第23回 南海電気鉄道(3)

●西高野街道に沿う鉄道計画
 明治期の鉄道は、街道沿いに敷設されることが多かった。五街道のような主要なものはもちろん、ある程度の都市どうしを結ぶ脇往還のような道、また有力な寺社へ参る道であっても、人や物の流れが確立した街道筋であれば、これに沿って鉄道を敷設することで、乗客や貨物を手堅く取り込むことが期待できたからである。
 さて、真言宗の総本山・高野山へ参る街道といえば、京都方面からの東高野街道と大阪・堺方面から通じる西高野街道が代表的だ。このうち東高野街道は枚方(ひらかた)で京街道から分かれて南下、生駒(いこま)山地の西麓に沿って柏原(かしわら)に至り、さらに大和川を渡って古市(藤井寺市)、富田林(とんだばやし)、長野(河内長野市)に至るものだ。もう一方の西高野街道は堺を起点に南南東へ進む道で、百舌鳥(もず)や狭山(さやま)を経て長野に至る。
 南海電気鉄道高野線の前身である高野鉄道は、この西高野街道に沿って敷設された。東西の高野街道は長野で合流して高野街道として南下、紀見(きみ)峠を越えて河内国から紀伊国に入り、橋本の先で紀ノ川を渡った後は山中に分け入って高野山に至る。
 明治26年(1893)10月7日付で逓信省に鉄道敷設の出願が行なわれた当初は「堺橋鉄道」と称したが、その名の通り堺から和歌山県の橋本(現橋本市)を結ぶことから名付けられたものだ。経由地は日置荘(ひきしょう・萩原新田・初芝付近)から長野(現河内長野市)、そして紀見峠である。
 発起人は大阪府大鳥郡(明治29年から泉北郡)在住の川端三郎平など総勢74名。翌27年にはその名を高野鉄道と改めた。地名の頭文字を繋ぐなどより、街道名であり総本山である高野の名を採った方がいいに決まっている。本免許は明治29年(1896)に下付されたが、当初の起点は南海鉄道の堺駅としていたのを住吉に変更した。これは住吉大社の参拝客の取り込みを意識したものだ。


図1 東西の高野街道と高野鉄道の路線。1:200,000帝国図「和歌山」大正9年製版

●大小路(堺東)〜長野(河内長野)間の開業
 かくして高野鉄道は明治31年(1898)1月30日に大小路(おおしょうじ)〜狭山(さやま)間の5マイル54チェーン(9.13キロメートル)を開業した。始発駅の大小路は現在の堺東(さかいひがし)駅であるが、大小路といえば古くから商業殷賑な堺の中心地の通り名で、駅はその東に外れた場所に設けられた。その後2か月あまり後の4月2日には長野(現河内長野)まで延伸している。
 大小路〜長野間を開通させた直後の明治31年(1898)8月の時刻表『汽車汽舩旅行案内』(庚寅新誌社)によればこの間に1日9往復が運転されており、所要時間は36〜39分。起点を前述の通り南海鉄道の住吉駅(現住吉大社駅の北側)に置き、しかも大和川への架橋を待たずに大小路以南での見切り発車に踏み切ったためか、東へ1.7キロメートルほども離れた街外れのターミナルに接続すべき鉄道はなく、旅客や貨物の双方にとってだいぶ不便な状態でのスタートだったに違いない。
 案の定ではあるが営業成績は振るわず、『南海電気鉄道百年史』によれば、開業したばかりの明治31年(1898)下半期にはさっそく1752円余の欠損金を出したという。沿線の状況を見ればもっともなことで、河内長野市は今でこそ10.5万人を擁する近郊都市であるが、高野鉄道が開業した当時は南河内郡長野村であり、明治22年(1889)の人口は2345人、同42年でも2891人という小邑に過ぎなかった。もちろん旧長野村の領域はその後合計7村を合併しているので、面積は大きく異なる。


