第26回 南海電気鉄道(6)

●国有化を免れた南海鉄道と阪和電気鉄道
 大阪市と和歌山市の間には現在、南海電気鉄道の本線とJR阪和(はんわ)線が並行している。ターミナルは大阪側が南海の難波とJRの天王寺、和歌山側が南海の和歌山市とJRの和歌山と異なってはいるが、両者は和泉山脈を越える区間を除けばほぼ1〜3キロメートルほどの間隔で併走しているので、完全な競合関係にある。しかも両者は約60キロの距離を走りながら、起点から終点までただの一度も線路を接続することがない。
 南海鉄道が和歌山へ通じてから約30年が経った昭和4年(1929)に登場したこの競合線は当初、阪和電気鉄道という私鉄であった。結局は昭和15年(1940)に南海鉄道に合併され、最終的には国による戦時中の強制買収で同19年に国鉄阪和線となるのだが、既存の鉄道とこれだけ併行した私鉄が実現した背景を探るために、明治期の鉄道国有化の動きをたどってみよう。
 話はだいぶ遡るが、日本でいえば維新直後の明治3年(1870)から翌年にかけて、プロイセン(ドイツ)とフランスの間で普仏戦争が行なわれた。日本に最初の鉄道が開通する2年前の話である。当時のドイツはバイエルンやザクセンなど多くの国(旧領邦)が分立する状態であったが、その中で最大のプロイセン王国の宰相ビスマルクが率いる軍は、それら旧領邦の国々の援軍も得て、当時の最新輸送手段であった鉄道と野戦砲を駆使した戦いを進め、ナポレオン3世の第二帝政フランスを破っている。
 近代国家としてドイツ統一を目指すビスマルクが力を入れたのが鉄道の国有化であった。英国のジャーナリストであるクリスチャン・ウォルマーが書いた『世界鉄道史』(邦訳・河出書房新社)によれば、普仏戦争当時のドイツ地域は18の国に合計66もの鉄道会社が林立しており、戦時中に果たした鉄道の威力の大きさを痛感した彼は、まず鉄道の規格を標準化することを目指した。一旦緩急あった時に前線の鉄道が破壊された際にも後方から同じ規格品を送ることで素早く復旧が可能だからである。


図1 現在よりはるかに広かった第一次世界大戦に負けた後(1929年)のドイツ。旧プロイセン王国はこの領域の北側の多くを占めていた。三省堂『最近世界地図』昭和4年修正

 もちろん当時の鉄道会社は、自動車というライバルが存在しない中でなかなか儲かる商売でもあり、ビスマルクの強権をもってしても、当時の自由主義的な時代精神も相まって、鉄道の国有化を実現するのは難しかったという。10年にわたる議論と政治的な駆け引きの末に、1879年から80年にかけて鉄道国有化法案を通過させ、民営鉄道の強制収用を可能にした。このエピソードを、やはり「新興国」だった大日本帝国の政府が知らなかったはずはない。
 もともと日本では鉄道の黎明期に新政府の資金不足が深刻で、民間投資による鉄道インフラの整備に頼らざるを得ない事情があった。このため最初の新橋〜横浜間や京阪神間の鉄道を除けば、日本鉄道(東北・常磐・高崎各線など)、山陽鉄道(山陽本線)、関西鉄道(関西本線)、九州鉄道(鹿児島・日豊・長崎各線など)といった「私鉄」が幹線輸送を支えていたのである。
 日本が近代国家として初めて経験した対外戦争である日清戦争では、当時新橋から広島に達していた鉄道が兵員や兵器の輸送に威力を発揮した。非常時における機動性を考えれば国家による鉄道の一元的な輸送管理が望ましいことははっきりしているのだが、地域の陸上交通を独占する事業としてのうま味もあり、会社を国に売り渡すことへの抵抗はもちろん存在した。反対に経営難の鉄道会社にとっては、なるべく高い金額で国に買収してもらいたかったのも事実であるが。
 実業界では鉄道国有化に対する賛否が熱く議論されるようになったが、国有化を進めたい山縣有朋が第二次内閣で憲政党に協力を求め、鉄道国有調査会が設けられることになった。当初の買収リストは主に幹線クラスの路線で、日本・西成(大阪桜島線など)・北海道炭礦(室蘭本線など)・北越(信越本線など)・甲武(中央本線)・関西・山陽・九州・京都(山陰本線)の9社だけであったが、明治39年(1906)2月17日の閣議には北海道(函館本線)・岩越(磐越西線)・総武・房総(外房線など)・七尾・参宮・阪鶴(福知山線など)・徳島(徳島線)の8社を加えて17社とした。さらに後の閣議では15社が追加されて合計32社にも達し、この最後の追加で南海鉄道と高野鉄道が入ってしまったのである。
 南海・高野の両社にとってはまさに青天の霹靂であったが、鉄道国有化法案には反対者も多く、調整をとるべく貴族院が32社から17社に戻す修正案を出した。そしてお家芸の感もある議場での乱闘を経て強行採決、結局は当初案の17社が国有化されている。もう少し野党が弱かったら今頃は「JR南海線」になっていたかもしれないことを考えれば、国会における議決というのは、つくづく後世にまで響くものである。


