第25回 南海電気鉄道(5)

●橋本から高野山へ向けて延伸
 紀見峠を越える急勾配線を橋本まで延伸した高野登山鉄道改め大阪高野鉄道(大正4年4月30日商号変更)は、いよいよ山上の宗教都市・高野山を目指すことになるのだが、高野登山鉄道時代の大正2年(1913)1月10日に路線延伸の免許申請書を提出している。

   鉄道延長敷設免許申請書
 本会社曩(さき)ニ御認可ヲ得タル長野、橋本間延長線ノ終点、国有鉄道橋本駅ヲ起点トシ、更ニ和歌山県伊都(いと)郡高野(こうや)村ニ達スル十九哩〔19マイル=約30.6キロメートル〕間ニ鉄道ヲ延長敷設シ、旅客貨物運輸ノ営業仕度(つかまつりたく)候間、免許状御下付被成下度(なしくだされたく)、軽便鉄道法ニ拠リ別紙書類図面相添ヘ此段申請仕候也。
  大正弐年一月十日
    高野登山鉄道株式会社
     取締役社長 根津嘉一郎


 この申請書には次のような「副申」が添えられている。高野山への道がいかに峻険であり、近代的交通手段たる鉄道が待たれているかを訴えた。

   副 申
 高野山ハ和歌山県伊都郡高野村ニアリテ、往昔(おうじゃく)弘法大師ノ開基セル霊場ニシテ、国内ノ人士ハ渾(すべ)テ宗旨ノ如何ヲ問ハス、帰信茲(ここ)ニ萃(あつ)マリ。殊ニ同山ハ森厳(しんげん)雄大ナル風致ノ霊地タル故(ゆえ)、各地ヨリ信者参拝若クハ遊覧ニ登山スルモノ毎年数十万ノ多キニ達ス。
 然ルニ地勢ノ険坂ナルト道路ノ粗悪ナル為メ、交通ノ不便ナルコト実ニ形容シ得ベカラズ。為メニ其ノ登山ノ志望ヲ達セサルモノ尚ホ多々アルノミナラズ、同山及其附近ニ住居ヲ占ムル者ノ日用品タル米穀、蔬菜、食塩ニ至ルマデ悉(ことごと)ク之ヲ大阪若クハ和歌山等ノ各地ヨリ供給ヲ仰キ、而シテ米穀ノ如キハ一日平均白米約四〇石〔=約7216リットル〕以上ヲ消費シ、食塩、蔬菜等ノ類モ亦(また)之ニ伴ヒ、其他同地ヨリ搬出スル著名ノ産物タル木材、凍豆腐(しみどうふ)、紙等モ夥多(かた)ナルニ拘(かか)ハラズ、之ガ輸送機関トシテハ近時開業セル高野索道(さくどう)アルモ、僅カニ一部分ノ運搬ニ止マリ、到底需要ヲ充タス能ハズ。
 今尚ホ同山頂ヨリ橋本若クハ高野口(こうやぐち)迄(まで)人肩又ハ馬背ニ依リ之ヲ補ヒ居ルモ、非常ニ高価ナル運賃ヲ要シ、其不利不便尠(すく)ナカラズ。且ツ海外ノ観光団ニ対シ、之ガ勝地ヲ紹介セントスルモ、完全ナル交通機関ノ設備ナキ為メ、登山ヲ試ミントスル者少ナク、常ニ遺憾トスル処ナリ。


図1 高野山電気鉄道(現南海高野線)が開通した後の高野山とその周辺。1:200,000「和歌山」昭和7年部分修正

●山上の「宗教都市」に至る鉄道
 高野山は標高820メートル前後の高地にあり、金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心として多くの塔頭(たっちゅう)が建ち並ぶ「宗教都市」であり、各地からここへ向かう多くの参詣者や観光客、それに僧俗併せて高野山に住む人を加えれば相当な数に上る。ところが山道は険しく長い道のりで、副申の提出された2年前の明治44年(1911)に開通して間もない高野索道も部分的な区間に過ぎず効果は限定的であった。この不便さのため参詣を断念する人も多かったという。高野山では歴史的にコウヤマキ(高野槇)で知られる木材や凍豆腐(高野豆腐)、和紙などの生産も盛んなので、それらの搬出のためにも交通手段の近代化は強く求められていたのである。