図2 当時の高野鉄道(図では明治40年以降の「高野登山鉄道」の表記)の終点は長野村の長野駅。東側から合流する鉄道は柏原から東高野街道沿いに南下してきた河南鉄道(現近鉄長野線)で、高野鉄道開業4年後の明治35年に長野に達した。このような形の終着駅は珍しい。1:50,000「五条」明治41年測図

 最初の区間開業に先立つ明治30年(1897)9月2日、高野鉄道では住吉からさらに北上して津守(つもり)村までの線路延伸を申請している。具体的な終端点は木津川(きづがわ)駅で、文字通りこの川に面した場所に駅を設置して水陸の貨物の結節点とする計画であった。当時はもちろん貨物自動車など存在しない時代で、貨物駅を運河や河川に面した所に設けるのは当然であった。次は津守延長線(申請書では「支線」の扱い)の認可申請書である。

   高野鉄道株式会社支線敷設認可申請書
 今般本会社鉄道起点地タル大阪府西成郡粉浜(こはま)村即(すなわち)坂〔ママ〕堺鉄道〔現南海電気鉄道〕株式会社停車場(此起点地ハ目下認可申請中)ヨリ、同郡津守村ニ至ル二哩六拾鎖〔2マイル60チェーン。約4.43キロメートル〕間ニ支線敷設致度(いたしたく)候ニ付、右御認可ノ義申請仕候。而シテ此敷設ヲ申請致候。重(おも)ナル理由ハ大略左ノ通ニ有之(これあり)候。
 本社線路経過ノ地方ハ半ハ(なかば)平野半ハ山間ニシテ、其物産ノ多キ蓋(けだ)シ全国著名ノ一(ひとつ)タリ。然ルニ運搬ノ法完全ナラザルカ為メ、未タ充分ノ発達ヲ得サルモノ頗(すこぶ)ル多シ。仮令ハ(たとえば)彼ノ紀和地方〔=紀州および泉州〕ノ産出ニ係(かかわ)ル有名ナル吉野又ハ高野木材ノ如キ、今日ノ運搬方ハ遠ク産地ヨリ紀ノ川ヲ下リ、和歌山ヲ経テ海路木津川ニ入リ、同所ニ於テ貯蔵スルヲ常トセリ。去レハ(されば)之レカ運搬ニ多数ノ時日ヲ費スノミナラス、時々漲水(ちょうすい)激流ノ為メ往々流失毀損スル等、年々被ル所ノ損害実ニ莫大ナリトス。
 故ニ此等ノ不便ヲ免レシメント欲シ、本会社ヲ設置スルニ至リタリト雖(いえど)モ、不幸ニシテ本社線路起点地タル粉浜村即チ住吉ハ大坂〔ママ〕市ヲ去ル尚数哩(マイル)ノ外ニアリ、且ツ此地タル人家ト公園トヲ以テ遮断セラレ、到底多数ノ貨物ヲ蓄積スルノ余地アラサルカ故ニ、再ヒ之ヲ転送スルノ不便ヲ蒙(こうむ)リ、本社線路カ(が)与フル便益モ一簣(いっき)ヲ欠(かく)ノ恨(うらみ)アリ。

●吉野・高野の木材資源を大阪へ
 大阪府南部から和歌山県にかけての木材資源は良材として古くから知られたが、維新を迎えても運搬方法は江戸時代から変わらず、紀ノ川から海路を経て大阪へという不便な行程を強いられていた。しかもせっかく大阪に到着した木材が洪水などのため流失する不運に見舞われることもしばしば。この前近代的な輸送路を改善するというのが高野鉄道設立の大目的であったが、先に認可された起点の住吉は大阪からなお数マイルの距離があり、せっかくここへ届いた貨物も積み替えをしなければならない。