図2 内陸へ小私鉄だけが延びていた頃の和歌山市以南の状況。1:200,000帝国図「和歌山」大正9年製版

●悲願の紀伊半島一周鉄道
 紀伊半島の多くを占める和歌山県の鉄道といえば、今では紀勢本線が多くの距離を占めているものの、明治末年の段階では大阪へ通じる南海鉄道が県都の北側をわずかにかすめるのを除けば、紀ノ川に沿って敷かれた国鉄和歌山線だけで、海岸沿いに線路は皆無という状態であった。ようやく大正元年(1912)から2年にかけて新宮〜勝浦(現紀伊勝浦)間が新宮鉄道の手で開通、その後は大正4年(1915)から翌5年にかけて和歌山、湯浅、日方(海南市)から山東軽便鉄道(現和歌山電鐵)、有田鉄道、野上軽便鉄道(後の野上電気鉄道)といった小私鉄がいずれも短い路線を内陸へ向けて開業した程度に留まっている。
 和歌山県選出の有力代議士であった岡崎邦輔は、鉄道に恵まれない紀伊半島を一周する鉄道構想の実現に向けて熱心に働きかけ、大正7年(1918)には鉄道敷設法に紀勢東線・紀勢西線を明記させることに成功した。これを受けて同9年には紀勢東線(相可口〔現多気〕〜栃原間)が、翌10年には紀勢西線(紀三井寺〜加茂郷間)が着工されている。西線としては大正13年(1924)の和歌山(現紀和駅)〜箕島間が最初の開業区間であった。
 さて、鉄道が開通する前の紀伊半島沿岸を巡る交通機関といえば、毎日1便ずつ出航する大阪商船の大阪〜名古屋線であった。大正4年(1915)の時刻表『公認汽車汽舩旅行案内』3月号によれば船は1日1便で、他に田辺までの便、「勝浦急航便」が各1便見える。
 名古屋行きの時刻を見れば、大阪を夕方16時半に出た船は兵庫に19時20分、和歌浦(和歌山市)0時20分、湯浅が午前2時半、比井(日高町)4時、御坊5時半、印南6時半を経て田辺に7時50分に着く。ここを8時50分に出てからは周参見11時10分、串本14時20分、古座15時、太地(たいじ)16時40分、勝浦4時59分着である。同所の出航が18時ちょうどで三輪崎(新宮市)に19時10分、木本(きのもと・熊野市)に22時20分、二木島(にぎしま)23時30分、九鬼には3日目の午前1時、尾鷲は深夜の2時半、島勝(紀北町)4時、長島5時20分、神前(かみざき・南伊勢町)7時20分、志摩半島の先端の波切(なきり・志摩市)に10時20分、鳥羽が12時17分着で13時10分発、津16時20分、日が暮れて四日市に19時、終着の名古屋・熱田港には3日目の夜の20時49分というダイヤであった(カッコ内は現在の市町村名)。
 全区間を「完乗」すれば合計52時間あまりの長丁場で、和歌浦から田辺でさえ7時間半である(現在は特急「くろしお」で約70分)。当時の紀伊半島−東牟婁(ひがしむろ)郡・西牟婁郡に住む人たちが、このように前近代的なスピードで1日3回ほど姿を現わす船便から、近代の高速交通機関であった汽車での移動を切望していたことは想像に難くない。
 紀勢線の建設を進める以上、大阪と和歌山の間は国鉄線で結ばれているべきであるとして、大正9年(1920)には原敬内閣の時に南海鉄道を国が買収しようとする動きが起きた。ところが第一次世界大戦時の好景気がこの年に一転して反動不況に突入してしまう。南海鉄道としては、ただでさえ阪堺電気軌道の合併で配当が落ち込んだところへ、買収金額の根拠となる3年間の平均営業収入が反動不況でガタ落ちとなっている。そんなに安く買い叩かれてはかなわないので、政界へ買収反対運動を仕掛けるなど経営陣が奔走しているうちに議会が解散となり、結果的に買収の件は沙汰止みとなった。
 政府としては阪和間に新たな国鉄線の敷設を目指さざるを得なくなったのだが、その区間には、前年の大正8年(1919)11月28日に阪和電気鉄道がうまい具合に申請していた。35人の発起人の内訳としては、泉州に根拠地をもつ大阪の綿業資本家たち、紀伊半島の沿岸航路を担っていた大阪商船グループ、それに紀勢線の建設を後押ししている和歌山市の有力者たちであった。この中で大阪商船グループは、今後の鉄道建設に伴う航路撤退を視野に入れた新規事業への投資としての性格が強かったようだ。阪和電気鉄道は大正12年(1923)7月10日に免許を得ることができ、同12日には官報に次の通り掲載されている。

