第29回 近畿日本鉄道(2)

●『橋のない川』と生駒トンネルの事故
 明治末から大正にかけての被差別部落の暮らしを描いた住井すゑさんの『橋のない川』は、今の若い人には馴染みがないかもしれないが、少し前の時代であれば同和教育にとって不可欠な作品として位置づけられていた。しかしもっぱら部落問題に焦点を当てた評価がなされてきたため、この時代の庶民生活の細部を丁寧に描いた文学という側面にあまり光が当てられていないのは残念だ。一方でこの作家に対して「戦前は時勢に迎合していた」といったマイナス評価も散見するが、そんな類の批判ができる「有資格者」がはたしてこの国にどれだけいるだろうか。
 それはともかく、『橋のない川』の第1部には、大阪の上本町(うえほんまち)から奈良までを結ぶ大阪電気軌道(現近鉄奈良線)の建設中に生駒トンネルで起きた事故の様子が描かれている。明治44年(1911)6月の着工から約1年半、事故は明治天皇の崩御後からちょうど半年が過ぎようとしていた大正2年(1913)1月26日のことであった。15時20分に東口、つまり生駒側から698メートル入った地点で大規模な岩盤崩落が起きたのである。坑内には掘削に従事していた現場監督を含む約150人が閉じ込められた。『橋のない川』では主人公の住む部落からも工事に行っている設定で、そのシーンは現場付近に居合わせた亀三の話から始まる。当時の空気がよく伝わってくるので、少し長いが引用しよう(『橋のない川』第1部 新潮社版444~445ページ、1992年発行。〔 〕内は引用者注)。

「三時ちょっと過ぎてましたやろか。」と、亀三はすすめられるままにわらじを解きながら、もう気ぜわしく話しはじめた。
「わしは、いつもと同じように、王寺駅〔関西本線。生駒トンネル東口から約13キロ南方〕からつけてきた煉瓦をおろしてましたんや。そしたら山の方から、いきなりごーっと大風が吹きおろしてくるみたいな音がした思うと、ダ、ダ、ダーンて、それはどえらい地響きがしましてな、わしは、こりゃもうてっきり生駒山が総崩れになるんや思うて、牛も車もほったらかして逃げましてン。それは、もうだいぶ前から、聖天(しょうでん)さんのお山を荒した罰に、今に仰山(ぎょうさん)人死(ひとじに)が出るような事が起こるやろうと、恐いうわさがあったよって、そら、来よった! と思いましたんや。
 せやけど、いくら逃げよう思うても、そない遠くまでとても逃げられるものやおまへん。気イついたら、政吉がそばに居よって、〝叔父さん、えらいことでけた。小森の小父(おっ)さんは、トンネルの中や。″いいますネ。それから会社の事務所へ走っていきましたんやが、事務所はもう大けな騒ぎで……。
なんでも東の入口から五、六町奥のところで崩れてますんやそうな。」
「じゃ、そこからずーっと奥まで崩れてんのかな?」
「それが、旦那はん、どんなあんばいか、わしらが来る時はまだわかりまへんでした。三、四間〔約5.5~7.3メートル〕崩れただけか、それとも、掘ったとこがみんな崩れてしもたんか。もしそうやったら、四、五町〔約436~545メートル〕も崩れた勘定で、なかで働いたはった百五、六十人は、みな死んでしまうしかおまへん。いくらなんでも、そねんむごい事があってよろしもんか! 働いたはる人らは、みな聖天さんを信心して、肌身はなさずお守りをいただいてますんやさかい。」


図1 日本第2位の長さを誇った3388メートルの旧生駒トンネル。現在の新生駒トンネルの北側に平行していた。これにより大阪~奈良間の所要時間は大幅に短絡されることとなる。1:25,000「生駒山」昭和4年修正

●広軌複線式では「東洋一」の隧道
 当時の日本で最長のトンネルといえば、明治36年(1903)に開通した中央本線の笹子トンネル(4656メートル。現上り線)であったが、もちろん単線非電化であり、これに対して大阪電気軌道が手がける生駒トンネルは3388メートルと及ばないながらも、広軌(標準軌)複線式では「東洋一の大隧道」として評判であった。最新鋭の送風機などが導入されていた現場のはずであるが、掘削に従事していた人たちが生駒聖天こと宝山寺の鎮守神である歓喜天のお守りを身につけていたことなどは、近世から近代への移行期の風俗として捉えられるかもしれないが、常に命の危険に直面しながら作業にあたる人たちだからこそ、神仏の力にすがりたい気持ちは理解できる。
 遭難を聞いて駆けつけた家族や親類たちはトンネル入口に近い場所で救出活動を見守っていたが、事故から1時間40分後の17時頃から昼夜兼行の作業が功を奏し、坑内に閉じ込められた人の大半が救出されている。しかし不幸にも19人が還らぬ人となった。家族の身を案じて聖天さんへお参りしていた妻(かね)らが見た光景は印象的だ。

