温又柔「生い繁ることばの森へ――『我住在日語』刊行に寄せて」

 
(左)聨合文学出版社から2017年3月17日に刊行された、
『台湾生まれ 日本語育ち』の繁体字版、『我住在日語』。

 Ⅰ

 2017年3月17日、『台湾生まれ 日本語育ち』の繁体字中国語版が、台湾で翻訳・刊行された。版元の聯合文學は、2014年に『来福之家』も出版している。編集長や、担当編集者たちと私の関係は続いた。一昨年末、白水社からエッセイを上梓すると報告したときは、私の第一冊目となる散文集も自分たちのもとで刊行できるのなら光栄だとすぐに言ってくれた。私には願ってもないことだ。日本では集英社と白水社とそれぞれ別々の出版社から出た二冊の自著が、台湾では同じ出版社から上梓できるのだから。
 翻訳は、黄耀進さんにお願いしようと思った。
 私が台湾の馬祖をおとずれたとき、通訳として同行していたかれだ。あの旅のあと、私は「〈国語〉を抱きしめて」と題したエッセイを書いた。その文章を白水社webサイトに発表して一か月ほど経った頃、かれは私に一通のメールを送る。「実は私も、おんさんが追究するテーマに関心があります。言語、アイデンティティー、歴史、〈国語〉とは何か、ということ……」添付ファイルを開くと繁体字の文章が出てくる。私の文章を中国語に試訳したものだ。白水社の杉本さんに相談して、黄耀進による「擁抱〈國語〉」を私の原文とともに白水社webサイトで発表することにした。
 その後の一篇、日本統治時代の台湾人作家・呂赫若を中心に据えた「失われた〈母国語〉を求めて」というエッセイを書くときは、はじめから台湾の読者が意識にあった。この一篇もまた中国語訳したいと耀進——ふだんどおり、かれへの親しみを込めてここでは敬称は割愛します——が再び申し出てくれた。私の文章を中国語にするために、私たちはよく話し込んだ。耀進と、「国語」をめぐって語り合うことが私にはとても刺激的だった。はたして耀進による「追尋逝去的母國語」もまた白水社webサイトに掲載され、台湾を中心に中国語圏の友人・知人たちに読んでもらうことが叶った。
 そのような経緯があったので、『台湾生まれ 日本語育ち』の全訳はかれに頼みたいと思った。訳者には黄耀進を、と白水社経由で聯合文學側に伝えたところ、私の希望はあっさり通る。一橋大学の博士課程に籍を置きながらも既に耀進には、小熊英二『生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後』(岩波書店)をはじめ、数多くの書籍を翻訳した経歴がある。その仕事には定評があり、台湾側が好反応であるのは当然といえば当然だ。むしろ私のほうが良い翻訳者に恵まれたことを喜ぶべきだった。
 発売予定日が翌月に迫る今年2月中旬、聯合文學の担当編集者から打診があった。
 ――タイトルは、『台湾生まれ 日本語育ち』を直訳した『生於台灣 長於日語』よりも『我住在日語』のほうが台湾の読者にとっては目を引きやすく、親しみをおぼえると思います。いかがでしょうか?
 もっともな提案だとすぐに納得した。
 webサイトで連載していたエッセイを一冊の本としてまとめるとき、白水社の杉本さんが帯の一文に選んだのが「我住在日語 わたしは日本語に住んでいます」だった。本が発売されてまもない頃、母はいそいそとこう報告してきた。
 ――おねえちゃんの『我住在日語』、ママ、本屋で見たよ!
 タイトルではなく、帯の一文のほうが母にとっては印象的だったのだ。父もまた「おねえちゃん、『我住在日語』の出版、おめでとう」と私を祝福した。
 言うまでもなく「我住在日語」ということばは、私自身にとっても特別な意味を持つ。
 日本語版と同様、聯合文學が刊行する『我住在日語』もまた、AKI INOMATAさんが制作した東京をモチーフとしたやどを背負うやどかりが台北の古地図のうえを歩む写真が表紙を飾っている。本の中には、著者が台湾の読者に宛てた序文と、「台灣版新增篇」として昨年1月に書いた「台湾総統選挙を終えて」、そして耀進による訳者作品解説が加わる。この“ほんもの”の『我住在日語』を、母や父に見せるのが楽しみだ。ところが……
 ――黃先生寫的非常好!
(黄さんの文章はとってもいい)。
 母に電話したら、開口一番そう言われたのだ。母は、清明節(お盆)の「掃墓(お墓参り)」のために、私よりもひと足早く台湾に戻っていた。
 ――おねえちゃんの本、パパ、10冊、インターネットで買ったよ。
 得意げに報告する母の声を聞きながら、まさか先越されてしまうとはと思う。
 ――ママ、今、黄先生の解説、読んでる。他寫的很詳細、説明、すごくわかりやすい。おねえちゃんの本に対して、すごく真摯(誠実)の態度……
 早速、耀進に母の反応を報告したら、「おんさんのお母さまは、やさしいですね」という返事が返ってくる。中国語と台湾語が混在する「ママ語」を、「媽媽語」という中国語に翻訳したひとの反応がこそばゆい。
 2017年3月30日、私は東京を出発する。
 台北の空港では、父と母が待っていた。父は会社に戻るというので、母と二人で淡水の家に帰る。玄関に入るとすぐに紙袋が置いてある。のぞきこむと、9冊分の『我住在日語』があった。たぶん、1冊は母が自分のものにした。それにしても母以外の台湾の読者は、この本をどんなふうに受けとめるのだろう? 想像すると緊張がつのる。けれども台北での私は東京にいるときほど思い詰めない。深刻さが続かない。傍らで、母がひっきりなしに喋りかけるからだ。今回のお墓参りでのこと、東京にいる妹と姪の最近のようす、94歳になる祖母の具合、前日に父と行った近所のスーパーで買ったマントウのこと……母の話を聞くともなく聞きながら、熟した芭樂(グァバ)を味わい、ほどよく冷えた黒松沙士(台湾コーラ)を啜る。どちらも、母があらかじめ用意してくれたものだ。

