小池昌代「詩と幼年──水の町の物語」詩に出会ったころ(最終回)おじいさんと自転車

 読み終わった古新聞は束ねて売る。紐をかけるのは女たちの仕事だ。きっちりとしばって結束する。これがなかなか大変で、密度の濃い、胆力と呼ぶような力が必要だった。たかが紐。しかし誰が見ても気持ちのよい仕事をなそうとすれば、そこには技術よりも前に気構えが必要で、働き盛りだった頃の母には、いつも歯を食いしばっていたという印象がある。
 母はそうして、新聞紙ばかりでなく自分自身も縛っていたのだろう。一度だけだが、わたしも縛られた。何かとてつもなく悪いことをしたのだろうと思う。母は泣きながらわたしの手首に紐をかけ、鬼の形相で怒っていた。わたしも泣きながらあやまっていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。――わたしの声をわたしは覚えているが、何をしたのか覚えていない。いつもの母の怒り方ではなかった。怒った母が怖かったというより、母が見知らぬ女になって怒っていることが怖かった。手首を縛られたわたしは犯罪者のようだった。ごわごわした麻紐の感触。それが手首にくいこんで痛かった。母の力は予想外に強く、それが怖くて一層泣いた。
 新聞紙は放っておくと、いつもいつのまにか溜まってしまう。あんたも結んでみなさいと母や祖母に言われもしたが、わたしの紐がけは頼りない。いつもふわふわした甘い結び方になってしまう。縛られる本体と縛る紐のあいだに、ずるずるとした隙間ができ、そこから何かが逃げていってしまう。
 今、古新聞を紐で括るとき、わたしはある便利な道具を使う。掌に収まるほどのイルカの形をした結束器だ。古新聞に十字にわたした紐の末端を、鈎状の部分にかけくるくる回す。すると次第に紐が締まってきて最後は結束点が出来、完璧な「縛り」が完成する。こつさえわかれば、少しも難しくない。
 自分のしたことながら、みとれてしまい、お見事! と毎回、胸の中でほくそえむが、しかし仕事をしたのはあくまでも結束器。わたしはくるくると遊んだにすぎない。
 この便利な道具は、十年近く前、とある文具店で実演販売されていた。そのときの実演者は職人風のおじいさんだった。派手な言葉もアクションもない。こんなふうにやるんですよ、誰にでもできますと言い、あとは黙々と紙の束を縛った。くるくるが、やがてきゅっとすぼまり、束のカドに硬い紐の結束点ができる。なんという鮮やかさ。気持ちまでもがきゅっと結ばれ、空気が澄む。周りにはいつのまにか人だかりができていた。当時小学生だった息子と、気づけば最前列で釘付けになっていた。「お母さん買おうよ」と息子が言う。うん、買うしかないね。子連れのサクラと思われるかなと思いながら、わたしは先頭を切って、ひとつください、と言った。五百円くらいのものだった。

 そんな「くるくる」もない昭和の下町。なんとかしばった古新聞を買い取りに来てくれるのは、こちらも地味なおじいさんだった。
 おじいさんは、母や祖母にくず屋さんと呼ばれていた。無口な人で、玄関の戸を開けてのそりと現れる。長身の、うっすら髭の生えた、表情というものを持たない人だった。
 玄関先に突っ立ったまま、鈎のついた竿秤で束の重さをはかる。子供だったわたしは、最初はおじいさんより秤のほうに目を奪われた。長く使われてきて飴色に光る棒。重さの目安に使われていた分銅のようなもの。そこには特権的な「専門」の匂いがした。
 そしてすべての作業が終わると、おじいさんは祖母や母の掌に、小銭を置いた。五円玉と一円玉。赤銅色はあったろうか。雀の涙というけれども、泣き出したいようなわずかなお金だった。わたしの胸には衝撃が走ったが、大人たちの顔には感情が現れない。その金額を互いにのみこんで、もめるようなことも一切ない。古い新聞紙なのだから、今も昔も持っていってもらうだけでありがたいことだろう。しかしこの売買が成立するために関わった人間やその労働を考えると、あのわずかさにはどうしたって理不尽な驚きがある。おじいさんはこれを更に売るのだ。塵が積もれば山となるのか。塵はいくら積んでもなかなか山にはならないのではないか。塵が山に至る途方もない時の長さを思い、わたしは、目の前のおじいさんを改めて眺めたと思う。
 おじいさんは最後に、回収した古新聞を家の前にとめたリヤカーに載せる。リヤカーの荷台には他から回収してきた古新聞の束がすでにいくつか積まれている。静かな過去という風情で。その光景にも見るべきものはあった。
 リヤカーを引くのは自転車で、脇には黒い犬が繋がれていた。文字通り真っ黒なおとなしい犬で、吠えるところを見たことがない。
 鎖を垂らしてとぼとぼとついていった、あの黒い犬もおじいさんだったのかもしれない。どこへ行くのも一緒だったと思う。「黒犬のひと」とおじいさんを呼ぶ人もいた。
 最後におじいさんが来たのはいつだったか。わたしが覚えているのは冬の日のことで、わたしは居間で塗り絵をやっていた。塗り絵はノートになっていたから、一冊を終えると古新聞のように始末される。おじいさんがかつて回収したなかにも、わたしの塗り絵ノートはだいぶあったはずだ。
 その日、玄関先で静かな作業を終えると、おじいさんはいつものように帰っていった。窓をあけると、黒い犬とリヤカーと自転車をこぐおじいさんの後ろ姿が目に入った。荷台の積荷はそうたくさんはなかった。おじいさんは肩をいからせ少し腰を浮かせながら、まるで若者がそうするように勢い込んで自転車をこいでいた。

 このあいだ実家へ行った帰り、父が駅まで送っていくという。九十近い。心臓が悪い。帰りが徒歩より楽だと考えたのか、自分の古い自転車を出した。車の免許を返上して長い父も、自転車にはいまだに乗る。母もそうだ。送らなくていい、それに自転車は危ないとわたしは当然のことを言うが、親は聞かない。
 駅で別れたあと、自転車で帰っていく父を見送った。よろよろふらふら。おじいさんの自転車は危なっかしい。なのにいったん走り出すと、黒犬のおじいさんがそうしたように途中から腰を浮かせ、少年のように漕いで行く。思わず笑った。
 わたしがもっと歳を重ね、おばあさんになったとき、まさかもう自転車はこがないとは思うけれど、もしそんなことがあったとしたら、サドルをまたいだ瞬間に、少女のころの記憶がふと戻ってくるかもしれない。やってみなければわからない。
 おじいさんの姿が消えてしまったあと、古新聞はトイレットペーパーと交換されるようになった。「ちり紙交換」と呼ばれていたそれは、最後手元に、味気ないペーパーが手渡される。しかしその即物感は清々しい。あれは初めてトイレットペーパーというものに正しい光が当てられた瞬間だったのではないだろうか。
 だがそこには、女の掌に載ったわずかな小銭のなまめかしさはない。おじいさんの胸元のほの暗さも、連れていた黒い犬の影も。
 おじいさんと犬は、どちらが先に逝っただろう。


*本連載は今回で最終回となります。長い間のご愛読、ありがとうございました。
 本連載に書き下ろしを加え、2017年秋書籍として刊行予定です。どうぞご期待下さい。

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