◎鉄道免許状下付 本月十日阪和電気鉄道株式会社発起人喜多又蔵他三十一名ニ対シ鉄道敷設免許状ヲ下付セリ。其企業目論見ノ概要左ノ如シ(鉄道省)。 鉄道種別 電気鉄道 軌道幅員 三呎六吋〔3フィート6インチ=約1067ミリメートル〕 線路両端 大阪府東成(ひがしなり)郡田辺町 和歌山県和歌山市本町 延長哩程 三十六哩七十鎖〔36マイル70チェーン=約59.34キロメートル〕 建設資金 金二千万円



図3 阪和電気鉄道の敷設免許申請書に添付された地図に描かれた計画線。 鉄道省文書「阪和電気鉄道」巻一 大正12年〜15年 国立公文書館蔵

 起点とされた東成郡田辺町というのはおおむね現在の大阪市東住吉区で、当初は近鉄南大阪線の前身である大阪鉄道の「松原駅」(現在の河内松原とは別)を起点とする計画だった。ちなみに同線は大正12年(1923)4月13日の開業なので、この図でも紺色の破線となっている。松原駅と称しているにもかかわらず、この破線に接続していない理由はわからないが、破線もだいぶアバウトなので誤差の範囲だろうか。なお大阪鉄道には結局松原駅が設置されることはなかった。いずれにせよ阪和電気鉄道の最終的な起点は関西本線や城東線(現大阪環状線)に接続する天王寺となる。
 免許状には但し書きとして「本線路ノ起点ハ国有鉄道ニ連絡スルヲ適当ト認ムルヲ以テ、工事施行認可申請迄ニ連絡地点ヲ選定シ、線路変更ノ申請ヲ為スヘシ」とされていた。当初から将来的には国が買収する意図をもっていたからであろう。このため当初は4フィート8インチ半(1435ミリメートル)とされた軌間も、大正10年(1921)10月24日に提出された起終点変更の申請時には国鉄と同じに改められた。ちなみにそれ以前の起点は大阪市南区木津大国町(現在の浪速区。市営地下鉄御堂筋線・四つ橋線大黒町駅付近か)、終点が和歌山市屏風町(正しくは屏風丁。和歌山市駅前)となっている。起点側が大幅に違うが、その旧ルートは図の赤線部分だ。
 なお和歌山側の終点が屏風丁から本町に変更されたのは、南海鉄道のすぐ東側で紀ノ川を渡り、東へ折れてこの本町(八丁目)で国鉄に合流させる意図があったためだろう。これも後日、現在のように東和歌山駅(現和歌山駅)に接続地点が再度変更されることになる。なお免許が下付されるに至った事情や理由が申請書類に次のように添付されている。