 〔承前〕然ルニ今若(も)シ此地ヨリ支線ヲ設ケ、貨物ノ集散ニ最モ便利ナル木津川々畔ニ於テ舩渠其他ノ適当ノ積卸所ヲ設クルコト恰(あたか)モ日本鉄道〔後の東北本線など〕ノ秋葉原ニ於ケルカ如クセハ、前記ノ木材ヲ初メ其他諸般ノ貨物ハ、産地ヨリ直(じか)ニ市場ニ運搬スルコトヲ得テ、沿道貨物ノ多年被リタル不便一朝ニシテ免カレ、惹(ひい)テ其繁殖ヲ促スヘキナリ。
 又大坂〔ママ〕市ノ西部ハ所謂(いわゆ)ル海陸通交ノ要衝ニシテ、殊ニ近年工業ノ発達著ルシキヲ以テ、本支線敷設後ハ彼ノ高野山ニ参詣スル多数ノ旅客ハ勿論、沿道ノ旅客ハ必ス此ノ捷路〔=近道〕ニ依ルベク、即チ大坂市ト関係地方トノ交通ヲ一層便ニスルヤ敢テ疑ヲ容レサルナリ。
 且ツ夫(そ)レ将来ノ形勢ヲ察スルニ、目下着手セル大坂運河及大坂築港落成ノ上ハ此支線ハ忽(たちま)チ海陸結合ノ聯鎖(れんさ)トナリ、交通上幾多ノ利益ヲ与フルハ地理上明ニ示ス所ニシテ、仮令(たとい)本社之レヲ計画セサルモ必ス之カ施設ヲ要スルニ至ルハ敢テ数年ヲ出サルヘシト信ス。
 大要前述ノ如ク、本支線施設ノ目的ハ要スルニ紀和産出木材其他沿道貨物ノ運搬ヲ便ニシテ以テ其繁殖ヲ計リ、併セテ大坂市西部ト関係地方ノ交通ヲ増進スルニアリ。猥(みだり)ニ本社ノ利益ヲノミ冀望(きぼう)スルモノ無之(これなく)候。冀(ねがわ)クハ御詮議ノ上、本願御採用、速(すみやか)ニ認可御指令相成度、別紙略図及起業目論見書相添ヘ此段株主ノ決議ヲ以テ悃願(こんがん)仕候也。
   明治三十年九月二日
     高野鉄道株式会社
      社長 松方幸次郎

逓信大臣 子爵 野村靖殿


 東京の「秋葉原におけるが如く」という表現が見える。上野駅から南下して秋葉原貨物駅に至る貨物線は、市街地のまん中を通るため反対運動もあって難航したが、明治23年(1890)に開業するや、神田川水運と接続する利便性が功を奏して東京の物流の拠点として発展した。戦後も引き続き青果市場がここに稼働し、平成元年(1989)まで存在していたことがそれを物語っている。


図3 貨物線時代の東京・秋葉原駅(右端の「秋葉原貨物取扱所」)。神田川と水路で直結していることが読み取れる。左端は御茶ノ水駅。1:10,000地形図「日本橋」大正10年修正


図4 阪堺鉄道(現南海電気鉄道)の住吉駅(現住吉大社駅の少し北方)を起点としていた当時の津守村への「支線」敷設の申請書に添付された図面。現在線とは大幅に異なっている(東が上)。鉄道院文書「高野鉄道株式会社」巻二(明治32年)より。国立公文書館蔵

●南海鉄道の住吉駅に接続する当初案
 この図は申請書に添付されたものだが、最終的に建設されたルートとは大きく異なっている。当初の予定では高野鉄道は堺市街から阪堺鉄道(現南海)に近づき、ほぼ並走しながら大和川を渡って住吉駅で合流しており、その先は阪堺鉄道と住吉駅構内で平面交差し、その後は西へ分かれて木津川駅までほぼ直線のルートで結んでいる。高野鉄道ではその後明治31年(1898)10月20日に木津川から難波(汐見橋)までさらに延伸の申請を行なうのだが、その2週間後の日付で住吉付近のルートに「物言い」がついた。
 次は同年11月5日付で大阪府知事から鉄道を所管していた逓信大臣に宛てた意見具申書である。なお阪堺鉄道は前月の10月1日付で南海鉄道に譲渡され、その一部となった。

