第27回 南海電気鉄道(7)

●スピード競争から居住性へ
 南海鉄道の山側に沿って阪和天王寺(現天王寺)〜阪和東和歌山(現和歌山)間を開業した阪和電気鉄道。その看板列車である超特急は61.2キロメートルをわずか45分で走破する、戦前では最速のスピードを誇る駿足ぶりを見せつけた。これに対して明治期に全通を果たした南海鉄道の方は、それほど線形が悪いわけではないけれど、最初から高速仕様の相手とは対等に戦えない。そこで登場させたのが冷房車であった。
 南海では、阪和電気鉄道が部分開業する昭和4年(1929)を期して新造した20メートル級の大型鋼製電車2001形(当初はモハ301形)を投入し、難波〜和歌山市間の64.4キロメートル(阪和より5パーセントほど長い)を特急でちょうど60分の所要時間で走破した。しかし速度の差は歴然としているため、経営陣は冷房車の投入を決意する。『南海電気鉄道百年史』の巻末年表によれば、昭和11年(1936)7月19日に「わが国で初めて冷房電車運転」とあるが、車両は件の2001形に大阪金属工業(現ダイキン工業)製の冷房装置を付けたもので、重量は2.5トンに及んだ。消費電力はかなり大きなものがあったが、乗客には好評であったという。次の表は翌年さらに増備された8両の冷房車に対する鉄道省の竣功監査報告書に掲載された「測定成績表」である。

冷房電車温度及湿度測定成績表 12-6-23(昭和12年6月23日か)天候 雨後曇

測定場所 外 気   No.2004       No.2804
          乾球 湿球 湿度    乾球  湿球   湿度 乾球  湿球  湿度
難 波       −  −  −      18   13.5  60% −   −   −
龍 神       26  24  85%   19   14.5  62% 18  14  65%
浜寺公園      27  24.5 82%   18.5  14   61% 19.5 15  59%
羽 衣       −  −  −      18.5  14   61% 19  15  66%
大 津       −  −  −      18.5  14.5  65% 19  15  66%
岸和田       27  24  80%   18   14   65% 18.5 14.2 62%
貝 塚       27  24  80%   18   13   58% 18  13.8 59%
佐 野       25.5 22.5 80%   18   13.2  60% 18  13  58%
箱 作       26.5 24  80%   18   13   58% 18  13.5 60%
孝 子       27.5 24  80%   18   13   58% 18  13.5 60%
紀ノ川       28.5 25.5 80%   18   13   58% 18  14  63%

平 均       27  24  80%   18.2  13.6  62% 18.5 14.1 62%

備考 各車室内温度ハ客室中央部柱中部ニ吊セル乾湿寒暖計ノ指示ニシテ、室外温度ハ最後部車外隅柱ニ吊セル寒暖計ノ指示トス。


図1 昭和12年(1937)頃の南海鉄道の沿線案内図。前回ご紹介した阪和電気鉄道の図と同様、こちらにもライバル・阪和の姿は見えない 『沿線案内』南海鉄道 昭和12年頃

 試験とはいえ、現代の常識からすれば震え上がりそうな室内温度(表はもちろん摂氏)が実際に保たれていたかは不明だが、『百年史』によれば、非冷房車を避けて冷房車を待つ人が多かったためかなり混雑し、場合によっては冷房車の方が暑かったこともあるといった記述から、実際にはこれほどの低温ではなかったと思われる。冷房車が大手私鉄の通勤列車に本格的に浸透していくのは昭和50年代からなので、ずいぶんと早期の導入だった。ちなみに当時は一般人が経験できる冷房空間といえば百貨店内くらいのものだったという。添付された「車両表」によれば、いずれも日本車輌製造の電動機付2001形で46.0トン、モータなしの附随車2801形で39.0トンと、今どきのステンレス車両などよりだいぶ重量級である。定員はそれぞれ142人。

