第24回 南海電気鉄道(4)

●業績不振で橋本への延伸を断念
 「道頓堀」改め汐見橋というターミナルをまがりなりにも得て、大阪から堺を経て長野(現河内長野市)までの直通が実現した高野鉄道であるが、とりわけ堺東(さかいひがし)以南の沿線人口の少なさが災いし、日清戦争後の反動不況などもあって営業成績は振るわなかった。このままでは免許路線である紀見峠を越えて和歌山県橋本までの開通はおぼつかず、結局は減資と線路短縮(延伸を断念)を決断する。次は明治35年(1902)3月24日に提出された「線路短縮願」である(『南海電気鉄道百年史』129ページの引用より孫引き。本連載の基準により句読点を適宜加えた)。

   線路短縮願
 弊会社鉄道線路汐見橋橋本間ノ内、長野橋本間ハ明治三十三年二月二十三日付ヲ以テ明治三十五年四月三十日迄工事延期御認可相受ケ居候所、既成線路工事中諸物価暴騰ノ為メ多額ノ工費ヲ用シ資金欠乏候ノミナラズ、目下経済界不振ニ際シ到底増資ノ見込ミ相立タズ、随(したがい)テ期限内ニ工事竣工難致(いたしがたき)ニ付、長野橋本間工事ヲ廃止シ、既成線路即チ汐見橋長野間ニ短縮致度ニ付、御認可被成下度(なしくだされたく)、別紙株主総会決議書其他相添ヘ此段奉願(ねがいたてまつり)候也。


図1 高野鉄道が明治35年(1902)に「線路短縮願」で断念した長野(現河内長野)〜橋本間の区間。図は後に高野登山鉄道として開業し、大正4年(1915)に大阪高野鉄道と改称した後。和泉と紀伊の国境に見える「葛城山脈」は現在では通常「和泉山脈」と呼ばれる。1:200,000帝国図「和歌山」大正9年製版

 業績改善を目指し、讃岐で汽船会社を経営していた宇喜多秀穂(秀家の末裔だろうか)を支配人に招いて経営改善を図ったが状況は厳しく、結局は明治39年(1906)10月の株主総会において新会社「高野登山鉄道株式会社」を設立して高野鉄道を引き継ぐこととなった。この新会社に参画したのが根津嘉一郎である。明治38年(1905)から東武鉄道の経営にあたり、利根川の大橋梁建設を断行して足利町(現足利市)までを結び、これにより両毛地方と東京の短絡路を実現させて経営を立て直し、一躍注目されていた人物である。次は高野登山鉄道の仮免許申請書である。

   鉄道株式会社発起ニ付仮免許御下附申請書
 私共儀高野鉄道株式会社ノ既成鉄道線路、即チ大阪府大阪市南区難波桜川町三丁目ヨリ同府南河内郡長野村ニ至ル拾七哩四拾二鎖〔17マイル42チェーン=約28.20キロメートル〕ヲ買収シ、旅客貨物運輸ノ業ヲ営ミ度(たく)、尚将来ニ於テ時機ヲ図リ長野以南ヘ延長セシメ、遂ニ社名ノ如ク高野山頂迄(まで)鉄道ヲ敷設シ、交通機関ノ完備ヲ企図致度(いたした)キ為メ、今般高野登山鉄道株式会社ノ創立ヲ発起致シ候間、仮免許御下附被成下(なしくだされたし)。尤(もっと)モ私設鉄道法第二条第三号以下ノ書類図面ハ、前陳ノ如ク高野鉄道株式会社ノ営業線路ヲ買収ニ付、該会社ヨリ既ニ提出相成居リ候書類ト同様ニ有之(これあり)候間、該書類ノ提出ハ相省キ、別紙目録ノ書類相添ヘ、発起人一同連署ヲ以テ此段奉申請候也。
 明治卅九〔39〕年十一月九日
    高野登山鉄道株式会社創立発起人
      大阪府泉南郡岸和田町七拾三番屋敷
        寺田甚与茂(じんよも)
        〔以下連署11名略〕
逓信大臣 山縣伊三郎殿


