第28回 近畿日本鉄道(1)

●生駒山地を抜けて大阪〜奈良を結ぶ電車
 新幹線の上り「のぞみ」で新大阪駅を出てほどなく、右手遠方に連なる穏やかな稜線が生駒(いこま)山地である。南北に向いたこの山地は大阪平野の東縁を限っており、その向こう側は奈良県の大和盆地。地理の教科書では「断層山地」の典型として紹介されたが、要するに大地が東西から押し合った結果、東の地盤が西へ乗り上げた。南北35キロメートルにも及ぶ大きな逆断層が作り上げたものである。
 このため山を越えるいくつかの峠道のいずれも西側が急峻だ。奈良県在住の友人と一緒に暗越(くらがりごえ)奈良街道を歩いた時も、坂道が緩い東側から歩きましょうと貴重なアドバイスを受けたものである。山から西ヘ流れる川はいずれも急勾配であるため、特に江戸時代後期に入って水車が多数設けられ、その動力を利用した伸銅業が発展した。現在でも生駒山地西側の東大阪市に金属加工業の会社や工場が集中しているのもそんな歴史が背景にある。
 大和と河内の国境をなすこの生駒山地が障壁として立ちはだかるなか、大阪と奈良の町を結んだ鉄道は明治23年(1890)の大阪鉄道(後の関西鉄道、現JR関西本線)が最初で、生駒山地の南側を大和川沿いに迂回して奈良〜湊町(現JR難波)間を結んだ。そしてもう1本、大阪の片町を起点に山地の北側を迂回する浪速鉄道(現JR片町線)が、明治31年(1898)に奈良の北隣の木津駅まで開業している。
 これに加え、明治39年(1906)の5月から7月にかけて、前記2路線が避けた生駒山地を通って大阪と奈良をまっすぐ結ぶ電気鉄道の特許申請が3件提出された。この年はちょうど阪神電気鉄道が開業し、そのスピードと待たずに乗れる利便性が注目された翌年にあたる。電車がこれだけ便利な乗り物であることが巷間に知れ渡ったからには、各地で電気鉄道・軌道の敷設計画が叢生するのも当然の成り行きだろう。


図1 大阪と奈良の間に聳える生駒山地。旧来は関西本線が山の南側を経て両都市を結んでいたところを、大阪電気軌道(現近鉄奈良線・細い「軌道記号」で描かれている)は長大な生駒トンネルで近道させた。1:200,000帝国図「京都及大阪」大正8年製阪+「和歌山」大正9年製版


図2 江戸後期からの伸銅業の隆盛を物語る辻子谷(ずしだに)の水車群。これほど水車が密集した場所が他にあるだろうか。図は大阪電気軌道が開業する以前で、辻子谷は現石切駅付近から遡った場所。1:20,000「生駒山」明治41年測図

 これら3社は管轄の大阪府と奈良県の勧告で合同することとなり、同じ年の12月3日に「奈良電気鉄道株式会社」が設立されている。同社の特許申請書によれば大阪市東区上本町(うえほんまち)六丁目154番地を起点に暗越奈良街道を東進し、奈良市三条町24番地に至るもので、当初の目論見では生駒山地を越える暗越の区間にはケーブルカーを採用することとされた。建設予算は300万円。申請した翌年の明治40年(1907)4月30日に軌道の敷設特許を得ている。社名については私設鉄道条例ではなく軌道条例によることから同年6月に奈良軌道株式会社と変更した。
 生駒山地を経て阪奈間を結ぶには、もちろん大金をかけて長いトンネルを掘るのが最良であるが、そうでなければ何度もヘアピンカーブを繰り返す葛(つづら)折りの線路を敷くか、箱根登山鉄道のようなスイッチバック(当時まだ存在しない)などの方法が考えられる。しかし西側の最も急峻な地形に「普通の線路」を敷くのは、暗越を歩いた人なら実感できると思うが困難で、結論としてこの区間のみケーブルカー方式を採用することとなった。