 〔承前〕然ルニ本会社鉄道ノ長野、橋本間ハ既ニ工事ニ着手シ、着々工程ヲ進行セシメントナシツヽアルヲ以テ、今回本願ノ線路ヲ延長シ、旅客貨物ノ集散中心地タル大阪市ト高野山間ノ交通機関ヲ完備セシメ、現下ニ於ケル前述ノ如キ不便、不経済ヲ除去セシメ、信者観光客ヲシテ容易ニ其ノ志望ヲ達セシメ、且同地方ノ産業ヲシテ益々発達セシムルニハ、本鉄道ニ依ラザルヲ得ズ。
 然ルニ本鉄道ノ終点地ヲ同山大門ニ採ラザルハ、同山ノ地勢タル橋本又ハ高野口等ノ山麓ヨリ漸次急峻トナリ、就中(なかんづく)神谷(かみや)及大門口ニ至リテ頓(とみ)ニ急峻ノ度ヲ加ヘ、到底大門口ヨリハ山頂ニ登攀スルヲ得サル而已(のみ)ナラズ、強(しい)テ大門附近ヨリ山頂ニ線路ヲ敷設セントスルトキハ、森厳幽邃(ゆうすい)ナル霊地ノ風致ヲ損スルノ虞(おそれ)モ有之(これあり)、不得止(やむをえず)本願線路ヲ撰択シタルモノニシテ、本会社ハ近キ将来ニ於テ本願鉄道ニ蒸気車ト電車トヲ併用シ、貨物ハ専ラ蒸気車ヲ以テ輸送シ、旅客ハ電車ニ依リ敏速ニ往来セシムル計画ヲ為シ居ル次第ニシテ、他日尚進テ同山頂ヨリ或方面ニ線路ヲ延長スル企図ヲ為シ居ルタメ、本申請ノ線路ハ最モ其ノ当ヲ得タルモノト確信致シ居候ニ付、何卒御詮議ノ上、至急御免許被成下度(なしくだされたく)、此段副申仕候也。
   大正二年一月十日
     高野登山鉄道株式会社
       取締役社長 根津嘉一郎
内閣総理大臣 公爵桂太郎殿


 長野〜橋本間はすでに順調に工事が進み、これをさらに高野山まで延伸すれば大阪と直結し、参拝・観光客の利便性は大幅に改善され、また地元の産業振興にも大いに役立つとした。貨物は蒸気機関車の牽引する列車で、旅客は身軽な電車で「敏速ニ往来セシムル」計画である。貨客で動力を分けるのは長野〜橋本間で実施する予定の方式であったが、いかにも蒸気鉄道から電気鉄道への移行期らしい。
 なお、神谷から高野山の西の入口にあたる大門までのコースは急峻過ぎて線路の敷設が難しいことに加えて「森厳幽邃ナル霊地ノ風致ヲ損スル」おそれがあるので、やむを得ずこのコースにしたことが記されている。ちなみに現在の高野線紀伊神谷駅から高野山までは、谷のどん詰まりに設けた極楽橋駅からケーブルカーで一気によじ登るコースとなっているが、全区間をアプト式等の歯軌条を用いない「粘着式」で敷設するためには別ルートをたどらざるを得なかった。

●屈曲をきわめた当初計画のルート
 申請書には平面図と縦断面図が添付されているが、これがなかなか迫力満点である。ルートは最終区間にケーブルカーを組み込んだ現在の高野線とはだいぶ異なっていた。具体的に言えば、橋本から紀ノ川を渡って清水、学文路(かむろ)と進むのはほぼ共通しているが、この間も線路が蛇行していることから、現在線より山側をたどることで、少しでも手前から高度を稼ぐのに徹したようだ。
 その先は現在線のように高野下(椎出)へは出ずに丹生(にう)川沿いに東へ遡り、江戸期に高野街道の宿場として発達した河根(かね)を経て彦谷(ひこたに)で南へ転じ、さらに支流の清川沿いに西ヘ遡って中の橋あたりへ出るというルートであった。地形図で等高線の具合を見ればほとんどの区間で急斜面が迫るまさに深山幽谷であり、33.3パーミルという最急勾配を守るために蛇行を繰り返しながら山腹を上っていく。この線路がもし実現したとしても大半がトンネル内とならざるを得ず、工費を考えてもあまり現実味のないルートだったのではないだろうか。
 縦断面図でたどってみると、まず起点の橋本駅から80分の1勾配(12.5パーミル)で緩く上り始め、橋本起点2マイル12チェーン(約3.5キロメートル)の清水駅に着く。そこから100分の1(10パーミル)の緩い上り勾配で学文路(かむろ)駅が4マイル00チェーン(6.4キロメートル)。ここからが本格的な上り急勾配区間で、すぐに30分の1(33.3パーミル)となるが、この勾配は駅以外の全区間で終点まで続く。
 ひたすら上って5マイル60チェーン(9.3キロメートル)の河根(かね)駅、さらに上って彦谷(ひこたに)駅が11マイル20チェーン(18.1キロメートル)、次は終点だが最も駅間距離が長く、清川沿いのさらに狭い谷を同じ限界勾配で約10キロメートルにわたって上れば、ようやく高野山駅に着くという按配だ。全長18マイル70チェーン(28.8キロメートル=ちょうど東京〜横浜間と同じ)は、現在の橋本〜高野山間の20.6キロメートルに比べてはるかに長い距離であるが、勾配を33.3パーミルに抑えたため蛇行迂回は避けられず、やむを得ない距離であろう。