 連署した発起人の顔ぶれは、高野鉄道社長の伊藤喜十郎や前述の宇喜多秀穂、役員の松山與兵衛、東尾平太郎、鈴鹿通高などの名がある。逓信大臣宛に提出しているのは、当時の鉄道事業が逓信省の管轄(同省鉄道作業局)であったためだ。ついでながら申請書の宛先である逓信大臣は山縣有朋の甥で、当時私鉄で占められていた全国の幹線鉄道を鉄道国有法によって国有化した時期の担当大臣でもあった。
 また在任中に鹿児島本線(線名は明治42年から。現肥薩線)が全通し、矢岳第一トンネルの扁額に自ら揮毫していることから、現在JR肥薩線で運行されている観光列車には、後藤新平にちなむ「しんぺい」とペアで「いさぶろう」と命名されている。
 高野登山鉄道の発起人には翌月12月14日の「発起人追加之義申請書」に見られる通り、根津嘉一郎が加わった。なお、発起人筆頭の寺田甚与茂(社史では「甚與茂」だが発起人署名には「甚与茂」と略字を使用)は、後に経営方針をめぐって根津と意見を異にしたため退陣したが、南海鉄道と合併して再び役員として再会、その後はうまくいったと根津は回想している(覚埜才介『寺田甚與茂翁・偲び草』昭和7年の根津の回想)。


図2 明治42年(1909)1月のダイヤ。赤字・赤線で示された「我孫子」は臨時停車場(後年の我孫子前駅より0.3キロほど北側)。太線が定期旅客列車、細線は臨時旅客列車、1点鎖線の太線は混合列車、同じく細線は臨時混合列車、※印は不定期列車、レ印は通過を示す。鉄道省文書「大阪高野鉄道(南海鉄道ニ合併)巻1」明治41〜44年 国立公文書館蔵

 このダイヤグラムに日付は入っていないが、前後に綴じられた時刻表から明治42年(1909)1月現在と推定される。汐見橋〜堺東間は蒸気列車のみでありながら、すでに日中25〜30分間隔で運転されていた。同年10月1日〜31日には臨時列車運転の「増度御届」が提出されているが、その理由書に「長野駅付近松茸狩客ノ便利ヲ計リ」とある。また明治43年(1910)7月の「臨時旅客列車増発御届」によれば、7月31日の堺市大魚市と翌8月1日の住吉神社大祭に備えて終夜運転を申請した。添付された時刻表には、汐見橋発0時15分、1時25分、2時25分、3時30分、4時05分、4時40分(0時以降のみ引用)の列車が運転されたようで、汽車を使って祭やレジャーに赴くライフスタイルがこの時期に少しずつ一般化していったことがわかる。

●電車の運転開始と駅の新設
 高野登山鉄道としての運行が始まって数年が経つうち、阪神電気鉄道(明治38年開業)や箕面有馬電気軌道(現阪急。明治43年)、京阪電気鉄道(同年)といった都市間を結ぶ電気鉄道の利便性に注目が集まり、蒸気機関車のみであった高野登山鉄道でも電車の運転を計画するようになった。次は明治44年(1911)5月9日に提出された「列車運転原動力ニ電気ヲ併用スル為メ工事方法変更儀認可申請」に付された理由書である。

   理由書
 世運(せうん)ノ発展ニ伴ヒ、交通機関ノ改良ヲ企図スルハ今日ノ急務ナリト信ス。当社鉄道汐見橋、長野間ニ於ケル乗客ノ往来、近時頓(とみ)ニ繁多ヲ見ルニ至リ、就中(なかんづく)長野遊園設置以来、都市人士ノ遊来スルモノ益々頻繁ヲ来タスノ状況ヲ呈シツヽアル折柄、現今ノ如ク専ラ動力ヲ蒸気ニ而己(のみ)籍(か)リテハ到底世人ニ満足ヲ与フルコト能ハサルヲ以テ、今般原動力ニ電気ヲ併用シ、旅客ハ概ネ電車ニテ輸送シ、貨物ハ在来ノ蒸気列車ニテ運送スルコトトシ、以テ交通上ノ便益ヲ計ラントス。依テ本件工事方法変更ヲ申請スル次第ナリ。