 *

 台北は雨に煙っていた。石造りの立派な建物を示しながら耀進が教えてくれる。

 ――あれは、台北公会堂です。
 昭和天皇の即位を祝して建築されたものらしい。台湾――特に台北――には、このような建築物が多く残る。日本統治時代に建てられたといっても、別に和風の家屋ではない。1895年、台湾が割譲されると、日本は清代に建てられた官庁や家などはすべて解体し、台湾統治に必要となる建物を次々と新築した。欧米を手本に習得した最先端の建築技術を実践する場として、台北は恰好の舞台となった。西洋式の立派な建築物は、大日本帝国の威信を示すためでもあった。公会堂、銀行、病院、警察署、紅楼という愛称の演芸場……
 ――日本人がいなくなると、国民党政府がそれらの建物をそのまま使うようになりました。
 蔣介石は、日本の痕跡を可能な限り抹消した。しかし近代設備が整ったこうした建築物はちゃっかり再利用した。台北公会堂の中には、蔣介石夫人である宋美齢が親しいひとを招いて寛いだ専用のティールームも残されているという。
 3月末日の台北は、想像していたほど暖かくなかった。薄手のコートでは肌寒いぐらいだ。水ギョーザが食べたい、とワガママを言う原著者のために翻訳者は一軒の庶民的な雰囲気のレストランに連れていってくれる。「八方雲集」という、連鎖店(チェーン店)らしい。にぎわっていたが、二人分の席を何とか確保する。隣も、ななめ向こうも、そこらじゅうが高校生らしき若者ばかりだ。「鍋貼水餃專賣店(焼き餃子及び水餃子専門店)」だけあって、「八方雲集」では私たち以外のひとたちもギョーザを食べている。みんなは塾に行く前のおなかの準備です、と耀進。おなかの準備、という耀進の日本語が私は大変気に入る。腹ごしらえ、よりわかりやすい。私たちも水ギョーザでおなかの準備だ。約一時間後には
 「《我住在日語》新書發表前導會 」と題されたトークイベントが始まる。私はきっとこんなふうに喋り出す。
 ――說真的,我很想一直用中文講,但是您們快要知道了,我的水平有可能不能繼續用中文。這樣內容我都寫在這本書裡面。
(ほんとうはずっと中国語で喋りたいけれど、私の能力ではそれはかないません。そのことはこの本を読んでくださればわかります)……
 そこまで言い終えたら、こう言うのだ。
 ――好, 從現在開始講日語(はい、ここからは日本語で話します)!
 やはり日本統治期の建物の一階部分に、イベントの会場であるそのカフェ・バーはあった。アルバイトらしい女性と、銀色に近い白髪が印象的なマダムが迎えてくれる。やわらかな灯りに照らされた空間が居心地いい。
 店の名は、「小小蔬房」という。
 「蔬」は、野菜を意味する。
 「房」は、部屋。
 直訳すると、ちいさな野菜室、という感じだろうか。
 ――「蔬房/shūfáng」は、「書房/shūfáng」と同音。小さな書房、の意味と重ねています。
 耀進が教えてくれる。なるほど。本についてお喋りをするには、うってつけの店名だ。私たちが到着したときにはまだ誰もいなかった。ここで待ち合わせしている編集者たちから少し遅れると連絡が入る。他の人たちを待つ間、私と耀進はマダムが淹れてくれた中国茶を啜る。それどころか、手作りのシフォンケーキまで出してくれる。水ギョーザを食べたばかりだったけれど、もちろん甘いものは別腹だ。いそいそとフォークを動かしながら私は品の良い紅茶味のケーキを味わう。こんなすてきな場所で自分の本について話ができるのはたいへんしあわせです、と私が中国語で話し掛けても、マダムは控えめにほほ笑むのみ。きっと、聞き役に徹して多くは語らないひとなのだろう。
 金曜、それも雨の降る夜だったので、ひとが集まるかふと心配になる。けれどもすぐに、こんな日に来てくれるひとなら、私にとても会いたいと思っているひとだろうから、たとえ一人しかいなくても一生懸命話そうと思いなおす。とまあ、こういうときに前向きな気持ちになれるのが、私の取り柄なのだ。
 幸い、小説家の朱和之さん――耀進の大学の先輩でもある――をはじめ、耀進と親しい人たちが次々と駆けつける。昨年、耀進は陳舜臣の自伝を翻訳していて、その版元である出版社の方なども来てくれた。実は私も、新世代の「在日台湾人作家」として陳舜臣自伝三部作が台湾で刊行されたことを記念するイベントのゲストスピーカーとして昨年の夏に台北をおとずれている。そのため、何人かの方とは数カ月ぶりの再会を喜びあえた。顔見知りだけでなく初めて会う方々も加わり、小さな店の座席はいつのまにか一杯になる。