 人、人、人。右手の山ひだからなおも現われる人、人、人。五十人。七十人。いや、百人をまだ上越すほどの人数だ。人数はダッ、ダッ、ダッと山坂を踏み鳴らし、はだかの肩で、はだかの胸で、刻々かねたちに迫ってくる。
 もう疑う余地はない。それはたった今、死のトンネルから救い出された人たちなのだ。中には、広吉〔夫〕もまじっているにちがいない。


 つまり生き埋めの絶望から奇跡的に助けられた男たちが、聖天さんにお礼参りするために駆けつけるシーンである。『大阪電気軌道株式会社三十年史』にもその描写がある。住井すゑさんも同書から材料を得たのかもしれないが、以下そのくだりを引用しよう。ちなみにかねさんの夫・広吉は不幸にも還らぬ人となった。

 殊に生埋(いきうめ)となつた工夫達の聖天を恐るゝことは非常なもので、救ひ出された時の如きは、百余名が一斉に泥に塗れた半裸体の儘(まま)、狂気の如くに生駒山に駈け登り、聖天に参詣して霊前に額づき、九死に一生を得たことを感謝したのであつた。

 この崩落事故の他にも地質の難しさで出水を伴うなどして難工事となったため、トンネルの貫通は予定より8か月も遅れ、工期は結局着工から2年10か月の長きにわたった。工事費も27万円増の269万円にのぼっている。毎日の運賃収入のある電鉄会社であればまだしも、まだ開通区間が1マイルもない新会社であった大阪電気軌道として、この予想外の出費増はまさに痛打であった。
 支払いは滞り、ついには支払い困難に陥るのだが、トンネル工事を請け負った大林組社長の大林芳五郎は、崩壊事故で落胆する大軌の金森支配人に「金森さん、決して失望なさるな。資金に困れば建設費は会社の開業後に払つて貰えば宜しい。それよりも将来に望みを託して努力しようではありませんか」と激励した、と『三十年史』には感謝を込めて綴られている。

●一部新聞による悪意ある攻撃
 新会社・大阪電気軌道の将来性を信じ、工事代金の支払い繰り延べを待った大林組との関係は一種の「美談」として今日まで伝えられているが、当時の世間の風は温かいものだけではなかったようで、『中央新聞』は、まさに生駒トンネルが掘削中であった大正2年(1913)9月15日から25日にかけて「大阪の郊外電車」と題する記事を連載、特に大阪電気軌道を「無鉄砲なる軌道会社」として連日のように攻撃した。
 その執拗さはなかなかのもので、曰くそもそも建設費の見積りが甘く、平野ばかりの阪神や阪堺(電気軌道)などと比べても安くなっているのは不可解だ、生駒山地を貫くのにトンネルの建設費が非常に低く抑えられており、「困難な地質」で関西鉄道(現関西本線)も断念したルートを性懲りもなく実現しようとしているなどと建設計画の杜撰を指摘し、さらに工事が完成したとしても沿線人口や遊覧者数を挙げつつ乗客の少なさを予想し、到底採算が合うはずがないなどと非難の礫を浴びせている。この記事を読んで大軌株を手放した投資家も少なからず存在したのではないかと心配になるほどだが、その膨大な文章量の中から少し引用してみよう(句読点を補った)。

 其山層を形造れる花崗岩は岩質頗る硬密にして掘鑿(くっさく)容易の事にあらず。遊覧客の運輸を主とする電車鉄道などにては、望んでも之れを避く可(べ)き筈のものたるは技術家及び鉄道経営者の一致せる意見なり。然るに盲目なる会社重役は隧道(ずいどう)位はどうでもなると無茶苦茶に囓(かじ)り着きたる結果、今に及んで始めて素人の悲しさを心々痛歎(つうたん)するに至れるぞ詮なき。〔大正2年9月21日付〕