   高野鉄道線路変更之義ニ付具申
 高野鉄道株式会社線路起点ヲ〔堺駅から〕西成郡粉浜村住吉駅ニ変更シ、且ツ同駅ヨリ同郡津守村ヘ延長線布設願ニ対シ、明治二十九年九月廿八日ニ第三二四六号副申及進達候処、起点変更ハ本年四月二日付ヲ以テ認可セラレ、延長線布設ハ本年十月五日第百五十五号ヲ以テ仮免状下付セラレ候処、今般津守村ヨリ大阪市南区難波ヘ延長併(ならび)ニ粉浜津守間本免状下付之義別紙出願候ニ付、右ニ対スル意見左ニ。

一 住吉神社及公園ト鉄道トノ関係
 起点変更線ハ南海鉄道ニ沿ヒ、大阪府地方税経済ノ維持ニ係ル住吉公園内ヲ通過スル設計ナルモ、現在園内ニ於テハ南海ノ複線布設アリテ、汽車ノ往復織ルカ如クニ頻繁ナルカ為メ、往々轢死又ハ負傷者アリ。然ニ今、高野線ヲ加設スルトキハ三線トナルノミナラス、将来若シ又之ヲ複線トスルカ如キアラムカ、四線ノ多ニ至リ、益危険ノ度ヲ高ムルハ勿論、現在ノ設計ニ依ルモ線路及停車場用地ノ為メ、別紙甲号図面ノ通リ殆ント五反歩〔約0.5ヘクタール〕ノ面積ヲ要スルニ依リ、公園ノ風致ヲ毀損シ、遊楽ノ園地ヲシテ殆ント其用ヲ廃セシムルニ至レルヲ以テ、巷間往々故障ノ声アレハ、追テ同社ヨリ園地使用ノ件ヲ出願スルニ当リ、之ヲ府会ニ提議スルモ到底通過ノ望ミナシ。加之(しかのみならず)住吉神社ノ正面ニ当ル道路ヲ狭ムテ鉄道用地ト為スモノナルニ依リ、神社ノ風致参拝ニモ影響スルコト蓋(けだ)シ少々ナラサルヘシ。


 前回で取り上げたが、阪堺鉄道は明治25年(1892)という早い時期に難波〜住吉間を複線化している。「織るが如く」頻繁に汽車が走っているとするこの文章からは現在のラッシュ時の光景が連想されるが、当時の時刻表によれば1時間に片道2本。現代の感覚では過密ダイヤにはほど遠いが、この文章によればそれでも死傷事故がたまに発生していたらしい。
 当初の計画では、高野鉄道の予定線は住吉駅の前後で南海鉄道と併走する線形を採っていたから、当初は南海と合わせて3線であっても、将来的に高野鉄道も複線化すれば4線になってしまう、とさらに安全が脅かされることを懸念している。さらに「公園の風致を毀損」するおそれがあるため、このままでは府会(府議会)を通らないという。ちなみに住吉公園は明治6年(1873)に開設された、大阪で最も歴史の古い公園である。


図5 住吉駅を通らずに南海鉄道と立体交差する変更案。この段階では住吉駅の南側で立体交差して海側へ進み、そこに住吉公園駅を設置する予定だった(東が上)。鉄道院文書「高野鉄道株式会社」巻二(明治32年)より。国立公文書館蔵

●住吉公園の西側を通る第2案−南海と接続せず
 そこで提出された変更線がこの図なのだが、住吉公園の西側の海沿いを通る計画である。南海鉄道とは住吉の南側で立体交差して海側へ出て、両者の交差地点に駅は設置しない。しかしこれにも難色を示された。以下は同じ意見具申書の続きである。