図3 長野(現河内長野)〜三日市町間の線路と長野駅の南東側に開設された長野遊園地。図の当時はすでに南海鉄道高野線となっている。1:25,000「富田林」昭和7年修正

 長野遊園地は明治44年(1911)に高野登山鉄道が地元有志の協力を得て駅の南東側に設けたもので、桜や楓(かえで)などが植えられ、花見や紅葉の名所として親しまれた。温泉施設と旅館・食堂などもあり、行楽地として大いに賑わったという。ちょうど箕面有馬電気軌道が宝塚に新温泉を開業した頃だ。長野遊園地は現在、大阪府営の長野公園となっている。
 加速性能が高く小回りの利く電車は駅間距離を短くとってこまめに停車することができるため、電化を機に高野登山鉄道でも次の3つの新駅と1つの信号所を設置した。いずれも大正元年(1912)10月10日の開業である。蛇足ながら、私が監修した『日本鉄道旅行地図帳 関西1』(新潮社・平成20年)では我孫子前駅の開業日を明治40年(1907)1月6日とした。鉄道省の『鉄道停車場一覧』や『南海電気鉄道百年史』などの記述を踏襲したものであるが、「我孫子」付近では臨時停車場の設置などもあって複雑なのが混乱の原因かもしれない。なお、池尻信号所は大正3年(1914)5月に廃止された。

停車場名  哩程〔キロ換算〕     所在地
我孫子前  5哩01鎖10節〔8.07〕   東成郡墨江(すみのえ)村大字遠里小野(おりおの)
中百舌鳥  8哩69鎖35節〔14.27〕  泉北郡中百舌鳥(なかもず)村大字金口(かねくち)
萩原天神  10哩70鎖00節〔17.50〕 南河内郡日置荘(ひきしょう)村大字原寺(でら)
池尻信号所 13哩17鎖60節〔21.28〕 南河内郡狭山村大字池尻


図4 電車の導入に際して新設された中百舌鳥駅と萩原天神駅。図の修正された年にはさらに北野田駅(当初は福町〔ふくまち〕駅の予定)が追加されている。1:50,000「大阪東南部」大正3年部分修正

●高野登山鉄道として改めて橋本へ
 旧高野鉄道が申請しながら力及ばず「短縮願」を提出していた長野〜橋本間は、高野登山鉄道が改めて建設することになるが、着工は大正2年(1913)5月のことであった。それまでの経緯を同鉄道が明治45年・大正元年(1912)上半期の「第十回営業報告書」で簡潔に説明しているので引用する。

一 線路延長ノ件 長野橋本間延長線ハ前期ヨリ引続キ撰線ノ改良ニ力(つと)メタル結果、紀見峠以北ノ線路ハ最早(もはや)改良ノ余地ナク、紀見峠以南ハ右岸線即チ辻〔御幸辻駅付近〕ヲ過クルモノト、左岸線即チ胡麻生(ごもう)ヲ過クルモノトノ二線ニ就キ優劣ヲ比較シ、遂ニ其ノ右岸線ヲ採ルノ有利ナルコトヲ確メタリ。而シテ長野橋本間線路ノ亘長(こうちょう)十哩二分ノ一〔約16.9キロメートル〕、曲線半径八鎖〔8チェーン=約161メートル〕、最急勾配四十分ノ一〔25パーミル〕ヲ以テ能ク其ノ目的ヲ達スルコトヲ得ル見込ミナリ。又橋本停車場ヨリ更ニ進ミテ院線紀和線〔現JR和歌山線〕ト交叉シ、紀ノ川右岸ニ延長シ、川砂利ノ採取ヲ為スヘキ線路亘長一哩ハ已(すで)ニ測量ヲ終了シ、今ヤ全線ニ亘リ専ラ工事ノ設計中ニ在リ。
 延長線中紀見峠隧道ハ、已(すで)ニ明治三十二年ヨリ三十三年ニ亘リ其ノ一部工事ヲ施シアル〔高野鉄道時代に着工・中断していた=引用者注〕ヲ以テ、本期間ニ於テ其ノ埋没シタル部分ヲ発掘シテ既成部分ノ状態ヲ実査シ、以テ該隧道ハ其ノ位置ヲ変更セスシテ線路ノ一部ニ利用スルノ得策ナルコトヲ確メ、八月上旬工事着手ノ届出ヲナシタリ。
 工事監督上必要ヲ認メ、三日市、天見(あまみ)、紀見ノ三ヶ所ニ監督員詰所ヲ新設シタリ。