図2 険しい山の中で33.3パーミルの上限勾配を守るべく、おそるべき屈曲を見せる計画線。「高野登山鉄道橋本高野山間延長線路予測平面図」鉄道省文書「南海鉄道(元大阪高野鉄道)」巻三 大正2年 国立公文書館蔵

●橋本〜高野山間の申請は却下
 しかし大正2年(1913)5月にこの線路延長線布設願は却下される。理由は「現在免許線和歌山水力電気株式会社軽便鉄道高野線ト其ノ起終点及目的ヲ同フ(おなじう)セルヲ以テ」、つまり高野登山鉄道の新線計画は和歌山水力電気に免許した路線と起点が同一であり、かつ同一目的なのでダメということだ。監督官庁としては当然の判断である。
 ただし、和歌山水力電気の方も免許は持ちながらなかなか着工できず、竣工期限を何度も延期していた。高野登山改め大阪高野鉄道はその免許を譲渡するよう同社に持ちかけたが、肝心の自前の新株の払い込みが完了していなかったため増資もできず、別会社である高野大師鉄道株式会社(社長・根津嘉一郎)を立ち上げた。和歌山水力電気とは大正3年(1914)6月9日に敷設権譲渡の仮契約が結ばれ、その後は同5年に権利譲渡を鉄道省から許可されている。
 しかし折悪しく第一次世界大戦の影響で着工が延期を余儀なくされるなど、なかなか事業は進展しなかった。大正11年(1922)9月6日には南海鉄道が大阪高野鉄道を合併するのだが、『南海電気鉄道百年史』にはその経緯が簡潔に記されているので、少し長いが引用する。大阪高野が橋本まで延伸させたことにより紀ノ川流域から大阪へ出る速達ルートが確立、南海とは一部のエリアで競合することとなったため、将来的に見れば大阪高野を合併しておいた方が今後の展開にとって得策という判断であった。

 南海鉄道の理想としてかかげている阪南交通機関の統一の意味からも、早急に同社を合併すべく機会をうかがっていた。しかし、高野側からみれば「高野鉄道の規模、業績をみて悪い条件で合併される」との思惑があり、当初は拒否された。双方が、いかに有利な条件で合併するかを考え、互いに腹をさぐりあい、長らくにらみ合う状態が続いた。
 大正十一年〔一九二二〕にいたり、両者は対等合併することで意見が一致した。しかし、当時の両社の規模、業績からみれば、大阪高野側に有利な合併であった。
 同時に高野大師鉄道も南海鉄道に合併した。同社は紀ノ川鉄橋の建設工事に着手はしていたが、いまだ開業していなかったにもかかわらず、南海株二に対して高野大師株三の割合、解散手当三万円を受け取った。第三者からみれば、ずい分と虫のよい条件に甘んじたと騒がれたが、南海鉄道が同線の将来性を買ったと判断すべきだろう。


 これにより大阪高野鉄道と高野大師鉄道はいずれも南海鉄道となったが、その際に高野大師鉄道がまだ着工していなかった高野下(椎出)以南、高野山までの山岳区間を和歌山水力電気に返還している。その和歌山水力電気は南海が大阪高野を合併する直前の大正11年(1922)7月1日に京阪電気鉄道に合併された。ちなみに和歌山水力電気は和歌山市内の路面電車事業も行なっており、戦後の昭和36年(1961)には南海電気鉄道和歌山市内線として引き継ぐことになるのだが、それはまだ先の話である。