一 線路変更ニ関スル意見
 変更認可ノ起点ハ前陳ノ如ク公益上重大ノ関係アルニ依リ、今公園ヲ避ケ其西部即チ住吉高灯台ノ付近ニ停車場ヲ設置シ、〔1字不詳〕ヒテ仮免状下付ナリタル津守村ニ至ル延長線ヲ布設セムトスルモ、公園ハ将来西方ノ海浜ニ向ヒ拡張スルノ計画モアレハ、是亦(これまた)異日障碍(しょうがい)アルヘク、且ツ連絡上甚タ不便ナルニ依リ、更ニ住吉神社ノ後方ニ一ノ停車場ヲ設置シ、天下茶屋(てんがちゃや)ノ南方ニ抵(あた)リテ南海線ヲ跨叉シテ木津川東岸ノ近附ナル津守村ニ達セシムルヲ可ナリト信ス。
 尤(もっと)モ住吉村地蔵院ノ民有境内ヲ通過スルモ、同院ハ殆ント荒廃寺ニ属シ、且ツ本線路ハ堂宇ニ関係無之(これなく)、其他全般ニ於テ公益上ノ妨害ナカルヘシ。然ルトキハ貨物運輸ノ点ニ至テハ些(いささか)ノ変更ナキモ、住吉駅ニ連絡セサルカ為メ、旅客ノ利便ヲ杜絶スルニ依リ、之ニ代フル別紙願書ノ通(とおり)津守村ヨリ大阪市南区難波(汐見小橋南詰付近)ニ延長セシメハ、同市ノ西部及南北ノ幾部ト住吉堺及河内(かわち)地方間ノ交通ヲ発達スルニ至ルヘシ。殊ニ此延長六拾七鎖〔約1.35キロメール〕余ノ間ハ市街ニ接近セルモ、家屋工場及公道等ニ関係少ナクシテ、公益上別段障害アルヲ見ズ。


 住吉公園の西側を通るルート案も、公園が将来海側に拡張する計画があるから困るということである。その代わり大和川を渡ってもしばらく南海鉄道の東側を北上し、天下茶屋の南方で同線の上を跨いで海側へ移るという現在線の案がようやく示された。三度目の正直である。文中で境内を通過するとした地蔵院は「荒廃寺」などと表現されているが、「ウィキペディア」によれば、高野鉄道が開通した翌年の明治34年(1901)4月7日に実際に移転したそうで、現在は大阪環状線大正駅の南側にあたる三軒家東に健在だ。さらに意見具申書を続ける。

一 南海高野両線ノ関係
 前述ノ如ク高野線ヲ大阪市ニ延長スルトキハ、南海鉄道ノ坂〔ママ〕堺間ト相併行セルヲ以テ、条例〔私設鉄道条例〕第三条ノ所謂(いわゆる)既設鉄道ニ妨害ヲ与フル云々ニ該当セムカトノ嫌ヒナキニアラサレトモ、各地方ヨリ大都会ニ向フニハ、恰(あたか)モ燈火ノ光線ヲ放ツカ如ク其集中スル所、勢ヒ併行セサルヲ得サルノミナラス、実際公園ヲ避ケムトスルノ結果是ニ至ルモノナレハ、事情ノ不得已(やむをえざる)モノアリ。殊ニ坂堺間ハ毎半時頻々(ひんぴん)発車スルモ乗客常ニ塡咽〔てんえつ=混雑〕シ、老幼婦女ノ如キハ往々昇乗スルヲ得サルアリ。且祭事等ノ場合ニハ非常ニ雑〔1字不詳〕ナルヨリ、止ムナク陸路〔徒歩の意か〕ヲ取レルモノアリ。
 如斯(かくのごとき)状況ナルヲ以テ、其利益モ亦(また)甚タ巨額ニシテ、旧坂〔ママ〕堺鉄道ノ利益ハ概子(おおむね)三割余ノ多キニ及ヘリ。今若シ前記ノ如ク高野線ヲ布設セハ幾分ノ影響ナキヲ得サルモ、其利益ヤ尚一般鉄道ノ収益以上ニ在ルハ疑ヲ容レサルナリ。故ニ此間ノ運輸機能ノ不足ヲ忍ヒツヽモ、南海ヲシテ独リ之カ利益ヲ壟断セシムルノ必要ナク、寧ロ(むしろ)他ニ今一線ヲ増設シ、運輸力ヲ平分シ、以テ公衆一般ノ交通便益ヲ増進セシムルハ公益上緊要ノ業ナリト信ス。