  参考 理由
 大阪、和歌山間ノ交通機関トシテハ南海鉄道難波、和歌山市間(全部複線)ノ捷径ト同鉄道汐見橋、橋本間(元大阪高野鉄道線、全部単線)ノ迂路ト二線アリ。然レトモ前者ハ近時漸(ようや)ク輸送力ノ最大限度ニ達セムトシツツアリテ、現在ノ設備ニ於テハ今日以上多ク期待スルコト能ハサルノミナラス、後者ハ長野橋本間ニ於テ曲線及勾配ノ関係上著シク輸送力ヲ制限セラレ、之亦(これまた)将来ニ対シ大ヲ望ムコト困難ナリトス。
 而シテ目下工事中ノ国有鉄道紀勢線漸次(ぜんじ)開通スルニ随(したが)ヒ、大阪和歌山間ノ交通ハ益々増加スヘク、殊ニ貨物ノ移動多量ニ上ルコトモ容易ニ想像シ得ルヲ以テ、之カ趨勢ニ応スヘキ一線ヲ新ニ(あらたに)設クルコトハ、時機ニ適切ナル計画ナルヘシ。故ニ本件ハ免許可然(しかるべき)モノト認メラルヽモ、起点ヲ適当ナル地点ニ於テ国有鉄道ト連絡シ、其ノ機能ヲ増進スル様、線路系絡ヲ更正セシムル要アリト認ム。仍(よっ)テ特ニ之カ条件ヲ附シ、伺案ノ通処理セムトス。


図4 阪和電気鉄道が開通した状態の和歌山駅とその周辺。街外れにあった現在の和歌山駅は当時東和歌山と称していた。状況は昭和9年であるが、発行が阪和の国有化後なので「阪和線」という表記になっている。1:25,000「和歌山」昭和9年修正(同22年発行)

 阪和間を直接結ぶ路線としては南海鉄道(難波〜和歌山市)がすでに存在しているが、現在すでに輸送力の限界に近づいている。さらに国鉄紀勢線(紀勢西線)が今後和歌山以南に開通すれば、特に貨物輸送は激増することが予想され、南海だけでは需要を満たすことができない。そこでこの阪和電気鉄道が適切な地点で国鉄と連絡することにより、その機能を増進することが期待される、という。従来は「並行線」を二重投資だとして回避するよう行政指導を行なってきた鉄道当局だが、工業国家への脱皮を急激に遂げつつあった当時の日本の状況を背景に、輸送量が逼迫すると考えられる区間については積極的に認可する方針を示していたのである。要するに時期や個々の状況でケースバイケース、裁量の幅は広かったということだ。
 大正12年(1923)7月10日の免許取得を受け、着工に向けて工事施行認可申請を行なおうとした矢先、関東大震災が東京を襲い、日本の経済界は大きなダメージを受けた。阪和が翌13年5月19日に提出した「地方鉄道法第十三条ニ依ル認可申請期日延期願」の一部を次に掲げよう。

 (前略)御許可後直(ただち)ニ発起人総会ヲ開キ、創立委員ノ選定、株式募集其他ノ事務ヲ着々進メツヽアル折柄、関東地方ノ大震災ニ遭遇シ、之レガ為一般経済界ハ一時震慄スベキ状態ニ陥リ、既設事業ト雖(いえど)モ甚シク打撃ヲ蒙(こうむ)リ、殊ニ新規計画中ノ事業ノ如キハ孰(いず)レモ蹉躓(さち=つまずき)ヲ来(きた)シ、殆ンド其成立不可能ノ状態ニ立至リ申候。(後略)

 この震災では東京駅の隣、現在の丸の内トラストタワーと鉄鋼ビルの位置にあった鉄道省の建物も焼けてしまい、阪和でも申請書類や図面などを大正13年(1924)7月31日に再提出している。これを申請中の他の鉄道会社もそれぞれ提出したであろうから、対応する鉄道会社も官僚たちも、さぞ大変な思いを味わったことだろう。最終的に大正15年(1926)7月8日に鉄道工事施行認可申請書が提出された。「工事方法書」の主な箇所を掲げれば以下の通りである。

  工事方法書
一、動力 電気
二、軌間 三呎六吋〔約1067ミリメートル〕
三、単線、複線等ノ別、其区間 全線複線トス
四、軌道ノ中心間隔 十二呎二吋〔約3.71メートル〕以上トス
五、建築定規及車両定規 別紙第十二号図ノ通リトス
六、最小曲線半径 二十鎖〔約402.3メートル〕
七、最急勾配 四十分ノ一〔25パーミル〕
(中略)
十一、軌条、転轍機、轍叉及枕木
 (イ)軌条ノ重量 
  本線 一碼(ヤード)ニ付百封度(ポンド)〔約50キロレール〕 
  側線 一碼ニ付六十封度〔約30キロレール〕
〔以下略〕