●3割が路面区間だった当初の計画
 次はこの日に当局から受けた特許命令書の一部だが、これは敷設区間を道路上と新設軌道(専用軌道)に区別し、それぞれの起終点の地番を明記したものだ。当初の原本が簿冊に綴じられていなかったので、それ以外に「参照」として何か所かに一部転載された文書などを繋いで下に記してみた。
 各区間の冒頭は原文ではすべて「一」であるが、説明のため丸数字①②③……に改めている。なお区間の終端点と次の区間の起点はまったく同一なので、繁雑を避けるため②以降の起点の所在地表示は便宜的に〔前項〕と表示した。

内務省阪甲第六号 明治四十年四月卅日
  命 令 書
第一条 今般奈良電気鉄道〔最終的には奈良軌道〕株式会社発起人前田欣次郎他百四名ニ対シ特許シタル軌道ノ線路ハ左ノ如シ。
①奈良市三条町二十四番地ノ一地先ヨリ奈良県生駒郡都跡(みあと)村大字尼ヶ辻(あまがつじ)五百九番地先ニ至ル仮定県道
②〔前項〕ヨリ同県同郡伏見村〔現奈良市〕大字宝来(ほうらい)六十八番地ニ至ル新設軌道 
③〔前項〕ヨリ同県同郡同村同大字百九十四番地先ニ至ル里道 
④〔前項〕ヨリ同県同郡富雄(とみお)村〔現奈良市〕大字三碓(みつがらす)千七百八番地ニ至ル新設軌道
⑤〔前項〕ヨリ同県同郡北生駒村〔現生駒市〕大字菜畑(なばた)三百五番地先ニ至ル仮定県道
⑥〔前項〕ヨリ大阪府中河内(なかかわち)郡英田(あかた)村〔現東大阪市〕大字吉田字川島六百六十六番地ニ至ル新設軌道


 起点の奈良市三条町から尼ヶ辻まで仮定県道ということなので、現在の三条通をまっすぐ西進して近鉄橿原(かしはら)線の現尼ヶ辻駅付近を通り、そこから宝来までは暗越奈良街道(国道308号)にほど近い場所、さらに三碓までは阪奈道路にほぼ並行、そこから県道で椚(くぬぎ)峠を経由して菜畑(近鉄生駒線菜畑駅付近)へ出るらしい。
 その先の⑥の区間が生駒山地を越える新設軌道になるはずだが、詳しい経由地はわからない。菜畑からは生駒山地の最高峰である生駒山をわざわざ経由しないだろうから、徐々に南寄りにトラバースし、暗峠あたりから西ヘ下っていくのだろう。ケーブルを敷設するとすればこのあたりに間違いなさそうだ。申請書などによればケーブル線の勾配は「八分ノ一」すなわち125パーミルというもので、これでも暗峠西側の道路勾配よりはだいぶ緩い。なお⑥の終点の所在地である吉田は現東花園駅の北方である。


図3 開業翌年の大阪電気軌道が載った奈良付近の地形図。当初の軌道敷設申請書では国鉄奈良駅北方から西ヘ延びる暗越奈良街道(三条通)を進むルートであった。畝傍(うねび)支線(現近鉄橿原線)や奈良電気鉄道(現近鉄京都線)はまだない。1:50,000「奈良」大正4年鉄道補入