●冷房は消えて戦時体制へ
 好評だった冷房車が登場してやっと2年目にあたる昭和12年(1937)には日中戦争が始まる。宣戦布告なしの戦闘開始であったため、当時は支那事変または日支事変と称した。日本国内は徐々に戦時体制に向けて動き始めるが、石油の多くを「仮想敵国」たるアメリカからの輸入に依存していた日本のエネルギーの見通しは厳しく、節約の空気が世を覆うことになった。そんな中で冷房などという「贅沢」はまっ先に槍玉に挙がり、南海鉄道でもこの年を最後に冷房サービスを停止、重い機器は取り外している。
 昭和12年といえば、地形図の世界では軍機保護法の改正に伴って「戦時改描」が実施されるようになった。たとえば図上の軍施設や戦略的に重要な工場、操車場、発変電所、ダムなどが、畑や住宅地などに擬装されるようになったのである。この年の9月には、国内の資金の流れを効率よく戦争に振り向けるために「臨時資金調整法」が施行されている。戦争遂行にとって重要と認められる事業に手厚く資金を供給し、反対に不要不急とされる対象への資金の流入を制限するためだ。国家による統制経済の色がこの頃から濃くなっていく。
 国家の「軍事シフト」を反映して、昭和10年代から特に大都市圏郊外で大規模な軍需工場の立地が目立つようになり、これに伴って南海鉄道でも電車の混雑が目立って激しくなってきた。そこで同法の適用を受けるべく昭和14年(1939)に申請を行なっている(提出日付不詳)のだが、この時の文書に当時の状況がよく表われているので次に引用しよう。

  臨時資金調整法施行細則第十条ニ依ル
   事業設備拡張ニ関スル説明書

一、会社ノ住所及名称〔略〕
二、会社ノ資本金及払込資本金〔略〕
三、事業設備拡張ニ関スル計画及其予算ノ大要並ニ資金調達方法
 計 画 現有車両ト同一設計ノ電動車拾両及制御車拾両計弐拾両ヲ増設シ、鉄道本線ニ使用ス。
 予 算 総額金壱百六拾五万円也〔内訳略〕
四、事業設備拡張ヲ必要トスル事由
 弊社営業線路ハ生産都市大(だい)大阪ノ中枢地域ヲ起点トシ、鉄道本線、高野線、軌道線、三線何レモ一部重工業製造工場ノ密集セル大阪市南部及(および)之ニ近接セル堺市ヲ縦貫或ハ横断シ、沿線市町村ノ発展目覚シク、特ニ時局関係工業ノ勃興ニ至リテハ、都市地域、農村地域ヲ通ジ益々顕著ニシテ飛躍的ニ殷盛トナリ、重工業製造工場ノ膨大ナル拡張頻々(ひんぴん)ト行ハレ、大小ノ新設工場群立枚挙ニ遑(いとま)ナク、家屋ノ増築等ノ著シキハ衆知ノ事実ナリ。
 此ノ現象ハ堺市方面ニ於テ特ニ著シク、尚岸和田市、大津町〔現泉大津市〕方面ノ軍需工場又ハ時局関係工場ノ新設及増設セラルヽモノ甚ダ多ク見受クル所ナリ。
 輓近〔ばんきん=近頃〕鉄道運輸繁忙ハ普遍的趨勢ニシテ、前述ノ影響ニ基因シ、弊社ニ於テモ其例ニ洩レズ恵沢ニ浴シ、一途ニ上昇過程ヲ辿リ、其交通量ハ添付調査図ニ示ス如ク、昭和十三年上半期ヨリ躍進的ニ増加シ、毎年下半期ニ於ケル減少ノ前例ヲ打破リ、昭和十三年下半期ニ至リテハ、尚一層激増ノ数字ヲ現示セリ。
 之ハ(これは)ガソリン統制強化ニ依ル「バス」運輸機能減殺(げんさい)ニ基キ一層拍車ヲカケラレ、電車ニ於テ「ラツシユ、アワー」ニテ其混雑特ニ著シク、弊社ニ於テハ極力運輸機関ノ最大能力ヲ発揮シ得ル様、鋭意努力スル所ナルモ、現有車数ニテハ到底過剰輸送ヲ不満ナカラシムル能ハザル状態トナレリ。