 最小曲線半径が402メートルと大きいのは、当時の電気鉄道の高速化を反映したもので、カーブだけで言えば戦後の「日本国有鉄道建設規程」の中でも最上級の「特別甲線」にあたる。しかもその400メートルが適用されているのは天王寺駅を過ぎたカーブの一部と、和泉山脈越えの信達(現和泉砂川)駅以南だけで、大半の区間は直線または半径1000メートル以上のカーブであり、かなりの高速走行を可能とする設計であった。


図5 かつての起点・田辺町(現阪和線南田辺駅付近=線が途切れた地点)から国鉄に連絡すべく天王寺まで申請された線路。赤の実線は大阪鉄道(現近鉄南大阪線)、東へ延びる赤破線は未成に終わった免許線 鉄道省文書「阪和電気鉄道」巻二 昭和2年 国立公文書館蔵


図6 市街地が連続する南海鉄道の沿線とは対照的に、人家の疎らな「山の手」を走る岸和田付近の阪和電気鉄道。その代わり線形は良好なので、戦前のスピード記録を誇る「超特急」がこの線路を駆け抜けた。1:50,000「岸和田」昭和10年修正

 なお免許の条件として付された「国鉄線に接続」は従来の起点・田辺町(大阪市住吉区南田辺町)から天王寺駅(大阪市住吉区天王寺町=当時)に至る延長線1マイル38チェーン(約2.37キロメートル。実際には約1マイル55チェーン)とされ、この区間は元号が改まった昭和2年(1927)3月19日に免許を得ている。なお、細かいことを言えば天王寺駅から城東線を跨いだあたりまでの短区間(0マイル47チェーン=約0.95キロメートル)は大阪鉄道の前身・南大阪電気鉄道が大正13年(1924)3月7日に取得した免許を譲渡されたものだ。天王寺駅の南北に並行した同社の予定線路のうち北側は不要ということで阪和に譲ったのであるが、大阪阿部野橋駅から東へ向かう路線は結局未成に終わっている。

●阪和電気鉄道の開業
 昭和4年(1929)7月18日、阪和天王寺(現天王寺)駅から和泉府中駅までの本線と鳳(おおとり)〜阪和浜寺(現東羽衣)間が開通した。「阪和電気鉄道阪和天王寺和泉府中 々浜寺支線工事竣功監査報告」に添付された「建設工事概要」から停車場一覧(停留場も含む)を次に掲げる。所在地は昭和9年12月15日現在の鉄道省『鉄道停車場一覧』で大字名を補った(大字なしの町村もあり)。

名称      所在地            測量哩〔 〕内はキロメートル換算
<本線>
阪和天王寺   大阪市天王寺区堀越町     0哩10鎖11.2節〔0.20〕
南田辺     大阪市住吉区南田辺町     1哩54鎖88.8節*〔2.71〕
臨南寺前    大阪市住吉区西長居町     1哩19鎖11.2節*〔4.71〕
杉本町     大阪市住吉区杉本町      2哩45鎖11.2節*〔6.84〕
仁徳御陵前   大阪府泉北郡百舌鳥(もず)村 5哩13鎖11.2節*〔11.02〕
         夕雲開(せきうんひらき)
上野芝     大阪府泉北郡踞尾(つくの)村 6哩03鎖11.2節*〔12.43〕
鳳       大阪府泉北郡鳳(おおとり)町 7哩58鎖14.5節*〔15.15〕
         北王子(きたおうじ)
信太山     大阪府泉北郡伯太(はかた)村 10哩30鎖14.5節*〔19.41〕
         池上(いけがみ)
和泉府中    大阪府泉北郡国府(こくぶ)村 11哩26鎖14.5節*〔20.94〕
         府中
<浜寺支線>
鳳       大阪府泉北郡鳳町北王子    0哩02鎖14.5節〔0.04〕
阪和浜寺    大阪府泉北郡高石町羽衣    1哩01鎖75.0節〔1.64〕

*距離は歴史的な経緯から阪和天王寺以外の駅は南田辺起点の数値が記されているが、煩雑なので引用者が「キロメートル換算」の欄で天王寺起点の数値に補正した。現在の駅名と異なるものは阪和天王寺(天王寺)、臨南寺前(長居)、仁徳御陵前(百舌鳥)、阪和浜寺(東羽衣)


図7 南海鉄道が明治期からリゾート開発を手がけていた浜寺公園に殴り込みをかけた形の阪和電気鉄道浜寺支線は、どう見てもあからさまな「侵略線形」。1:50,000「大阪西南部」昭和7年要部修正

