谷口功一「スナックを「学問」する意味」



 このたび白水社から『日本の夜の公共圏――スナック研究序説』という本を上梓した。副題にもある通り、夜の巷にネオンの灯をともす「スナック」についての研究書である。
 「法哲学者」が、なぜスナックについて研究するのか。以下では、表題の通り「スナックを学問する意味」という観点からこの本の中では書ききれなかった事柄を補足しておきたい。
 筆者は、ここ数年、スナック研究と並行して移民・難民問題に関心を持ち、日系ブラジル人をはじめとする外国人居住比率が国内最高水準の群馬県大泉町やクルド人難民が集住する埼玉県蕨市(ワラビスタンとも呼ばれる)などを実地で訪れたりもして来たが、その関連で最近読んだ柄谷利恵子の『移動と生存――国境を越える人々の政治学』(岩波書店)の中でスナックについて考える上で大変興味深い記述に出会った。
 柄谷によるなら、我々が生きるこの世界においては、様々な形での国境を越えた移動が行われているが、実際にそのような《越境》を行うのは世界人口のうち三%であり、残りの九七%の人々は自らが生まれ育った国にとどまって生きてゆく。
 このような母国にとどまる人々には「とどまることの利益」があるはずなのだが、この利益(アドバンテージ)がグローバル化に伴い希薄化しているというのが柄谷の見立てである。
 とどまることの利益とは、現に自らが居住する場所での社会文化的な繋がりや生活情報の蓄積、知己とのネットワークの広がりや深化などから得られる諸々の利益をさしているが、スナックこそは、このような利益のハブ(結節点)となる「とどまり続ける者たち(=定住者)」のための場所ではないだろうか、というのが筆者の持論なのである。
 恐らくこの文章を読む人の多くはスナックに行ったことがないのではないかとも思うが、特に地方で地域に根ざして暮らしてゆく上で、スナックでの会合は当然の定番である。これは大学や出版社が集中する東京(特に二三区内)近傍に住んでいる本紙の読者の多くを占めるような人々には実感しにくいことかもしれないのではあるが。
 先に挙げた柄谷の本の中では現代において《定住》を選ばず意のままにグローバルな越境を行う人々のことを「移動の主人」と呼ぶが、スナックに通うような定住者は、このようなグローバル・エリートとは対極をなす存在と言うことができるだろう。
 筆者の専門である法哲学(正義論)などにおいて、このようなコミュニティでの定住について規範的に考える際には、コミュニタリアニズム(共同体論)に言及するのがお約束であり、そこでの諸活動に関しては、「公民的徳性(civic virtue)」などがキー概念として持ち出されるのが通例となっている。これに対してグローバルな市場を牽引し、経済的自由を称揚するのが、リバタリアン(左派好みの名称で言うなら新自由主義)ということになる。
 しかし、この「公民的徳性」というものの内実は、筆者にとって長らく茫漠とした謎であった(実際、様々な論者もその内実がアドホックで一貫した整合性を持たないものであることを認めている)。
 このことについて考える際には、公民的徳性の発揮される具体的な「場所」についての考察が必要なのではないだろうか。その線から到達したのが、スナックだったのである。
 冒頭にあげた著作のタイトルにも示された通り、筆者はスナックを一種の「公共圏」として捉えようとしているわけだが、実際にスナックに行けば分かる通り、そこでの人々の交わりは、決してハーバーマスが『公共性の構造転換』(未來社)の中で描き出したような形での「理性」を存分に行使した討議や、あるいは公民的徳性の発露などではあり得ない。
 ここで言うスナックと似たような機能を果たしているようにも見えるものとして、『公共性の構造転換』の中で「公共圏」の典型例としてあげられるコーヒーハウスを祖とするパブが思いうかぶ。しかし、パブには階級による区切りが厳然と存在している。これに対して、日本のスナックはある種すがすがしいほどに極度の社会経済的地位の「水平化(レヴェリング)」機能を有している。要するに山崎のボトルと鏡月のボトルでもせいぜい一万円ちょっとくらいの違いであり、金持ちや身分の高い者しか歌わない曲がデンモクに入っているなどということはあり得ないのである。
 あらゆる社会経済的地位の者が入り交じる、この日本独特の「夜の公共圏」とも言うべき場について知り、そこから考えることこそが、真の地に足についた「公共性」論ではないだろうか。
 『日本の夜の公共圏』の中では、以上のような事柄を論じる上での基礎工事として、筆者をはじめとする様々な分野の研究者が集ってスナック研究会を結成し、議論を行っている。そのさらなる詳細な議論については、年内に刊行すべく執筆継続中のスナックに関する筆者の単独著作において、これまでの筆者のスナック研究を集大成する形で江湖に問う予定である。伏してご期待頂ければ幸いである。
(首都大学東京教授)

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