〔承前〕⑦〔前項〕ヨリ同府同郡玉川村〔現東大阪市〕大字稲葉字垣花六百三十四番地先ニ至ル仮定県道
⑧〔前項〕ヨリ同府同郡意岐部(おきべ)村〔現東大阪市〕大字菱江東(ひしえひがし)字花畑五百九十二番地先ニ至ル新設軌道
⑨〔前項〕ヨリ同府同郡同村大字新家(しんけ)字西ノ口十五番地先ニ至ル仮定県道
⑩〔前項〕ヨリ同府同郡同村大字御厨(みくりや)字敷地九百九十七番地ニ至ル新設軌道
⑪〔前項〕ヨリ同府同郡楠根(くすね)村〔現東大阪市〕大字川俣字海道下六百七番地先ニ至ル仮定県道
⑫〔前項〕ヨリ同府同郡高井田(たかいだ)村〔現東大阪市〕大字高井田字河原崎七百九十八番地ニ至ル新設軌道
⑬〔前項〕ヨリ同府東成(ひがしなり)郡南新開荘(みなみしんかいのしょう)村〔現大阪市東成区〕大字深江(ふかえ)字角田千百七十六番地先ニ至ル仮定県道
⑭〔前項〕ヨリ同府同郡同村大字深江字中大路下千百十番地ニ至ル新設軌道
⑮〔前項〕ヨリ同府同郡同村大字大今里(おおいまざと)字宝寺三十一番地先ニ至ル仮定県道
⑯〔前項〕ヨリ同府大阪市東区上本町六丁目〔現天王寺区〕百五十四番地先ニ至ル新設軌道

●峠越え区間にはケーブルカー方式
 『大阪電気軌道株式会社三十年史』(同社昭和15年)には前記の免許区間それぞれの距離が掲載されているので転載しておこう。もちろん①〜⑯の数字は引用者による便宜的な番号である(〔 〕内はキロメートル換算)。細かいことではあるが、文書によれば大阪府内でも当時は府道ではなく「県道」と称したらしい。

①県道 一哩十六鎖四十節〔1.94km〕
②新設 零哩七十七鎖二十節〔1.55km〕
③里道 零哩二十九鎖二十節〔0.59km〕
④新設 二哩七十五鎖三十節〔4.73km〕
⑤県道 一哩零鎖五十節〔1.62km〕
⑥新設 五哩五十五鎖二十節〔9.16km〕
⑦県道 零哩五十四鎖〔1.09km〕
⑧新設 零哩四十一鎖〔0.82km〕
⑨県道 零哩六十一鎖六十五節〔1.24km〕
⑩新設 零哩三十八鎖十節〔0.77km〕
⑪県道 零哩三十八鎖五十節〔0.77km〕
⑫新設 零哩二十七鎖二十五節〔0.55km〕
⑬県道 零哩三十八鎖二十節〔0.77km〕
⑭新設 零哩十六鎖四十節〔0.33km〕
⑮県道 零哩三十七鎖二十節〔0.75km〕
⑯新設 一哩四十九鎖九十節〔2.61km〕
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
合計  十八哩十六鎖〔29.29km〕
*現在の近鉄奈良線大阪上本町〜近鉄奈良間は30.8キロメートル。


 再び命令書の続きを引用する。軌条の項で「グルーブドガーダーレール」とあるのは、路面区間に用いられる溝付きレールのことだろう。また文中に何度か登場する「鋼網」は「鋼綱(ケーブル)」のことらしい。当時は「鋼索鉄道(ケーブルカー)」の語が定着していなかったのだろうか。

〔中略〕
第三条 原動力ノ方式ハ大阪市内ハ複線架空式、其ノ他ハ単線架空式トス。但(ただし)山間部ノ急坂路ハ鋼網〔ママ〕釣瓶(つるべ)式トス。
〔中略〕
第四条〔略〕
第五条
 一、〔略〕
 二、軌条ハ鋼鉄製「ステツプ」若(もしく)ハ「グルーブドガーダーレール」ヲ用ヰ(もちい)、其ノ重量ハ一碼(ヤード)ニ付七十封度(ポンド)〔約35キロレール〕以上トス。鋼網〔ママ〕釣瓶式ヲ用ヰル山間部急坂路ニハ、重量一碼ニ付六十封度〔約30キロレール〕以上ノ鋼鉄製工字形軌条ヲ用フヘシ。
 〔中略〕
 十、鋼網式釣瓶式ヲ用ヰル山間部急坂路ヲ外〔ママ〕クノ外、勾配ハ二十五分ノ一〔40パーミル〕ヲ超ユヘカラス。
 十一、〔以下略〕