 開演時刻になり私は予定どおり、中国語で自己紹介をする……カウンターの内側――背後に厨房が控えている――に私と耀進が座り、カウンターを挟んでこちらに向かい合う来客たちに語り掛けるという恰好だ。「中文到這裡(中国語はここまで)!」とおどける私に、カウンターの向こうの観客たちが笑う。その中には『来福之家』の訳者・郭凡嘉さんもいた。凡嘉さんとも私は、自著の翻訳作業を通して親しくなった。外国にルーツを持つ子どもたちを対象とした日本語教育について研究している凡嘉さんの話を聞くのは、いつも興味深かった。凡嘉さんのほうもまた、そういう子どもの一人だった私の話を面白がってくれる。要するに今回と同様、前作でも私は良き翻訳者に恵まれていた。エッセイ集の翻訳は耀進にお願いするつもりだと伝えたとき、かれなら安心です、と凡嘉さんは言った。耀進のほうも、郭さんが翻訳した作品はどれもとても素晴らしいです、と言っていた。ふたりもまた、友人同士なのだ。いや、学業や他の仕事と並行しながら精力的な翻訳活動を行なっているふたりは、どちらかといえば同志のような関係なのかもしれない。去年、新たに翻訳された陳舜臣三部作のうち、『青雲の軸』は凡嘉さん、『道半ば』は耀進がそれぞれ担当していた。
 ――きょうは凡嘉さんもいるから、困ったら助けてもらえるね。
 ――そうですね、郭さんがいれば安心です。
 開演前、そんなふうに言っていた耀進だが、いざ始まってみるとその通訳は安定していた。
 日本語のじょうずな台湾人ならいくらでもいる。
 中国語の流ちょうな日本人もたくさんいる。
 けれども今の台湾と日本で、耀進ほど私のニホンゴを適確に中国語に通訳できるひとはたぶんいないと思った。私が何を思いつき、何を言っても、その都度、確信に満ちた口調で適切な中国語に言い換えていく。
 わたしが、
「原作者が四年もかかってようやく書くことのできた本を、この優秀な翻訳者はたった1年で訳したんですよ」
 と話したときだけ、
原作者花了長達四年的時間才寫成的這本書,這傢伙只花了一年就翻譯完了(原作者が四年もかかってようやく書くことのできた本を、コイツはたった1年で訳したんですよ)」
 と“誤訳”して場の笑いを誘っていたけれど。
 複数の外国語を流ちょうに操れても、国境は越えられる、と無邪気に謳いあげるひとたちにとっては、私のニホンゴは混乱に満ちていて、理解しがたいものだと思う。「国境を越える」には、こちら側とあちら側が国境線によって明確に区別されていなければならない。しかし私の場合は国境線を、越えられずにいると思いきやとっくに越えていたり、越えたつもりになっていたけれど実は越えていなかったり、そもそも越える気があるのかないのか……といった調子なのだから。
 日本と台湾。  30年以上暮らしてきながらも身分は「外国人」である「国」と、物心をついて以来一度も長期逗留したことがないながらパスポートのおかげで「本國人」としてみなされている「国」。
 私の中に書き込まれた台湾と日本を隔てる境界線は、決してなめらかな一本線ではない。幾筋もの線が、ぶれながら重なっている。
 自著について喋る私のニホン語を次々と中国語にしていく耀進には、『我住在日語』の翻訳者としての矜持のようなものがあって、私はそのことにほとんど感動していた。
 最後は朗読だ。
 『台湾生まれ 日本語育ち』が、もう一つの母国で翻訳・刊行された今、日本語で書いた原文を、ではなく、中国語となったその文章を、台湾の読者たちにむかって読みたいと思った。私が選んだのは、龍応台『台湾海峡一九四九』にあった鮮烈なエピソード、目と鼻の先の故郷に帰れぬまま台湾に限りなく近い中国・福建省で晩年を過ごす基隆出身の女性が「台灣之歌」を聞かせて欲しいと頼まれて「君が代」を歌う、というシーンを引用した部分だ。
 「若再過往, 我大概不會想到自己需要再大家面前以中文演說, 大概自己也自覺, 自己的中文不忍卒聽……」
 台湾の聞き手たちを前に読みあげた中国語は、そのときの私自身の気持ちとも合致する。
(以前なら、人前で中国語を喋るなんて考えられなかった。自分の中国語は聞くに堪えないものだと思っていた……)
但, 決定在與大陸如此接近的馬祖, 講述有關〈許桑之物語(許さんの物語)/許媽媽的故事〉的剎那,自己便有所覺悟。ImaginAsia」
(けれども、限りなく大陸に近い台湾・馬祖で、〈許さんの物語/許媽媽的故事〉について話そうと思った瞬間、覚悟は決まった。イマジナジア)
 この日、繁体字になった自分の文章を読みあげながら、私の「イマジナジア」、「想像亞洲/xiǎngxiàng yǎzhōu」はまだ継続中なのだと感じた。
對個人來說,國家是什麼? 我們看慣的地圖上的國境線是什麼?……個人にとって、国とは何か? わたしたちがあたりまえのように思い描く地図の上に引かれた国境線とは何か?」
 ――このあたりなら私の中国語が下手な分、この本を書いた切実さが伝えられると思うんだよね。
 事前にそう伝えたら、まさにそうです、と耀進はすぐに賛成してくれた。
 ――おんさんが、自分の思いを自分自身のことばで語る。そのことの意味が、台湾の読者に必ず伝わるはずです。
 その反応に、私は彼が訳者として『我住在日語』に寄せた解説の題を私は思いだす。