 以上陳述セシ理由ナルニ依リ、別紙乙号図調整及添〔1字不詳〕候間、卑見御採用可然(しかるべく)御簽議(せんぎ)相成度、此段副申旁(かたがた)具申候也
   明治三十一年十一月五日
     大阪府知事 菊池侃二(かんじ)
逓信大臣 林有造殿


図6 実際に建設された高野鉄道のルート。住吉大社の東側を経由し、天下茶屋の南方で南海鉄道を跨いでいる。現在は交差地点に岸里玉出(きしのさとたまで)駅がある。1:50,000「大阪西南部」大正3年部分修正+「大阪東南部」大正3年部分修正(東が上)

●結局は大阪〜堺間の「並行線」が実現
 私設鉄道条例の第3条には、後段に「既設ノ鉄道ニ妨害ヲ生スルノ虞(おそれ)アリ又ハ其地方ノ状況鉄道ノ布設ヲ要セスト認ムルトキハ願書ヲ却下スヘシ」とある。しかし大都市圏の場合は、ここに言及するように都心から放射状に発達する鉄道が近接するのはやむを得ず、また輸送力が逼迫した状況に南海鉄道が置かれているのであれば、並行線的ではあっても高野鉄道の敷設は妥当であろうとしている。
 かくして明治33年(1900)9月3日、高野鉄道は道頓堀(どうとんぼり)〜堺東(さかいひがし)間を開業した。駅名が道頓堀などと聞けば驚いてしまうが、この大阪側ターミナルは4か月後の同34年1月1日に汐見橋(しおみばし)と現在の名称に変更している。道頓堀川の南側−つまり数年前の明治30年(1897)に市内に編入されたばかりの土地がそれを名乗るのは僭越、ということだろうか。
 従前の終点であった大小路も堺と改称したが、南海と同じ駅名であることから直後に堺東に改めている。ついでながら住吉東も当初は南海と同じ「住吉」であったが、住吉大社の東西で同じ駅名があっては紛らわしく、社史によれば南海鉄道からクレームが付いたこともあり、こちらも東を付けて区別した。


図7 高野鉄道のターミナル・汐見橋駅(左端)が描かれた市街図。縮尺は正確ではないがイラスト入りでわかりやすい。「第五回内国勧業博覧会観覧必携 大阪全図」明治36年発行(著者・清水吉康 印刷兼発行者・田村定助)

 明治35年7月改正の時刻表『汽車汽舩旅行案内』(庚寅新誌社)から新規開業区間の駅を抜き出して示せば次の通りである。なお、勝間駅は古称に倣って「こつま」と称した。所在地は筆者が地形図および市街地図、鉄道省『鉄道停車場一覧』(昭和9年版)等を用いて推定したものである。村名の後が空欄のものは大字の設定がないもの。

停車場〔現駅名〕起点からの距離〔km換算〕明治35年当時の所在地
汐見橋     0哩00鎖〔0.00km〕   大阪市南区難波桜川町三丁目
木津川     1哩01鎖〔1.63km〕   大阪府西成郡津守村
勝間〔岸里玉出〕3哩00鎖〔4.83km〕   大阪府西成郡勝間村
住吉東     4哩10鎖〔6.64km〕   大阪府東成郡住吉村
堺東      6哩71鎖〔11.08km〕   大阪府泉北郡向井村大字中筋
西村〔初芝〕  10哩27鎖〔16.64km〕  大阪府南河内郡日置荘村大字西
狭山      12哩45鎖〔20.22km〕  大阪府南河内郡狭山村大字池尻
滝谷      15哩24鎖〔24.62km〕  大阪府南河内郡錦郡村大字須賀
長野〔河内長野〕17哩31鎖〔27.98km〕  大阪府南河内郡長野村大字長野

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

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