 山越えルートである長野〜橋本間は高野鉄道がおおむね設計を終えていたが、これによれば紀見峠以南が決まっていなかったらしい。峠の北側は誰が見ても天見川の狭い谷に沿って遡るしかないので選択の余地はなく、南側は橋本川の左岸に沿って進めば胡麻生の集落を通るのだが、結局は川から少し離れた右岸つまり西側の御幸辻(みゆきつじ)駅を通るルートが決まった。最急勾配を、通常の鉄道では限界の25パーミルにギリギリ設定したことで、難しい選択だったのであろう。ちなみにこの区間は昭和50年代に複線化とともに線形改良を行なった際、一部がトンネルなどで短絡されて最急勾配は33パーミルと急になっている。線路改良といえば戦前から勾配の緩和が長年の常識であったが、高性能の電車が走る時代ならではの対応だ。


図5 急勾配区間に設けられた千早口・天見の両駅。急カーブが続いていたため昭和58年(1983)に複線化と線路改良が行なわれた。1:25,000「岩湧山」昭和7年測図(上)および平成22年更新(下)


図6 紀見峠に穿たれた1556.7メートルの紀見峠トンネルとその南側に位置する紀見峠駅。付近は25パーミルの急勾配が連続する区間であった。1:25,000「岩湧山」昭和7年測図

 長野の南に位置する三日市村まではひと足先の大正3年(1914)10月21日に1駅区間だけが開業した。駅名が三日市町(ちょう)と「町」が付いている理由については、北陸本線にすでに存在した三日市駅(現黒部駅)との混同を避けるためだろう。当時はちょうど全国の同名駅を区別する行政指導が行なわれ始めた時期であり、たとえば同年12月1日には全国に3つあった長岡駅を、東海道本線は近江長岡、東北本線は伊達と改めている。信越本線の長岡駅(現長岡市)については町の規模を考慮したのか、改称は行なわれていない。延伸区間の新駅が「三日市村駅」ではなく「三日市町」としたのは、高野街道がこれから山に入る地点で、昔から市場町であったことが考慮されたのかもしれない。

●紀見峠を越えて橋本まで開業
 三日市町開業の5か月後、大正4年(1915)3月11日には橋本までの区間が開業する。旧高野鉄道以来の目的地だ。橋本の町は紀ノ川の水運と高野街道が十字に交差する古くからの交通の要衝で、かつて豊臣秀吉と高野山の間の折衝を担った応其上人(おうこしょうにん)が紀ノ川北岸に宿駅の設置を申請して認められ、塩の荷揚場を作って塩市を開いたのが町の発端である。さらに上人は高野参拝者のため、天正15年(1587)に紀ノ川に130間(約236メートル)の橋を架けた。この橋は3年ほどの後に洪水で流されてしまうが、これが橋本の地名の由来とされる。明治22年(1889)の町村制施行の際には伊都(いと)郡内で唯一の「町」で、翌23年からは郡役所が置かれた。
 次の文書は、開業に先だって鉄道当局によって行なわれた工事竣功監査報告書である(開業の2日前の日付)。表題に「軽便鉄道」とあるのは狭軌鉄道を意味するものではなく、鉄道建設促進のための規制緩和政策(認可手続の簡素化)における法的な位置付けだ。なお原文は走り書きで崩し字が多く、特に後半は判読困難な部分もあり、誤写のおそれもあることを了承いただきたい。