 在語言的密林中勇敢前行。

 ことばの密林の中へと勇気をもって前進する。
這便是我的語言, 不, 這語言就是我。これがわたしのコトバだ。いや、このコトバがこのわたしなのだ……」
 読めない文字にはピンインを振っておいたものの、中国語の文章を読むのはやっぱり強い緊張を伴う。私がどうにか読み終えると、「小小蔬房」に集ったひとびとは安堵したように拍手する。きっと学芸会の子どもを見守る気分で、私のたどたどしい中国語に耳を傾けていたのに違いない。
それからQ&Aに入る。端の席にいた女性が挙手する。今夜、一番乗りでやってきた方だ。
「日本語で話したほうがいいですか、還是我用中文說(それとも中国語を使ったほうが)?」
 話しやすいほうで、と私は日本語で言ったのだが、請妳都說吧(両方でどうぞ)と耀進が中国語で促す。するとかのじょは、持参の『台湾生まれ 日本語育ち』を示しながら、この本は私にとってすごく大切な一冊です、と日本語で話してから、這本書對我來說是很重要的一本書、と中国語でも同じことを言う。日本に留学中だというかのじょは耀進の案を採用し、ふたつの言語で私の本についての感想を伝えてくれたのだ。
「カタカナで書いてある台湾語をたどりながら、わたしは台湾の歴史についてたくさん考えました。そして、お祖母ちゃんのことを思い出しました」
 かのじょは学校に通うようになるまで家の中では台湾語しか喋っていなかった。中国語はあとになって覚えたことばなのだ、と言う。それに……
「わたしのお祖母ちゃんはわたしが眠るときにいつも、オヤスミ、と言いました。あとで自分で日本語を勉強して知りました。オヤスミって日本語だったんだ! 今もわたしにとってオヤスミは日本語というよりも台湾語に感じます……」
 日本語と中国語。
 留学生として勉強中の「外国語」と、小学生になってから学びはじめた「母国語」。二つの言語で、そんなふうに話すかのじょの母語もまた、たった一つの「国語」ではできていないのだな、と私は気づく。そして台湾の私の本の読者の中にはかのじょのように、自分の母語には日本語もあった、と気づくひとも少なくないだろうということに思いあたる。
「実は日本語です。でも今もわたし、お祖母ちゃんとお祖父ちゃんの声を通して覚えているその響きを、台湾語と感じます。日語對我來說是阿公阿嬤的語言……」
 中国語にしか触れたことがないひとのほうが、台湾ではむしろ少ない。今は台湾語と呼ばれる福建語がルーツとなったことば、客家語、原住民たちのそれぞれの言語……複数の言語が否応なく織りこまれた母語を持つ台湾人の中には、日本の読者よりもずっと切実に私の本を読むひとがいるかもしれない?
「自分のことを、自分のことばで言うのは大事。この本は私にそれを教えます。自己用自己的話說自己的事才是最重要的
 私の本の感想をそのように結んだかのじょに向かって私は思わず、「妳是我妹妹(あなたは私の妹)」と言う。二つの言語で長いスピーチをやってのけたかのじょの表情がほころぶ。
 トークイベント終了後、ささやかなサイン会がはじまる。