 ここでバスの運行に支障をきたしたという「ガソリン統制」は、満洲事変以来の日本に対する国際社会の厳しい姿勢の反映で、この申請が提出された翌年の昭和15年(1940)からはアメリカによる日本への石油の輸出が段階的に制限される。鉄道分野では、非電化線での利便性を上げて好評だった気動車の運行が大幅に制限されるなど影響は大きかったが、同16年には最終的に石油の全面禁輸に至り、その年の暮れには追い詰められた日本が「窮鼠猫を噛む」が如き対応、すなわち真珠湾攻撃へとなだれ込むのは周知のことである。
 なお、次の写真はこの文書に隣接して綴じられていたもので、住吉公園〔現住吉大社〕駅と難波駅の朝ラッシュ時らしい風景である。このうち住吉公園駅の方はキャプションが「午後9時」になっているが、明らかに明るいから午前であろう。いずれにせよホーム上は立錐の余地のないほどの混雑ぶりだ。



図2 ラッシュ時の混雑ぶりの証拠として提出されたらしい住吉公園、難波両駅の写真。鉄道省文書「南海鉄道」巻三十(昭和14年)国立公文書館蔵

 〔承前〕尚吾精鋭ナル軍関係ニ就キ考察スルニ、泉北(せんぼく)伯太(はかた)ニ(に)野砲聯隊(れんたい)、堺市東郊ニ騎兵聯隊、和歌山市終端ニ近接ノ深山(みやま)重砲、尚軍療養施設トシテハ堺市東郊ノ金岡(かなおか)病院、泉南ノ将兵療養所、遠クハ完通セル紀勢西線沿線白浜ノ陸軍療養所等設立サレアリ、住吉ニ大阪護国神社ハ造営中ニシテ、弊社運輸機関ノ利用益々顕著トナレリ。
 其他高野線ニ武運長久戦捷(せんしょう)祈願、護国ノ英霊ノ慰安ヲ旨トシ、参詣者絶エザル霊峰高野山ヲ有シ、曠古〔前代未聞〕ノ忠臣楠公(なんこう)父子ニ最モ由緒深キ金剛山、観心寺ニ依リ、日本精神発揚ノ運動益々活溌トナリ、或ハ厚生省ノ意志〔ママ〕ニ応ヘル「ハイキング」施設ノ好適ナル山岳平野ノ多々存在スル等、列記ナレバ繁雑ニ堪ヘザル所ナリ。
 更ニ近キ将来ノ計画ニ就キ考察スルニ、鉄道本線泉南ノ地深日(ふけ)〔現泉南郡岬町〕ニ約三十万坪ノ敷地ヲ擁シ、海軍工廠ノ設立、或ハ高野線百舌鳥(もず)村ニ生産力拡充ノ完壁〔ママ〕ヲ期スル一策トシテ大阪高等工業学校〔官立。現大阪府立大学工学部の前身のひとつ。堺市中区〕ノ設立決定ヲ見、尚同沿線ニ陸軍学校ノ設立ヲ見ル現状ニアリ、就而(ついては)将来弊社鉄道運輸機関ハ刮目(かつもく)ニ値スル輸送状態ヲ現出スルニ至ルベク、現在既ニ行詰レル輸送機関ヲ更生セシメ、尚此儘(このまま)ニ放置シ、増車ナサザレバ、交通機関ノ重大使命ノ完全遂行ヲ期シ得ザルニ至ル。近キ将来トノ両方面ニ深甚ナル考慮ヲナシ、茲(ここ)ニ鉄道本線ニ電動車拾両、制御車拾両、計弐拾両、及高野線ニ制御車五両、合計弐拾五両ヲ新造シ、現在将来ヲ通ジ円滑ナル輸送ヲ行ヒ、後顧ノ憂(うれい)ナカラシメントスルモノナリ。

  乗客増加状況〔算用数字に直した〕
年度      乗客数      増加数(対前年)
昭和8年度   61,680,500人  4,099,200人
昭和9年度   64,728,100人  3,047,600人
昭和10年度   66,686,900人  1,958,800人
昭和11年度   70,192,400人  3,505,500人
昭和12年度   74,230,600人  4,038,200人
昭和13年度上 *39,804,200人 1,493,400人
昭和13年度下 *40,045,759人 4,125,883人
〔昭和13年渡計 79,849,959人  5,619,283人〕