大正四年三月九日       技手 枝松鷹次
               技師 米沢政治郎
               同  大河内甲一
  高野登山鉄道株式会社軽便鉄道
   三日市町橋本間線路敷設工事竣功監査報告
 竣功線路ハ大阪府南河内郡三日市町〔ママ〕長野起点〇哩七九鎖〇〇節〔約1.59キロメートル〕ニ於ケル三日市町停車場ニ起リ、漸昇シテ〔少しずつ上って〕河内、紀伊ノ国境ナル紀見峠ニ延長五千百七呎(フィート)〔後に掲載されている本報告の「隧道表」によれば、5107フィート344=約1556.7メートル〕余ノ隧道ヲ鑿(うが)チ、直(ただち)ニ逓降シ〔少しずつ降りて〕、和歌山県伊都郡橋本町地内長野起点一〇哩四〇鎖五節三〔約16.90キロメートル〕ナル橋本停車場ニ於テ国有鉄道和歌山線ト聯絡スルモノニシテ、実延長九哩四九鎖三八節七アリ。線路ハ隧道前後共、大体四十分ノ一勾配〔25パーミル〕ヲ以テ上下シ、急峻ナル山腹ニ拠リ線路ヲ布設セルガ為メ、屈曲多ク土工橋梁等亦(また)大ナルモノアリテ、工事最モ困難ノケ所(かしょ)タリ。
 本区間ハ〔客?〕年一月ヲ以テ電気併用工事施行ノ認可ヲ得テ送電線、饋電線〔きでんせん=架線に電力を供給する電線〕、電車線〔架線〕ノ架設、木津川変電所内ノ増設工事、天見変電所新設工事等何レモ施設ヲ了シ、今回電車ノ運転ヲ開始セントスルモノニシテ、電車ノ改造、電気設備一切、及電車運転ニ必要ナル停車場内ノ設備ハ線路ト共ニ大体竣功セリ。以上線路及電気工事ノ概要ハ別紙図面、工事方法概要書及諸表ノ如シ。
 別紙答申書ノ各項ハ未ダ整備スルニ至ラズ、就中(なかんづく)一乃至一〇項ハ運転開始前完成シ、其他モ予定期限内ニ竣功セシムルヲ要ス。
 三日市〔ママ〕及橋本間ニ電動客車一両、附随車二両(何レモ満載)ヲ連結シ、予定時刻表ノ通リ運転セシメタルニ、線路、車両及電気設備ニ何等異状ナク、変電所ニ於ケル電動発電機ノ出力亦(また)〔1字不詳〕当ニシテ別途申請中ノ時刻表ノ運転支〔障?〕ナキヲ認メタリ。〔以下略〕


図7 橋本から先の紀ノ川口貨物駅まで延伸された時点の地形図。1:50,000「橋本」大正5年鉄道補入

●急勾配・急カーブの山岳路線
 25パーミルの急勾配が連続する本格的な山岳路線であることが記されているが、停車場構内も勾配区間(8パーミル程度)が存在したので、電車の旅客列車はともかく、蒸気機関車が牽引する貨物列車については積み卸しホームだけ水平とし、スイッチバック式で発着することが別の文書に明記されていた。以下は同じく監査報告の「工事方法概要」である。