 『我住在日語』に、オンユウジュウ、と心の中で呟きながら、温又柔、と私は描いていく。中国語でこの本を読むひとたちが、漢字でゆるやかに結ばれている日本語と中国語の関係に思いを馳せてくれるといいなと思う。サインがひとしきり済んだ頃、 「聽妳的話,讓我內心一陣悸動。
そう話し掛けてきたのは、「小小蔬房」のマダムだ。
「あなたの話を聞き、私は心を動かされました」
 うれしかった。謝謝、と告げる私にかのじょはささやかな微笑を浮かべて、
「わたしも、わたしの家はどこなのだろう、と考えるの……」
 と切り出す。私は少し意外だった。かのじょには自分のことをすすんで喋りたがらない印象を抱いていたので。
 マダムが言うには、かのじょの両親はどちらも大陸の出身だ。
 他の子どもは皆、この台湾島のどこかに祖父母や曾祖父母といった一、二世代上の親戚縁類がたくさんいる……けれども自分の家族はそうではない。自分は、両親の両親たちとは縁が薄かった。阿公(お祖父ちゃん)、阿媽(お祖母ちゃん)と呼ぶべきひとたちは、皆、台湾海峡の彼方、大陸にいた。もっといえば、自分にとって祖父母とは、いつ帰れるともしれない故郷について語る親たちの話の中にしかいなかった。
「歳をとればとるほど、さみしさは募る。そんな両親も、もういなくなった。今ではこんなふうに考えている。台湾は、わたしの子どもたちの国なのだと……」
 ……ひょっとしたら私が今ここに書いていることは、かのじょが話したとおりではないかもしれない。かのじょが語る中国語に耳を傾けているうちに、別のだれかから聞いた話や読みかじった物語も知らずに繋ぎあわせてしまっているかもしれない。マダムと向きあっていたあのとき、私は集中していなかったわけではない。
 紅茶味の手作りのケーキ。
 雨の台北に冷えたからだに沁みいる温かいお茶。
 きっと、おいしいお酒もたくさんある。ここをおとずれるお客さんたちが、「お家のように」くつろぐ場所。
 そんな心地の良い場所の主が、自分の家はどこなのだろう、と、日本からやってきたわたしにうちあけている。そのことにわたしは動揺していた。銀色に近い艶やかな白髪のかのじょは、わたしの両親、叔父や叔母のうちのだれかのクラスメートだったとしてもおかしくない。
 ――我的阿嬤阿公都不在台灣。
 ――日語對我來說是阿公阿嬤的語言。
 むかしむかし、台湾が日本だった頃、ここにいたひとたちとここにいなかったひとたち。そのどちらもが「台湾人」なのだ。
 日本と、中国。
 台湾と、大陸。
 海峡を挟んで、まったく別の時間を生きていたひとたちが、政治的な強い作用による些細な偶然から「中華民国」の国民として「合流」する。その歴史のはじまりからとっくに半世紀以上が過ぎた。台湾が日本の統治下にあった期間よりも長い時間が既に流れている……
「小小蔬房」のある町から新北市淡水の両親が待つ家までは捷運(地下鉄)に45分ほど揺られなければならない。車窓の向こうの町並みをぼんやりとながめながら、マダムが語ってくれたことを考える。大陸から台湾に渡った親をもつひとりの女性が、親の国ではないこの台湾を娘たちの国と言う。
(それなら、かのじょ自身の国はどこにある?)