図4 標高642メートルの生駒山を頂点とする生駒山地を貫いた大阪電気軌道の生駒トンネル(現在線より少し北側)とその周辺。当初の申請では南に見える暗峠付近で「鋼綱釣瓶式軌道(ケーブルカー)」の区間が想定されていた。1:50,000「大阪東北部」大正3年部分修正+「大阪東南部」大正3年部分修正

●生駒山北方を大迂回するコース
 生駒山地の西側はおおむね暗越奈良街道上もしくはこれに沿って西ヘ進み、屈曲部分は新設軌道という原則であったようだ。文書の中で急坂路に設置する「釣瓶式」と言及されたケーブルカーであるが、現在では一般の電車との間には天と地ほどの輸送力の違いがあるので、途中でケーブルに乗り換えるなどナンセンスに感じるかもしれない。
 しかし明治末の電車といえば1両編成が当たり前で、電車から乗り換える煩わしさはあったかもしれないが、現実的な選択肢だったのである。それでも、前掲の『三十年史』では「株主の不安を払拭するため」にもケーブルを用いない新たな迂回線を検討したとして、次のように記している(24ページ)。

 一方会社創立の準備は進捗して、〔明治43年〕六月三十日には株式の引受も満株に達し、その第一回払込金を七月二十五日限と定め、新秋九月には愈々(いよいよ)創立総会を開かうとするまでに進んだが、世間では、前に特許せられた線路中暗峠に軌道を敷設し、ケーブル式に拠(よ)らうとする計画を机上の空論とし、その完成は不可能であるとの風説を伝へるものがあつた。創立事務所としては、斯(かか)る風説のために不安を感ずる株式引受人のあることを慮(おもんぱか)り、七月九日事務の経過及び計画の状況等を報告する書中に、前記ケーブル式に依り車台を昇降せしむる工法は、決して不可能ではないが、たゞ乗換の不便が交通の渋滞を来たす虞(おそれ)ある故に、之を廃して同山麓より北方生駒山に沿ひ、その低鞍部を普通軌道によつて越すことにすれば、却つて乗客の便利であることを認め、目下適当なる線路を選定するために、実地測量に従事中である旨を告げ、また輸送力を充実して将来の発展に備へるために、前に特許を得た単線軌道を複線とし、県道などによらずに専用軌道に変更する計画であることをも知らしめた。

 ケーブルに頼らない路線として検討された甲・乙・丙の3ルートはおおむね次の通りであった。
〔甲〕現在の瓢箪山(ひょうたんやま)駅付近から生駒山地に沿って北上しつつ標高を稼ぎ、現在大東市の龍間(たつま)から山を越え、その後は南へ転じて生駒山地の東麓を現生駒駅方面へ勾配を下って富雄(とみお)村の丘陵へ向かう10マイル(約16.1キロ)。
〔乙〕甲線の龍間より少し南に位置する現東大阪市の善根寺谷(ぜんごんじだに)から山に入り、約1マイル30チェーン(約2.2キロメートル)のトンネルをくぐり、生駒山地の東麓を斜めに下って富雄村丘陵へ通じる9マイル(約14.5キロメートル)。
〔丙〕乙線よりさらに南側の日下(くさか)から約2マイル(約3.2キロメートル)の長いトンネルを抜けてまっすぐ富雄村丘陵への約7マイル半(約12.1キロメートル)。


図5 比較検討された3ルートのうち甲案は図の北端「龍間」付近を迂回する路線、乙案は実現した丙案と甲案の間を通るものであった。1:50,000「大阪東北部」大正3年部分修正

●先見の明あった岩下清周の決断
 甲は迂回して低い鞍部を越える、建設費は安価だが遠回りで急勾配、丙は大胆にも生駒山を貫く当時としては日本一であった中央東線(現中央本線)の笹子トンネルに次ぐ長大なトンネルを掘るというもので、こちらは近道で勾配も抑えられるが、莫大なトンネルの建設費がネック。乙は両者の中間という位置づけだ。
 その後の役員会ではそれこそ甲論乙駁の議論があったというが、最終決定を下す明治43年(1910)11月21日の役員会において、丙のトンネル案に決している。取締役の1人であった著名な実業家・岩下清周(後に大軌の第2代社長)が最も積極的にこのトンネル案を熱心に推したとされるが、『三十年史』には後の金森又一郎社長(昭和2年〜12年在任)が『岩下清周伝』で述べたという次の文言が引用されている。