●「並行線」でも今回は認可
 さて、大正13年(1924)には高野登山鋼索鉄道株式会社が設立された。京阪が所有する高野下〜高野山間がまだ着工に至らない時期であるが、明らかな「並行線」にもかかわらず、京阪もこちらも高度差が大きいこの区間にあって鋼索鉄道(ケーブルカー)の区間を有するため輸送力は将来の高野登山者数を考えれば不足しており、両者が少し終点を異にするアクセス線として併存することは十分可能であるという考え方に基づいて敷設の申請が行なわれた。大正13年(1924)4月23日付の官報には、次の通り免許下付について掲載されている。

   ○通運
◎鉄道免許状下付 本月八日高野登山鋼索鉄道株式会社発起人板倉勝憲(かつのり)外二十三名ニ対シ鉄道敷設免許状ヲ下付セリ。其起業目論見ノ概要左ノ如シ(鉄道省)
動力 電気鉄道 軌間 三呎六吋〔3フィート6インチ=1067ミリメートル〕 起終点 和歌山県伊都(いと)郡高野村 同郡九度山(くどやま)町 延長哩程 四哩四鎖〔4マイル4チェーン=約6.52キロメートル〕 建設費 百五十万円


 次は京阪との「並行線」ながら免許した鉄道省による理由書である。

  理 由
 本線路ハ高野登山者ノ利便ニ資セントスル適当ノ施設ナリ、本路線ト併行スル京阪電気鉄道(椎出〔現高野下〕、大門間工事施行線)線アルモ、両者孰(いず)レモ一部鋼索線ニシテ、其ノ性質上平坦線ニ於ケル鉄道ニ比シ輸送力少キヲ以テ二者ハ併立シ得ベク、且(かつ)両者ト連絡スル南海鉄道橋本椎出間ハ、其ノ一部ヲ複線トナスノ計画アル状態ナルヲ以テ、将来三者ハ相俟(あいまち)テ交通ノ円滑ヲ期シ得ルモノト認ム。仍(よっ)テ伺案(しあん)ノ通免許可然(しかるべし)。


図3 高野山をめぐる3ルート。西側の青線が京阪電気鉄道(旧和歌山水力電気)、東側の緑線が高野登山鋼索鉄道、その間に描かれた赤線が両者を折衷した形の高野山電気鉄道のルート(ほぼ現路線)。鉄道省文書「高野山電気鉄道 巻一」大正13年〜昭和2年 国立公文書館蔵

●京阪と高野登山鋼索鉄道を折衷したルートへ
 その並行線の関係がよくわかるのが申請書類中に綴じられたこの図だが、地形図に青線で描かれたのが京阪電気鉄道(旧和歌山水力電気)の免許線、緑色が高野登山鋼索鉄道の免許線である。いずれも椎出(現高野下)を起点としているが、破線部分はケーブルカーだ。具体的には次のようなルートである。

①京阪電気鉄道 椎出から細川までが平坦線、そこから鏡石までケーブルで上がり、別の平坦線(上部軌道)で高野山の西口に位置する大門を目指す2平坦線+1ケーブル。
②高野登山鋼索鉄道 椎出からケーブルで井出谷に一気に上り、そこから不動坂(現極楽橋付近)まで平坦線、その後は女人堂まで2つ目のケーブルで登る2ケーブル+1平坦線。


 この赤線が結局は現在の高野線ルートに近いのだが、山岳路線の建設にあたって南海鉄道は大正14年(1925)3月26日に子会社の高野山電気鉄道を設立した(鉄道省文書には、高野登山鋼索鉄道から社名を変更したとの記述。会社設立登記は3月28日)。その間に南海鉄道では橋本付近の妻信号所(紀ノ川口貨物線との分岐点)から学文路(かむろ)間を大正13年(1924)11月1日、さらに九度山まで12月25日、翌14年7月30日には高野下まで開通させている。ついでながら当初この駅は「高野山」と称したが、これから「本物の高野山」へ向かう上で誤解を招かないための配慮か、開業直後の9月11日には「高野下」と改称した。
 併存していた2つの免許線を折衷したルートとなったわけである。そもそも表向きは「輸送力不足のために2路線を免許」したことになっているが、結局は京阪の免許線を南海の子会社・高野山電気鉄道が買収していることから、内実は京阪と南海の調整をスムーズに運ぶため当局が配慮したシナリオではないだろうか。ちなみに高野山電気鉄道の社長に就任した岡田意一(いいち)は元鉄道省監督局長であった。「天下り防止」がうるさい昨今ではあり得ない人選だが、戦前ではまったく珍しくない。