 原來, 沒有親人死去的土地, 是無法叫作家鄉的。

 私は、その文章の前でしばし立ち止まる。
 台湾の著名な作家・朱天心による短篇小説『想我眷村的兄弟們(軍人村の兄弟たちを思う)』の一節だ。この文章を私なりに翻訳すると「肉親が死んでいない土地のことを、故郷と呼ぶのはむずかしい」。
 蔣介石率いる国民党に伴って台湾にやってきた軍人やその家族が暮らす村を、台湾では「眷村/ juàncūn」と呼ぶ。朱天心や、やはり作家であるその姉の朱天文―候孝賢映画の脚本家としてもよく知られる――は、「眷村」の出身だ。
 「親」「人」「死去」「土地」「家郷」……文字を、見つめながら考える。大陸の故郷にいつか帰ると願いながら仮住まいの日々を重ねる親のもとで育った眷村の子どもたち。眷村育ちでなくても、そのような親を持つ子どもたち。昨夜のマダムはどちらで育ったのだろう?
 一夜明けて私は、「紀州庵文学森林」という、風雅な名を冠した「文学館」にいる。手入れの行き届いた木々の緑が眩しい公園を通りぬけると、日本式の家屋には書店や文芸に関する展示室が入る本館はあった。敷地内には、食事処と茶店の別館、さらに立派な離れも併設されている。本館と別館の建物は復元だが、離れは百年前の建築物を修復したものだという。日本統治時代、この一帯には「紀州庵」という名の料亭があった。すぐ近くに淡水河の支流、新店渓が流れているため、新鮮な魚――特に鮎――が自慢の料亭で、当時の日本人たちは人力車でここにやってきては日本料理に舌鼓をうちつつ大いに寛ぎ、芸妓遊びにもいそしんだとか。
(台湾は、大日本帝国の植民地の一つだった)
 日本人たちがいなくなったあと、元料亭の建物は公務員や教職員の官舎として利用されていたが、大学や出版社が集う土地柄を生かして、近年、台北市文化局の委託で財団法人台湾文学発展基金会が運営する文化施設へと生まれ変わったという。
 月が変わって、四月の初日。
 「文学森林」という響きが似つかわしい、静寂ながらも文学の気配が濃密に漂う空間に身を置くのは心地よかった。前日から続く緊張もようやく少し緩んできたところだ。そんなときに、沒有親人死去的土地, 是無法叫作家鄉的、という文字は私の目に飛び込んできた。「紀州庵文学森林」の壁にはデザイン・アートとして古今東西の文学作品からの引用を綴った文字がちりばめられている。『想我眷村的兄弟們』からの一文も、その一つだった。
那麽,他們的家鄉在哪兒?
 中国語で、壁の文字に問い返す。
 ――それなら、かれらの故郷はどこ?
 まだ喉のあたりに火照るものがある。数分ほど前、「紀州庵文学森林」の総責任者である陳蕙慧先生による見事な司会進行で「新書發表, 讀者見面會」(新作発表、読者交流会)を終えたばかりだった。
 前日と同様、私は最初の一言のみ中国語と台湾語で挨拶をし、あとは日本語で喋った。陳蕙慧さんは私の前作『来福之家』にも充分な時間をかけて言及してくれた。 ――「中華民国」のパスポートを持ち、福建語をルーツとする今は台湾語とよばれる言語が多々混じる母の声を聞きながら、日本国の首都・東京で育つ。日本人であり、しかも台湾人でもある。日本人ではなく、台湾人ですらない。あなたの小説の主人公たちは、さまざまな何かと何かの間を揺れながら、その揺らぎそのものの中で自らを探究している……
 文学施設「紀州庵文学森林」の運営とともに雑誌「文訊」の編集長も務める陳さんが、自著をそのように評してくださるのは嬉しくまた頼もしかった。揺らぎの中に身を置く。それは、私がものを書くうえで最も気にかけていることなのだから。
 ――『来福之家』の著者が小説のかたちで現わそうとしたことを、散文の形式で突き詰めたのが今回刊行される『我住在日語』と考えてもよいでしょうか?
 陳先生にうなずきながら私は、以前、詩人の関口涼子さんが私の2冊の本を「二つのような一つの、一つのような二つの本」と称してくれたことを思いだしていた。
 前者が私の創作の原点であるなら、後者は私の作家としてのまぎれもない基盤だ。 その日、「紀州庵文学森林」の書店の最も目立つ場所には、『来福之家』と『我住在日語』が平積みになっていた。本の傍らには、手書きのカードが添えてあり、こんなふうに書いてある。