 どうせ遊覧客を乗せるだけの電車鉄道なんぞ、大金をかけた難工事を決行してまで通すような線路ではない、というのは当時の電気鉄道がまだまだ「補助的な交通機関に過ぎない」という旧時代の捉え方を引きずった印象で、またトンネルが通じたとしても次のように採算性に疑問を差し挟んでいる。

 現在関西本線の取扱人員中通過客を除外し、確実に奈良、大阪間の遊覧客は一日往復平均八千人なり。此外旧網島(あみじま)線〔現片町線〕あれど、之は甚しき迂廻線たるのみならず、列車も悪しく直通車も少なく、主として汽動車に因る短距離乗客を取扱ふに過ぎず、所謂(いわゆる)奈良遊覧客の如き殆ど絶無なれば、先づ奈良往復客は関西線の乗客全部を奪取し得るものとして八千人に過ぎず。
 之れに生駒聖天、瓢箪山(ひょうたんやま)稲荷、牧岡(ひらおか)大社、石切神社、西大寺其他、沿道神社仏閣の参詣者並びに附近村落の実用往来客を頗(すこぶ)る寛大に見積りて同様の八千人、合計一万六千人なり。即ち阪神〔阪神電気鉄道〕乗客の半数に過ぎず。但し沿道客の八千人は会社側の見積りなれば実際に信用し難く、且つ関西線の乗客全部を奪取するが如きは何等弁解の要なく瞭(あきら)かに不可能の事にして、唯問題は如何なる程度まで関西線の乗客を奪ひ得るかに存す。〔大正2年9月22日〕

●関西本線が運ぶわずか8000人を奪うか
『中央新聞』の筆者は現在その大半を関西本線が運んでいる大阪~奈良間の「遊覧客」を1日往復8000人として固定し、はたして大阪電気軌道がこの「パイ」をどれだけ奪えるかという計算を試みようとしているのがわかる。ところが実際は国鉄に並行して電気鉄道が敷設されると、確かにその乗客を奪う現象も生じる一方でそれ以上に需要が喚起され、トータルの人の往来は激増するという実例が、阪神電気鉄道をはじめ各地で実現していたことを記事の筆者はあまり認識していない。
 それまで電車なしの生活に甘んじていた沿線住民が気軽に都市へ出られることにより、地元の神社仏閣で済ませていた参拝を遠方の有名寺社に変更したり、大都市で買い物をする機会も増えてくるだろうし、これはもう少し先の話であるが、さらに沿線に住宅を構えて都市へ通勤する住民も増えていったのである。

 元来遊覧客を相手にする鉄道にして、時間の節減にのみ重きを置きケーブル式に依り生駒山腹を登攀するの却(かえ)つて興味多く、乗客の喝采を博し得べかりしに想ひ到らざりしは、彼等一期の失策其愚や蓋(けだ)し到底及ぶ可らざる所なり。〔大正2年9月22日〕


図2 奈良の市街地図に描かれた奈良停留場。当初の三条通ではなく北寄りの東向中町(ひがしむきなかまち)に設置された。最初に仮停留場が置かれたのは開化天皇陵北東側の高天町(たかまちょう)。駸々堂旅行案内部「奈良名勝案内図」昭和7年発行

 別の場所で「大阪~奈良間の所要時間を10分20分縮めたところで、どうせ遊覧客はそこに価値を置かない」といった論を開披した少し後にこのように言及しているのだが、要するに大金を投じてトンネルを掘るようなことをせずとも、ケーブルカーとして生駒山腹を登る方がかえって乗客にも歓迎されるのではないか、というのが筆者の理解である。
 遊ぶ人は往復の道中ものんびり楽しむはず、という「江戸気分」が当時まだ世間では抜けていなかったのかと、今読むと新鮮な印象もあるが、その後の電気鉄道の利便性の急進展を知っているわれわれから見れば、観光客も用のない途中区間はすっ飛ばしてくれという、後の新幹線に通じる「待てない日本人」が、すぐそこまで押し寄せていたことを知っている。ついでながら、このケーブルは大軌の本線とは別に、その数年後の大正7年(1918)に生駒鋼索鉄道(同11年に大軌に合併)が宝山寺へ向けて敷設された。
 岩盤崩落事故以来、高まる世間の不安と新聞に叩かれてさんざんな目に遭った大軌であるが、崩落区間は1か月で復旧させている。その後も予期せぬ湧水に見舞われるなど困難も立ちはだかったが、悪意に満ちた新聞連載から約4か月の後、大正3年(1914)1月31日に東西の導坑が開通し、ついに4月18日に隧道は完成を見た。