図4 高野山電気鉄道として建設された高野下〜極楽橋間の鉄道線、極楽橋〜高野山間の鋼索鉄道(ケーブルカー)が描かれた地形図。併走している森林軌道は鉄道建設のための資材運搬にも活躍した。1:50,000「高野山」昭和9年修正

●急峻な路線ならではの「特殊設計」
 高野下駅の標高は108.0メートル、鉄道線の終点である極楽橋駅は534.9メートルと標高差が大きい。この間10.3キロメートルで426.9メートル上がるということは、平均勾配が40パーミルを超えてしまう。実際には駅の構内は勾配を緩くする必要もあるため、最急勾配は50パーミルとして「特殊設計」を申請した。狭い谷をたどるためにカーブも急で、最小半径は100メートルとかなりの急曲線となった。
 次の申請書にも言及されている地方鉄道建設規程(大正8年8月13日)の第13条は「軌間三呎六吋(1067ミリメートル)及四呎八吋半(1435ミリメートル)ノモノニ在リテハ八鎖(約160メートル)以上」と定め、第15条には「本線ノ勾配ハ三十分ノ一(33.3パーミル)ヨリ急ナルコトヲ得ス」とある。

   高野山電気鉄道線路工事特殊設計許可申請書
 大正拾参年四月八日付監第六八二号ヲ以テ御免許相成候和歌山県伊都郡九度山町大字椎出ヨリ同郡高野村高野山上ニ至ル本会社線路中、井出谷不動阪間電気鉄道線路ニ於ケル曲線及ヒ勾配ハ、地勢ノ状況ニ依リ地方鉄道建設規程第拾参条及第拾五条ノ御規程ニ依リ工事施行困難ニ付キ、最小曲線半径ヲ五鎖〔5チェーン=約100.6メートル〕、最急勾配ヲ弐拾分ノ一〔20分の1=50パーミル〕トシ、工事実施仕度(つかまつりたく)候間、特別ノ御詮議ヲ以テ御許可相成度、地方鉄道建設規程第一条ニ依リ此段及申請候也。
  大正拾四年四月四日
     高野山電気鉄道株式会社
       取締役社長 岡田意一
鉄道大臣 仙石 貢殿


図5 きれいに着色された高野山電気鉄道の線路縦断面図。神谷(現紀伊神谷)駅付近の部分で、大きく朱書きされた「132」は同駅構内の132分の1勾配(約7.6パーミル)、「20」は最急勾配である20分の1(50パーミル)を示す。鉄道省文書「高野山電気鉄道」巻一 大正13年〜昭和2年 国立公文書館蔵


図6 高野山電気鉄道の線路平面図のうち下古沢駅付近。赤い細線が電気鉄道、黒線は既存の森林軌道。現在では「トロッコ道」と呼ばれる歩道になっている。鉄道省文書「高野山電気鉄道」巻一 大正13年〜昭和2年 国立公文書館蔵

 地方鉄道建設規程の第1条には「但シ特別ノ設計ヲ必要トスルモノニ在リテハ監督官庁ノ許可ヲ受ケ本規程ニ依ラサルコトヲ得」とある通り、この特殊設計は許可された。高野山電気鉄道以外にも、少し前の大正8年(1919)に竣功した小田原電気鉄道(現箱根登山鉄道)の箱根湯本〜強羅間がさらに急な80パーミルを採用しており、現在に至るまで粘着式鉄道としては国内最急勾配を誇っているのを始め、高野と同時期の神戸有馬電気鉄道(現神戸電気鉄道・昭和3年竣功)が50パーミルを採用している。
 険しい山の中での難工事を経て昭和3年(1928)6月18日に高野下〜神谷(昭和5年から紀伊神谷)間、翌4年2月21日には極楽橋まで開通した。地方鉄道建設規程によれば停車場構内は20分の1勾配(5パーミル)以内となっているが、この路線では第15条の規定にある「特別ノ事由アル場合」の限界値である10パーミルを採用した。
 なお、これだけ厳しい条件の路線だけあって、車両には安全面が特に配慮され、開業時に導入された電動客車デ101〜108、荷物室付電動客車デニ501・502には、竣功監査復命書の車両表によればいずれも「手用、空気、電磁軌条、電気制動付」とブレーキが何重にも備えられていた。このうち「電磁軌条制動」は電磁吸着ブレーキで、台車に備えられた電磁石をレールに吸着させる非常ブレーキである。
 次は高野下〜神谷間を開業する2日前にあたる昭和3年(1928)6月16日に行なわれた竣功監査復命書に掲げられた停車場表である。ついでに極楽橋延伸のデータ(*印)も昭和4年2月18日竣功監査復命書のものを追加して掲げた。