 交互使用日語和中文發表演說,感覺兩種相異的語言,在自己聲音中融合。
  ――温又柔『我住在日語』


 私にとってかけがえのない二冊が、台湾にもちゃんと出揃ったという感慨をいっそう強く噛み締める。私は耀進と凡嘉さんにそれぞれの訳書を手にしてもらい、三人で記念撮影をする。そんな私たちのそばを、ほほ笑みながら通りすぎるひとがいる。
 ――わたしも、あの方と知り合いになれて嬉しかったです。
 凡嘉さんが言った。
その女性が、最前列の凡嘉さんの隣に座っていたことはわたしもよく覚えている。陳先生が喋るときも、私が答えるときも、耀進が訳しているときも熱心にうなずいていたひとだ。Q&Aの時間にうつると、かのじょは真っ先に手を挙げ、自分は“新移民”の子どもたちの教育活動に携わっています、と自己紹介した。
 台湾人との国際結婚を機に台湾に定住したひとびとのことを、台湾では“新移民”と言う。
 台湾では1980年代初頭に国際結婚ブームがあり、1990年代後半から2000年代前半にピークを迎えた。夫が台湾人で、妻が外国籍というカップルの割合が圧倒的に高く、その中でも多くの女性が東南アジア諸国出身であるという統計だ。凡嘉さんの隣で真剣に私の話に耳を傾けていたかのじょは、そのような女性を母親に持つ子どもたちと日々関わっているという。そして、ときおり子どもたちが、かれらの母親が中国語以外のことば――ベトナム語やインドネシア語など――を喋っているのを、恥ずかしがったり、ひどいときは蔑むこともあり、そのことで母親たちが傷つけられている。
 ――我應該向那樣的媽媽們說些什麼才好?
 数秒間、ことばが出なかった。隣にいる耀進が、気遣うような視線を向けてくるのを感じる。ちがう。中国語が理解できなかったのではない。
 ――そういうとき、わたしは子どもの母親たちに何と声をかけてあげればよいと思いますか?
 声が震えてしまいそうで、口を開くのがこわかった。
 ――あたしも、ふつうのママが欲しかった。
 外国人の親を持つ子どもがそう思い詰めるようになるのは、決してその親たちのせいではない。正すべきは、子どもたちにそう思わせてしまう環境のほうだろう。けれども私の母は、自分にとっては外国語である日本語で自分の娘にこう謝ったのだ。
 ――ごめんね、ママ、ふつうじゃない……
 台湾では、“新移民”の親をもつ子どもたちは、“新移民第二世代”ないしは“新台湾の子”とも呼ばれているという。

 我想教導孩提時代的自己, 媽媽的日語其實很了不起。現在大家都很羨慕。

 『我住在日語』を、「新台湾の子」たちにも読んでもらえたら嬉しい……あの場でのわたしは、その女性に対してそう言うので精いっぱいだった。
 それにしても母は、この箇所を読んだのだろうか?

 子どもの頃の自分に教えてあげたい。ママのニホンゴは素晴らしい。今に、みんなが羨ましがるようになる。

 自分の娘が、自分の不完全な日本語をそんなふうに讃える日が来るとは、異国で子育てに明け暮れていた頃の母は想像もしなかったはずだ。外国人としてままならないこともあっただろう。それでも母は、わたしや妹が与えられた環境の中でのびのびと生きることを第一に望んでいた。そこが日本であっても台湾であっても、たぶんもっと別の国であっても、あの母ならきっと、同じことを自分の娘たちに願ったはずだ。
 近頃、よく考える。
 わたしが、わたしの“ママ語”を受け入れられたのは、母のほうがいつもわたしのあるがままを認めてくれていたことに気がついたからなのではないか?
 だからこそ、自分の母親はふつうじゃないとかつての自分に思わせたありとあらゆるものに触れるたび、今も、冷静ではいられない。
 昨夜のマダムの声がよみがえる。
 ――到現在, 我就這樣子想:台灣是我孩子們的國家。
(今はこう思うの。台湾は、私の子どもたちの国なんだって)
 けれども、自分の親のことを外国人であるという理由で疎んじなければならない国のことを、子どもたちは愛着を持って「私の国」と呼べるのだろうか?
 いや、もっとはっきり書こう。
 今の日本を、私は「私の国」と心から呼びたい?
 心をしずめるために、私は『我住在日語』をめくる。