   三日市町橋本間工事方法概要
鉄道ノ種類   単線蒸気電気併用鉄道
軌   間   三呎六吋〔3フィート6インチ=1067ミリメートル〕
軌道ノ間隔   一二呎〔約3.66メートル〕以上
最小曲線   八鎖〔8チェーン=約160.9メートル〕
最急勾配   四十分ノ一〔25パーミル〕
        但シ停車場構内電車線ノ一部ニ三十分ノ一〔33.3パーミル〕ヲ存ス
施工基面幅  築堤切取共一四呎〔14フィート=約4.27メートル〕
        *施工基面幅=線路敷の幅
軌条ノ重量  一碼(ヤード)ニ付六拾封度(ポンド)〔ほぼ30キロレール〕
枕木ノ配置  軌条長三十三呎ニ対シ十四挺〔約10メートルのレールにつき14本〕
道床ノ厚   平均一哩ニ付砂利二百三十立坪(りゅうつぼ)〔1キロメートルにつき約260立方メートル〕
轍叉ノ番号  六番、八番及十番
 *転轍機の番数は、現在では「本線と分岐線が1メートル離れるのに必要な本線上の長さ」で、
 「6番」はこれが6メートルを示すが、当時の使用単位はヤードなので、おそらく1ヤード離れる
  のに必要なヤードの数値と解釈すれば、メートルと開き方は同様。
電気鉄道方式 直流六〇〇「ヴォルト」単線架空式
送電線路方式 特別高圧一一、〇〇〇「ヴォルト」三相三線式
車   両  従来使用ノ電車ニ(に)七〇馬力電動機二個ヲ増設シ、電線接続法ヲ変更セル外〔1字不詳〕空気制動装置ニモ変更ヲ加ヘ、且ツ増備ヲ行ヘリ


 さすがに最急曲線が約161メートルというのは急で、これが後年のスピードアップと20メートル車導入の妨げになり、大々的な線路改良につながった(橋本以南は現在でもさらに急な100メートル)。なお、停車場表は次のように掲載されている。このうち高野辻(こうやつじ)駅は大正10年(1921)に現在の御幸辻に改められた。大字名も長らく辻であったが、昭和30年(1955)に合併で橋本市内となったのを機に、駅名に合わせて「御幸辻」に変更されている。この表は三日市町〜橋本間の監査報告のものなので長野駅は載っていないが、参考のために( )で追加した。なお明治43年(1910)に長野村は町制施行して長野町となった。〔 〕内はキロメートル換算。

名称   所在地               位置
(長野) (大阪府南河内郡長野町大字長野) (0哩00鎖00節〔0.00〕)
三日市町 大阪府南河内郡三日市村大字三日市  0哩79鎖00節〔1.59〕
千早口  大阪府南河内郡天見村大字岩瀬    3哩16鎖00節〔5.15〕
天見   大阪府南河内郡天見村大字天見    4哩28鎖00節〔7.00〕
紀見峠  和歌山県伊都郡紀見村大字矢倉脇   6哩48鎖00節〔10.62〕
高野辻  和歌山県伊都郡紀見村大字辻     8哩55鎖00節〔13.98〕
橋本   和歌山県伊都郡橋本町大字古佐田   10哩40鎖05.3節〔16.90〕


 開業の翌月末にあたる大正4年(1915)4月30日、社名を高野登山鉄道から「大阪高野鉄道」に改めている。社史によれば「高野登山では、山麓鉄道の感をまぬがれないが、大阪高野は大都市大阪から高野までということだろう」としている。
 橋本駅は大阪の汐見橋駅から45.2キロメートル(当時)、開業直後の資料は手元にないが、大正10年(1921)の時刻表によればここを電車が1時間50分前後で結んでいた。高野登山鉄道の開通以前は和歌山線で大和高田、王寺から関西本線を経由して大阪の湊町駅まで3時間前後、最短でも2時間20分であったことに比べれば大幅なスピードアップで、この利便性の向上によって運輸成績も上がっていった。
 なお「第十回営業報告書」で言及している橋本から紀ノ川畔への砂利採取線は、橋本開業後から約半年後の大正4年(1915)9月1日に開業している。橋本〜紀ノ川口間の長さ70鎖(約1.41キロメートル)の貨物専用線で、大正13年(1924)以降に延伸される高野山方面への新線は、橋本〜紀ノ川口間のほぼ中間地点に妻信号所を設けて、そこから分岐する形となった。

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

ジャンル

シリーズ

  • エクス・リブリス
  • ニューエクスプレス
  • ライ麦畑でつかまえて
  • キャッチャー・イン・ザ・ライ
  • 白水社創立百周年
  • 白水社2016売上トップ10