 和歌山へ到達する以前に浜寺支線を先に開通させた目的は、開業の7月18日という日付でもわかる通り、夏休みの海水浴客の取り込みであった。阪和浜寺駅は南海鉄道の羽衣駅のすぐ隣で、南海が長年にわたって投資し、リゾート地として開発したエリアのお客を横取りしようとする、ずいぶんとあからさまな線形である。
 和泉府中駅まで開業した翌昭和5年(1930)6月16日には終点の阪和東和歌山(現和歌山)駅まで全通を果たしている。なお、その時の竣功監査報告が文書に綴じられていなかったので、前出の『鉄道停車場一覧』から所在地・営業キロとともに和泉府中〜阪和東和歌山間の当時の駅一覧を次に掲げた(町村名は昭和5年現在)。なお、昭和5年4月1日からは鉄道の距離表記にキロメートルが採用されることとなり、公文書にもそのように記されるようになっている。

名称      所在地                 天王寺起点のキロ程
和泉府中    大阪府泉北郡国府(こくぶ)村府中    20.9
久米田     大阪府泉南郡八木(やぎ)村大町     23.9
土生郷     大阪府泉南郡土生郷(はぶごう)村土生  26.5
和泉橋本    大阪府泉南郡南近義(こぎ)村橋本    30.0
熊取      大阪府泉南郡熊取(くまとり)村大久保  32.9
日根野     大阪府泉南郡日根野(ひねの)村日根野  34.8
長滝      大阪府泉南郡長滝(ながたき)村     36.2
新家      大阪府泉南郡新家(しんげ)村新家    38.5
信達      大阪府泉南郡信達(しんだち)村牧野   40.5
山中渓     大阪府泉南郡東鳥取村山中        45.2
紀伊      和歌山県海草(かいそう)郡紀伊村北野  53.2
六十谷(むそた)和歌山県海草郡有功(いさお)村六十谷  57.1
阪和東和歌山  和歌山県和歌山市吉田          61.2

*現在の駅名と異なるものは土生郷(東岸和田)、信達(和泉砂川)、阪和東和歌山(和歌山)。町村の後に大字名の記載がないものは当時大字が存在しなかったもの。


図8 阪和電気鉄道の沿線案内図。海側に並行しているはずのライバル・南海鉄道は、まるで存在しないかのように消されている。当時の沿線案内図では競合他社の路線を無視することは珍しくなかった。『沿線御案内』阪和電鉄 昭和9年(1934)〜11年の発行と推定される

●阪和と南海のスピード競争
 阪和電気鉄道は、最初の開業からわずか11年後の昭和15年(1940)12月1日に南海鉄道に合併されて消え、その後は同19年に国有化されて阪和線となった。このため歴史としてはごく短期間であったが、その間の高速運転ぶりは一世を風靡したものである。それでも最初のうちはそのスピードも遠慮がちであった。まずは全線開業時に阪和間を65分で結ぶ急行列車を走らせている。途中停車駅は鳳のみで、これが下り21本、上り22本と本数は多く確保した。
 これに対する南海鉄道の対抗策は迅速で、阪和の開業からわずか5日後の昭和5年(1930)6月21日から、難波〜和歌山市間を60分ちょうどで結ぶ特急列車をデビューさせ、これを1日15往復走らせたのである。途中の停車駅は龍神〔堺付近〕、浜寺公園、岸和田、佐野〔現泉佐野〕であった。さらに急行も停車駅を減らして従来の90分から75分に短縮、運賃も1円から96銭に値下げした(阪和も96銭)。このスピードアップに備えてモハ301系の半鋼製20メートルの大型車を投入している。
 南海より市街地から離れた内陸側を走る阪和電気鉄道としては、スピードで南海に負けていては存在意義がないため、そこから本気で時間短縮に挑むこととなった。開業わずか3か月半の10月1日には第一次スピードアップとして急行の所要時間を10分縮めて阪和間を55分とし、翌6年7月9日からは第二次でノンストップ特急を新設、これを一挙に48分とした(21往復の急行のうち6往復を特急化)。さらに第三次として昭和8年(1933)12月20日からは「超特急」を新設、ついに阪和間を45分とした。これが戦前の定期列車としてのスピード記録である。
 ちなみにこの表定時速81.6キロメートルは、戦後の昭和34年(1959)に東海道本線に登場した電車特急「こだま」が東京〜大阪間を6時間40分(表定時速83.5キロ)で走破するまで、戦争を挟んだとはいえ約四半世紀の間、抜かれることはなかった。

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

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