  温又柔的思索、體驗,不僅適用於日本,也適用於世界各地,只要出現語言交錯的場域,或多或少都得臨苦心思索這個命題。特別在今天這個各國人流往來頻繁,下幾個世代應該會出現更多面臨這種困擾的人們。(……)在翻成中文,或者往後有機會出現其他語言版本時,我們希望並相信這本創作能把那股溫暖和勇氣,傳遞給更多面臨苦惱的世代。

 「譯者序」にある文章を、自分なりに理解するとこうなる。

 この本にある温又柔の思索と経験から学ぶことは、日本にとどまらず、世界各地の言語が交錯するありとあらゆる場所で育つこととなる次世代の読者にとって大きな力になると信じている。
 耀進の言うとおりなら、わたしは、わたし自身のためにとどまらず、この思索を継続するのみだ。それに、日本語で書くことに対してなら、この心はとっくに決まっている。

 在語言的密林中勇敢前行。

 私が進む私のことばの森には、日本語を主として中国語や台湾語も繁る。
 台湾に生まれ、日本語で育った私の本に、台湾――厳密には、繁体字中国語が読める全て――の読者にとっても、かれら自身の住処であることばを見直し、それを愛おしむ契機が備わっていると信じたい。

 *

 淡水の家では、両親が待っていた。
「発表会は成功?」
 ウン、とわたし。チェン・ゴン、チェン・ゴン、と胸を張ってみせる。父の顔がほころぶ。母も、おねえちゃん、リ・デンライラ? と出迎えてくれる。もう夜遅かったので父も母もパジャマ姿だ。
 ――ご両親は、見に来ないんですか?
 ひとからそう訊かれたとき、私はこう答えた。
 ――父も母も、シャイなんです。
 私もまた、両親が会場にいたりなどしたら自著について屈託なく喋る自信がなかった。こんなふうに、家でゆったりと待っていてくれるほうがずっとありがたい。テーブルを見ると、前日と同様、芭樂が用意してある。最高のご褒美だ。母とちがって、父はわたしの新作について特に何も言ってこない。でも、わたしには父が発売早々、十冊も注文してくれたことで充分だった。

 ――パパ、少しかなしい。
 いつか、母がこっそり私に打ち明けたことがあった。
 ――おねえちゃん、心の中、いろいろつらい。我們都不知道、だからパパ、胸が痛い。言わないけど、パパの気持ち、ママわかる……
 2009年10月、私の小説がはじめて雑誌に載ったときのことだ。
 母によれば、「好去好来歌」のあらすじを知った父はショックをうけたという。異国暮らしとはいえ、自分の娘は何不自由なくのびのびと育っていると信じていた。それなのに親である自分たちが知らなかっただけで、心の中ではいろいろな葛藤があった。自分が東京に赴任しなければ、味わわせずに済んだ苦痛を娘に与えてしまった……冗談じゃない、とわたしは思った。わたしは、ことばとアイデンティティーをめぐる小説が書きたかっただけだ。台湾人でありながら日本で育つことになった自分の運命について、両親を責めるつもりなど一切なかった。
(むしろ、逆。父が、私を日本に連れてきてくれたから、わたしは作家としての出発点に立つことができたのに……)
 とはいえ父は複雑な心境に陥りながらも自分の娘が作家になったこと自体は嬉しかったらしい。『来福の家』が出版され、その後、台湾でも翻訳・刊行された頃にようやく、
 ――いい本を書きましたね。
 父は直接私に言ってくれた。
 今回も、そう思ってもらえるだろうか?
 あっというまの二日間だった。翌日にはもう東京に戻る。父母が寝静まる夜中、『我住在日語』の表紙を私はめくる。深呼吸してから、父と母の姓名をゆっくりと書く。一呼吸おいてから、
我想把這本書, 獻給我的父母. 在我爸爸65歲的生日
 と書き添える。
 両親に対してこんなことを、これからあと何度できるのだろう、と思いながら。早く、また書かなくちゃ、急がなくちゃ……ニホンゴが疼く。
(了)


黄耀進さん(右)、「来福之家」の訳者・凡嘉さん(左)と。
紀州庵文学森林にて。

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