●トンネルの完成と大軌の開通
 生駒トンネルが抜ければあとは一気呵成である。同年の4月30日にはターミナルの上本町停留場から奈良の仮停留場まで開業した。もちろん全線が複線電化線である。奈良のターミナルが「仮」なのは市街地への乗り入れ協議が難航していたためで、まずは高天町に仮停留場を設置している。列車の運行は朝の5時から深夜の24時までおおむね10分間隔で行なわれ、この区間を55分で結ぶこととなった。
 大正元年(1912)10月の時刻表(駸々堂『旅行案内』)によれば、関西本線の列車はもちろん蒸気機関車牽引の列車がおおむね1時間間隔で1日16往復という状況であった。所要時間は大阪の湊町(現JR難波駅)から奈良駅まで1時間半(急行は1時間10分)、天王寺からでも1時間10〜20分(同1時間)であるから、運転間隔でも所要時間の面でも、大軌の有利は決定的だったのである。
 開業日の乗客数はフタを開けてみれば2万1364人、『中央新聞』が書き散らした「関西本線の8000人のパイをどこまで奪うか」を云々するような数字ではない。もちろん初物見たさに乗った人も多かっただろうが、その翌日は生駒聖天・宝山寺の縁日(大般若会式)であったこともあり、輸送人員は4万3382人とさらに倍増している。株価も低迷して12円台であったのが20円に急騰した。
 開業時の停留場は以下の通り。それぞれの距離は開業1週間前の大正3年(1914)4月23日「一部運輸開始許可申請書」に綴じ込まれていた区間距離、右側の数字はこれらを足し合わせた累計距離である。なおここに記載された数字を累計すれば19マイル04チェーン27リンクとなるが、『三十年史』をはじめ社史では「27リンク」の端数は掲載されていない(和久田康雄『私鉄史ハンドブック』も19マイル04チェーン)。なお〔 〕内は現在の駅名、*印は現在の駅と位置が異なる停留場を示す。哩程の記されたこの文書で富雄は「冨雄」となっていたが、単純な誤りかもしれない。

上本町     00哩00鎖    0哩00鎖00節〔0.00km〕
鶴橋*     65鎖35節    0哩65鎖35節〔1.31km〕
片江〔今里〕  67鎖35節    1哩52鎖70節〔2.67km〕
深江〔布施〕  59鎖80節    2哩32鎖50節〔3.87km〕
小阪〔河内小阪〕1哩07鎖50節   3哩40鎖00節〔5.63km〕
若江〔若江岩田〕1哩44鎖15節   5哩04鎖15節〔8.13km〕
瓢箪山     1哩64鎖85節   6哩69鎖00節〔11.04km〕
枚岡      66鎖23節    7哩55鎖23節〔12.38km〕
石切*     75鎖79節    8哩51鎖02節〔13.90km〕
〔この間に生駒隧道(トンネル)〕
生駒      2哩64鎖00節   11哩35鎖02節〔18.41km〕
富雄      2哩15鎖00節   13哩50鎖02節〔21.93km〕
西大寺     2哩65鎖00節   16哩35鎖02節〔26.45km〕
奈良(仮)*  2哩49鎖25節   19哩04鎖27節〔30.66km〕
哩=マイル(約1609.34m)、鎖=チェーン(約20.12m)、節=リンク(約20.12cm)


図3 近鉄奈良駅(昭和45年まで近畿日本奈良駅)付近は長らく路面を走っていたが、昭和44年(1969)に地下化されて現在に至る。1:25,000「奈良」昭和42年改測

 その後、奈良の正式なターミナルとなる本停留場までの延伸となるのだが、同市街地の用地買収が3月末にようやく終了したこともあり、2か月半後の大正3年(1914)7月8日、8チェーン75リンク(約176メートル)を延伸開業した。これにより全区間の距離は19マイル13チェーン02リンク(30.84キロメートル)である。

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。
*『中央新聞』の引用は、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブの「新聞記事文庫」によったが、本連載の方針に従って適宜句読点を追加し、同アーカイブに添付されている原典を参照して歴史的仮名遣いに戻した。

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