 愈々工事に着手するに当つて、生駒山を越えるか、又は隧道(ずいどう)を貫通するかといふ問題で、社内の意見が纏(まとま)らず、此の両案〔甲と丙〕を比較研究の結果、隧道によつて貫通することに決したのであるが、其の際翁(岩下氏)は「之は断じて隧道とすべきものだ」と強硬な意見を主張され、其の他の建設工事にしても「最初にウンと金をかけて完全なものを建設せねばならぬ。之れが為三百万円の会社が六百万円の金を費(つか)つた処(ところ)で、夫(そ)れは敢て問題でない。要は後日に悔を残さぬことである」と極めて強く云はれ、今日大軌の工事が其の完全を誇り得る所以(ゆえん)のもの偏(ひとえ)にそれが為で、その達見には敬服せざるを得ない。

 鉄道当局には同年12月17日に一旦「甲」のルートで線路変更申請を行なっているのだが、その際に新設軌道と併用軌道が混在した旧来の特許線を、大半を専用軌道とするよう改めている。具体的には前掲の②から⑭の区間をひとまとめに「奈良県生駒郡都跡村大字尼ヶ辻五百九番地ヨリ大阪府東成郡南新開荘村大字深江字中大路下千百拾番地ニ至ル新設軌道」とした。この時の理由書は次の通り。

   理 由 書
 当会社軌道線路中、大阪府東成郡南新開荘(みなみしんかいのしょう)村大字深江字中大路下千百拾番地ヨリ七哩〔約11.3キロメートル〕ノ地点ニ至ル間ハ山間部ト接続上甚シク迂曲ノ線路ヲ形成スルノミナラス、従来新設軌道又ハ道路上ニ交々(こもごも)敷設スルノ計画ナリシカ為メ、処々(ところどころ)ニ線路ノ屈曲ヲ生シ、運転上安全ヲ保シ難ク、且(か)ツ将来線路ノ維持ニ多分ノ労費ヲ要スル恐レアルヲ以テ、是等ノ故障ヲ避クル為メ、特ニ軌道敷ヲ設ケテ線路ヲ敷設スルコトヽシ、運輸ノ安全ヲ計ラントスルモノニ有之(これあり)候。


 ①〜⑯のうち奇数の項目が路面区間を走る併用軌道であるが、その合計は全体の3割にあたる8.77キロメートルにも及び、しかも田舎道が大半を占めるため、屈曲して安全面からもスピードの点からも問題があるとして、大半を新設軌道に変更したのである。高速輸送機関として急速に存在感を増しつつあった当時の電気鉄道の姿が思い浮かぶ。なおこの申請の2か月前の明治43年(1910)10月15日付で奈良軌道株式会社は「大阪電気軌道株式会社」と商号変更を行なった。

●「製氷の適地」という寒冷地の心配
 大阪電気軌道では、この長大トンネルによるルートを実現すべく翌44年2月8日に再度の線路変更申請を行っているが、その申請書と理由書は次の通り。

   線路変更許可申請書
 明治四十年四月三十日内務省阪甲第六号ヲ以テ特許相受候御命令書第一条軌道線路中、別紙図面ノ通変更仕度(つかまつりたく)候間、御許可被成下度(なしくだされたく)図面并(ならびに)理由書相添此段申請仕候也。
 明治四十四年二月八日
   大阪市東区今橋三丁目二番地
   大阪電気軌道株式会社
    取締役社長 広岡恵三 印
内閣総理大臣侯爵 桂 太郎殿
内務大臣法学博士男爵 平田東助殿

