいは、ほんとうのばかだ。ここに、喜劇の質の異なりがある。
 では、平塚直隆の『ここはカナダじゃない』の喜劇性をどう考えたらいいだろう。なにしろその戯曲は、唐突な次のような台詞ではじまる。

  男1 ここが、カナダか。
  男2 ここが、カナダだ。

 この二人もばかではないだろうか。
 いかにも〈不条理劇らしさ〉を感じさせるのは、登場人物の名前を、「男1」「男2」としたことにある。不条理劇は本来的には喜劇と分類してもいいと解釈する視点もあるが、ベケットの『ゴドーを待ちながら』にあるのは、ひどく悲壮な二人だ。けれど、来るかどうかわからないゴドーを待つ姿、その待つことで時間を持て余す二人の姿の愚かさは果てがしれない。冒頭のト書き、「田舎道。一本の木。夕暮れ。」という荒涼とした土地の乾いた空気は、不条理劇の不気味さも感じさせる。では、『ここはカナダじゃない』はどうか。きわめて奇妙な話だ。カナダに向かった二人が到着したのは、どうもカナダではないようだ。

  男1  しかしカナダ最大の空港と呼ばれるトロント空港は、中部国際空港に似ているね。
  男2  セントレアって大きな空港だもの、似ていて当然さ。

 正直なことを書けば、私はこの戯曲に好感を持った。なぜなら、二人の男が、途方もなくばかだからだ。けれど、これが失敗しているとするなら、この奇妙な構造は、不条理劇の作法を使わずとも成立した可能性があるはずだからだ。にもかかわらず、不条理劇のように書かなくては、ここにある奇妙なドラマを表現できなかった。すると、不条理という方法があり、現代演劇においてそれは、分厚い存在感を持つ。けれど、いま有効かを考えたときに、上田誠の作劇術によって描かれる、ばかの生き方のほうがずっと、不条理だということに気づかされる。ことによったら上田誠もまた、不条理劇を書いているのかもしれないが、それと気づかせないのは、繰り返すようだが、男たちの生き生きとしたばかなふるまいが魅力的だからだろう。
 あるいは、またべつの舞台のことを考えれば、不条理劇の構造を持ちつつ、けれど、まったく装飾を変えて作られた、つかこうへいの『熱海殺人事件』は、私を含め、多くの観客が喜劇として受け止めた。けれどそこには、つかこうへいが仕掛けた、誰にも気づかれない悪意がある。笑っている観客のうち、ごく限られた者がそれに気づく。もしかしたら、作者も無意識のうちに書いたのかもしれないそれは、否定したいが、否定しきれない自身のなかにある差別への意識を、あとになってゆっくり思い出すような見事な作劇術だ。けれど、その演出上の装飾や、戯曲にある人間観も問い直されるとするなら、異なる方法への意志、チェーホフとも異なる視点、ベケットからも遠く離れ、つかこうへいが持つどこか湿度の高さを越え、人をどのように描けばいいかをさらに追求するべきではないか。
 だから、林慎一郎の『PORTAL』や、市原佐都子の『毛美子不毛話』の、よくわからない方法に大きな可能性があるように感じる。なにしろ、語られていることではなく、語り方がよくわからないのだ。よくわからないほど魅力的だったのだ。
 そして、『来てけつかるべき新世界』のばかのことをあらためて考える。幸福な笑いがそこにはある。ぞっとするような未来への予兆もある。だが、ばかがいる。ばかの人物造形がすぐれている。このばかにはかなわない。

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