名称       所在地            位置〔キロメートル換算〕
高野下      和歌山県伊都郡九度山町椎出  0哩00鎖00節〔0.00〕
下古沢      和歌山県伊都郡九度山町下古沢 1哩02鎖78.2節〔1.67〕
上古沢      和歌山県伊都郡九度山町上古沢 2哩05鎖2.4節〔3.32〕
細川〔紀伊細川〕 和歌山県伊都郡高野村細川   3哩75鎖54.4節〔6.35〕
神谷〔紀伊神谷〕 和歌山県伊都郡高野村神谷   5哩34鎖22.4節〔8.74〕
極楽橋      和歌山県伊都郡高野村     6哩30鎖47.4節〔10.27〕


図7 急峻な地形をたどる高野線も間もなく90年を迎えようとしている。1:25,000「高野山」平成12年修正

●国有林内での敷設が難航したケーブル線
 なお、極楽橋から高野山駅(計画当初は「高野山上」)に至るケーブル区間は、金剛峯寺所有の風致保安林および国有林での軌道敷設の許可の関係で工事着手が遅れた。特に国有林を管轄する大阪営林局との交渉は手間取り、昭和3年(1928)10月8日付の工事着手期限延期願によれば「借用願書提出致シ候、以来約二ケ年間ニ数十回ニ渉リ大阪営林局ニ対シ嘆願又ハ陳情旁々(かたがた)速ニ許可セラレ度(たき)旨懇願致候得共(そうらえども)、今尚ホ御承認ニ不接(せっせず)、誠ニ迷惑致居リ候」と、憤懣やるかたなしという気分が珍しく公文書に表出されている。
 ケーブルはようやく昭和5年(1930)6月29日に開業したが、和歌山水力電気の前身の高野電気鉄道(高野山電気鉄道とは別)が明治44年(1911)に敷設免許を取得してから、実に20年近い歳月が経過していた。ケーブルの山上駅である高野山駅舎は、木造2階建てのどことなく寺院風の珍しい洋館(平成17年に登録有形文化財)として開業の2年も前に竣功していたが、ようやく出番が回ってきたのである。
 ついでながら、高野下〜極楽橋間には23か所に及ぶトンネルが設けられた。竣功監査復命書の「隧道表」より、起点方からの順番で掲げてみよう。なお( )内はメートル換算した長さである。

〔高野下駅〕猪子山(102.6m)・下古沢(42.2m)〔下古沢駅〕弁天山(90.5m)・大福山(117.7m)・馬場山(147.9m)〔上古沢駅〕上古沢(160.9m)・瀬戸(51.3m)・蛇窪(21.1m)・笠木(118.7m)・大下(113.6m)・入谷(94.5m)〔細川駅〕細川(152.9m)・城谷(63.3m)・前迫(128.7m)・羽根山(63.3m)・浦神谷(32.2m)・王子山(160.9m)・神谷(182.0m)〔神谷駅〕大迫(244.4m)・指尾(120.7m)・不動(22.1m)・西郷(24.1m)・四寸岩(100.6m)〔極楽橋駅〕

 急峻な地形で多くの小さな谷を跨ぐため橋梁も多数に及ぶが、中でも大規模なのがトレッスル橋の中古沢(なかこさわ)橋梁である。この形式の橋は櫓(やぐら)のように鉄骨の橋脚を立てた上に桁を渡すもので、代表格は山陰本線の余部(あまるべ)橋梁であった。しかし平成22年(2010)の架け替えでコンクリート橋となり、今では全国に11橋という貴重な存在だ。中古沢の特徴はその桁もトラス構造であるのが珍しい。現在は橋脚の足下に展望デッキが設けられている。
 さて、開業当初は架線電圧が600ボルトの南海高野線と1500ボルトの高野山電気鉄道で電圧が異なるため両者間での直通はできなかったが、昭和7年(1932)4月28日に高野山が600ボルトに「降圧」することで解決、難波から高野山直下の極楽橋が直結されることとなった。ちなみに昭和4年(1929)11月1日から高野線の列車はすべて難波始発となっており、現在では「大阪市内のローカル線」として知られる「汐見橋支線」は、早くもこの頃には主役を降りていたのである。

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

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