   理 由 書
 当会社軌道線路中、生駒山間部ハ鋼綱式釣瓶(つるべ)式ニ依ルモノトシテ特許相受候得共(そうらえども)、平坦部ト接続上多大ノ不便アリ。且ツ急坂ヲ上下スルニ危惧ノ感ヲ抱カシムルノ懸念有之(これあり)候為メ、曩(さき)ニ御許可ヲ得テ釣瓶式ヲ廃シ、生駒山脈ノ北方ヲ繞(めぐ)リ、全線同一方式ノ電気軌道ニ相改メ候ニ付テハ、猶(なお)実施設計ニ際シ違算ナキコトヲ期シ、再三実測精査相遂ケ候処、右変更線ノ一部、即チ生駒山巓(さんてん)〔山頂〕ニ近キ部分ニ於テ大小延長約六十鎖〔60チェーン=約1.2キロメートル〕ノ隧道ヲ鑿(うが)ツノ設計トナシタルニ、尚三十分一〔33.3パーミル〕以上ノ急勾配総テ五哩五分〔約8.9キロメートル〕ニ亘リ、切取築堤等工事モ亦(また)頗(すこぶ)ル多ク、且ツ此局部ハ冬期凍氷ノ製造ニ適スル程寒冷ナル地帯ニ属スルヲ以テ、仮令(たとえ)施工上ニ注意ヲ加フルモ、厳冬ニ際シテハ軌道并(ならび)ニ架空線〔架線〕ノ保存ニ幾多ノ困難ヲ来スヘキ恐レアリ、到底安全ナル計画ヲ為スニ適シ難ク相覚ヘ候。


 北へ迂回するルートは山岳地帯ゆえ築堤・切取工事が多く、さらに製氷の適地であるほど寒冷な地域であるため、そのような所に急勾配の電気軌道を敷設すれば架線をはじめ施設のメンテナンス上の問題が生じ、安全運行が保証できないと主張している。

〔承前〕依之(これにより)能フ限リ急勾配ノ箇所ヲ減シ、危険ヲ避クル為メ、山巓ニ近キ一部ヲ変更シ、従来設計セル隧道ノ位置ヲ低下延長シテ掘鑿スルノ計画ヲ相立テ申候。之レカ為メ工費ノ増加ハ相免レ難ク候得共(そうらえども)、三十分ノ一勾配ハ僅ニ(わずかに)一哩ニ止リ、如上ノ危険ト困難ヲ除キ、運輸上最モ安全ヲ期シ得ヘク候ニ付、不得止(やむをえず)費額ノ増嵩ヲ忍ヒテ本線ヲ択(えら)ヒタルモノニ有之候。而シテ本願ハ御命令書第一条ノ軌道経過地名ニハ影響セス、同一区内ニ於ケル変更ニ有之候間、事情御諒察宜(よろ)シク御詮議奉請(うけたてまつり)候。

 そこで急勾配および危険箇所を可能な限り減らすためにも、従来計画より標高の低い所で長大なトンネルを穿つことにした。建設費は大幅に膨らんでしまうが、これは仕方のないことである、と。
 しかし株主たちはこの出来たての電気軌道会社が新トンネルの莫大な工事費を払うことができるか不安だったようだ。『三十年史』には「この決定が一度(ひとた)び発表せられるや、今日と大(おおい)に趣を異にした当時のことであるから、またまた世間では生駒隧道を無暴の挙であるとして、嘲笑と非難を以て之を迎へ、中には大軌の運命知るべしとまで極言した人々さへあつた」とある。
 今日の「大近鉄」を知らない株主たちが、今で言えば成り上がりのベンチャー企業が身の丈に合わない無謀な投資を強行しようとしている、と受け止められたのも当然かもしれない。後世の高い所から振り返って過去の「愚行」を批判するのは簡単なことだ。いずれにせよ大軌の役員たちはいよいよ腹を括って開通に向けて前進しようと決心したのであるが、しかしその先には大きな試練が待っていた。


図6 起点の上本町(現大阪上本町)駅。現在では十字路である上本町交差点の東側の道路はまだ通じておらず丁字路だが、市電の系統は集まっており、都心部への交通は便利であった。1:10,000「大阪南部」大正10年測図

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

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