図3 昭和元年から同13年までの乗客数などの変動を示すグラフ。定員数、車両数、走行粁(キロメートル)とともに乗客数(赤線)が右肩上がりであることがわかる。鉄道省文書「南海鉄道」巻三十(昭和14年)国立公文書館蔵


図4 和歌山市の紀ノ川右岸に位置する松江には、昭和17年(1942)に住友金属工業和歌山製鉄所(現新日鐵住金和歌山製鐵所)が進出した。1:50,000「和歌山」昭和33年要部修正

 当時は首都圏でも「相模原軍都計画」に象徴されるように陸軍士官学校や通信学校といった軍施設の拡張に伴う郊外移転が盛んに行なわれていたが、関西でもここに言及されているような動きがあった。このうち深日(ふけ)の30万坪(約1平方キロメートル)に及ぶ敷地に建設されようとしていた「海軍工廠」は、実際には潜水艦などを専用に建造する造船所として川崎製鉄(現JFEスチール)の泉州工場が建設された。
 面積の方は計画通りにいかなかったようで、敗戦直後の空中写真などで確認するとその半分ほどであろうか。それでも巨大工場には変わりなく、従業員の輸送のため南淡輪(みなみたんのわ・現みさき公園)駅から深日港(ふけこう)を経て多奈川に至る支線(現多奈川線)が建設された。開業は昭和19年(1944)6月1日で、資材不足が深刻であったこの時期に建設される路線といえば、ほぼ軍用に限られていた。
 ただし支線敷設の免許申請は昭和14年(1939)に提出されており、だいぶ時間がかかった印象である。申請書類に添えられた大阪府知事からの「副申」は次の通り。

道第一三三五号
   地方鉄道敷設免許申請ニ付副申
 南海鉄道株式会社ヨリ標記ノ件、別紙ノ通申請ニ依リ調査候処、右ハ府下泉南郡多奈川村地内ニ今回海軍重要施設ヲ設置セラルヽコトヽ相成候ニ付、本願鉄道ヲ敷設シ、之カ施設地ト後方トノ交通連絡ヲ図ラムトスルモノニ有之、而シテ本鉄道ヲ敷設スヘキ深日(ふけ)、多奈川両部落ハ現在人家数百戸ノ一漁村ニ過キサルモ、該重要施設々置(せっち)ノ暁ニ於テハ顕著ナル発展ヲ来スヘク予想セラルヽヲ以テ、本鉄道ハ之カ交通上並ニ特ニ軍事上緊切ナル施設ト被認(みとめられ)候ニ付、左記御考慮ノ上御免許相成様(あいなるよう)致度(いたしたく)願書及進達候也。
  昭和十四年十月十一日
    大阪府知事 半井(なからい)清
鉄道大臣 永井柳(りゅう)太郎殿


図5 多奈川線の敷設免許申請書類に添付された計画路線(緑色の線)。本線からの分岐地点(深日信号所)には昭和13年(1938)に南淡輪(現みさき公園)駅が設置されたはずなので、図はそれ以前のもの。新深日停車場は開業時の深日町駅で、町から遠かった本線の深日駅はこれに伴って貨物駅となり、昭和20年(1945)6月11日に休止、同23年に廃止された。鉄道省文書「南海鉄道」巻三一(昭和15年)国立公文書館蔵


図6 開通後の多奈川線とその沿線。深日〜多奈川の海岸が埋め立てられて軍需工場(川崎重工業)となった。1:25,000「淡輪」昭和22年修正同33年資料修正

 話は昭和15年(1940)に遡るが、この年の12月1日に南海鉄道は強力なライバルであった阪和電気鉄道を吸収合併する。『南海電気鉄道百年史』では「昭和十五年にいたって、鉄道当局は、両社の競争は経営基盤をあやうくする恐れがあり、運転保安上も問題であるとの見地から合併を働きかけた」と、この合併が鉄道当局の意向であったことを明記している。昭和15年(1940)8月21日付の「会社合併認可申請書」に記された合併の事由は次の通り。

合併ノ事由
 本邦ニ於ケル交通事業ハ、我国力ノ発展ニ伴ヒ近年著シク発達シタルモ、都心ニ通ズル鉄道、軌道等平行線ノ蔟出(そうしゅつ=簇出)スルニ及ビ、動(やや)モスレバ事業相互ノ連絡統一ヲ欠キ、併立競争ノ弊ヲ生セシメルニ至リ、其ノ結果ハ資本ノ浪費トナリ、国家的ニモ洵(まこと)ニ不経済不合理ト申スベキ実状ニシテ、之ガ是正ノ必要ハ今更申ス迄モナキ儀ナルガ、殊ニ目下支那事変ノ処理ト国際状勢ニ対処シテ高度国防国家建設ノ為メ、其ノ必要ハ一層緊要必至ノ情勢ト認メラレ候。
 茲(ここ)ニ於テ起終点ヲ大阪市、和歌山市ニ有スル南海鉄道株式会社ト阪和電気鉄道株式会社ノ両社ヲ合併シテ、併立競争ニ依ル弊ヲ除去スルハ勿論、進ンデ一層経営ノ合理化ヲ図リ、沿線ノ開発ト産業文化ノ発展ニ寄与シ、更ニ将来ニ於ケル施設ノ整備、改良ニ対シ資本ノ強化ニ資セントスルモノニ有之、最近ニ於ケル両社ノ業績其他ノ事情ヨリ考察スルモ、現在ガ最モ適当ナル合併ノ時期ト思考セラルヽ次第ニ御座候。


図7 3年半しか存在しなかった南海山手線(旧阪和電気鉄道)の載った路線図。地図会社も戦時統合されて日本統制地図という会社が発行している。『鉄道旅行図』著作・駸々堂書店 発行・日本統制地図 昭和16年

 当時は「支那事変」をめぐる国際情勢に対処するために、交通分野での国家の介入度合が徐々に強まってきたが、昭和13年(1938)に施行された陸上交通事業調整法に基づき、南海と阪和の合併は同15年12月1日に実施された。これに伴って阪和電気鉄道は「南海鉄道山手線」となるが、昭和17年(1942)2月15日にはライバル他社ゆえに素通りしていた南海高野線と阪和電気鉄道線(南海山手線)の交差地点に三国ヶ丘駅が設けられている。
 しかし山手線と呼ばれた時期は短く、合併からわずか3年半後の昭和19年(1944)5月1日、同線は国に強制買収された。和歌山方面の製鉄所や化学工場などが多く立地し、戦略的重要性に基づくものであったが、『南海電気鉄道百年史』に「買収の形式は、地方鉄道法第三十条以下によるものだが、実質は国家総動員法をタテにしたものであった。何の予告もなく電報一本で代表者が呼び出され、買収を申し渡された」とあるように、まさに有無を言わさぬものであったようだ。
 かつて明治39年(1906)に鉄道国有法が施行された際、一旦は国有化の対象に挙げられながらも、時の政局によりそれを免れた南海であるが、その後に登場した阪和電気鉄道のきわめて良好な第一級の複線電化線を、国家としていずれ獲得する意向であったことは想像に難くない。それを好機到来とばかりに「非常時」に行なった形である。買収価格は約6389万円であったが、もちろん非常時ゆえの戦時公債。戦後にこれが紙屑になったのは言うまでもない。結果的には南海鉄道にとってずいぶんと高い買い物であった。
 その南海鉄道も阪和の買収からちょうど1か月後の昭和19年(1944)6月1日、戦時統合の国策の下、やはり陸上交通事業調整法により関西急行鉄道(以前の大阪電気軌道・参宮急行電鉄などが合併)と合併、近畿日本鉄道の一部となる。「南海」が近鉄から独立したのは戦後の昭和22年(1947)3月15日、合併を免れていた高野電気鉄道を改称する形で、新たに南海電気鉄道が戦前の路線(もちろん山手線以外)を復活させた。

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行った。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

ジャンル

シリーズ

  • webふらんす
  • 特集マルグリット・ユルスナール
  • エクス・リブリス
  • ニューエクスプレス
  • ライ麦畑でつかまえて
  • キャッチャー・イン・ザ・ライ
  • 白水社創立百周年