第30回 近畿日本鉄道(3)

●近鉄最大のターミナル・大阪阿部野橋駅
 日本最大の路線網を誇る近鉄全駅のうち、乗車人数が最大なのは1日平均16.3万人の南大阪線大阪阿部野橋駅である。大阪線と奈良線が複々線で入ってくる鶴橋駅(大阪環状線と接続。16.0万人)や大阪上本町駅、大阪難波駅のいずれでもないのは、大阪線や奈良線のターミナルがそれら数駅に分散しているのに対して、南大阪線でターミナル機能を担うのがこの大阪阿部野橋だけという事情が反映されている。
 駅のすぐ西側に聳えているのが日本一高いビルとして知られる「あべのハルカス」である。すでに大阪の観光地としてトップクラスの人気を誇っているが、建っているのは近鉄百貨店阿倍野店(平成25年から「あべのハルカス近鉄本店」と改称)の西館があった場所である。戦前には大鉄百貨店として知られ、平成29年(2017)には開店80周年を迎えた。大鉄というのは大阪鉄道の略称で、数多い近鉄の前身会社のひとつである。
 各社の沿革を記せば長くなるので省くが、要するに奈良線や大阪線の前身が大阪電気軌道であったのに対して、大阪阿部野橋を起点とする南大阪線は大阪鉄道というまったく別の会社であった。このため線路の幅も大阪電気軌道の1435ミリメートル(標準軌)に対して、南大阪線は1067ミリメートルとJRの在来線と同じ幅である。


図1 大阪鉄道(現近鉄南大阪線)が開通した年に発行された市街地図に描かれた天王寺駅と市電阿部野橋電停との関係。この図では四天王寺前にある天王寺西門前電停は「天王寺」と略記されている。なお東西に走る関西本線より南側は当時市外の東成郡天王寺村であった。大阪阿部野橋駅には駅名の記載がない。駸々堂旅行案内部「大阪市及郊外地図」大正12年発行


図2 道路を距てて向き合っている天王寺駅と近鉄(旧大阪鉄道)大阪阿部野橋駅。1:10,000「大阪南部」昭和27年修正

 この駅はJR天王寺駅と道を挟んですぐお向いなので、関東なら同じ駅名にしそうなものだが、JR大阪駅と阪急・阪神・地下鉄の梅田駅の関係と同様に、他の地方からの人にはわかりにくい。天王寺駅と大阪阿部野橋駅の間の道路、あべの筋が天王寺区と阿倍野区の境界にあたっている事情もあるけれど、明治22年(1889)に開業した天王寺駅の目の前に大正12年(1923)とだいぶ後にやって来て、あえて別の名前を付けるのは不思議な感覚だと思っていた。
 ところが開業時は大阪天王寺駅と称したのを後で知り、わざわざ改称したのはなぜだろうと疑問はますます深まる。それも大阪天王寺駅が開業した翌年の改称というのは解せない。この改称は社史である『近畿日本鉄道100年のあゆみ』にも大正13年6月改称とあり、私が監修をつとめた『日本鉄道旅行地図帳8号 関西1』にもその通りに記載した。ウィキペディアでもそうなっている。

●大阪天王寺駅から大阪阿部野橋駅へ異例の改称
 しかしこの連載で南大阪線を取り上げることになって各種資料に目を通しているうちに、気になるものを発見したのである。大正12年(1923)7月の時刻表『公認汽車汽舩旅行案内』(旅行案内社発行)が、すでに大阪阿部野橋という駅名を掲載していたからだ。開業の4月13日からわずか3か月しか経っていない。該当ページの表タイトルも「柏原長野間及大阪阿部野橋間(電車)」とあり、時刻表もその駅名なので何かの間違いとは考えにくい。改称されたはずなのに旧称のままという誤りはしばしば見かけるが、その逆はまずない。改称時期が社史の通りだとすれば、この時刻表の表記は大幅な「フライング」である。
 国立公文書館で大正12年(1923)から翌13年にかけての簿冊を調べてみたが改称の事実は記載されていない。駅の改称や移転の記録が漏れていることは一般に珍しくないのだが、それとは直接関係ない大正12年6月25日付の文書に「大阪阿部野橋」の文字が載っていたのである。これは駅に仮設物を設けるための土地収用に関する文書だが、「弊社鉄道道明寺大阪阿部野橋間各駅仮設工事使用期限ハ……」と記されているので、明らかにこの日付までには大阪天王寺から大阪阿部野橋への改称が済んでいたことを示している。
 これより早い時期の文書を探してみたが見つからず、官報を閲覧してみることにした。昨今は国立国会図書館デジタルコレクションの充実で官報の検索・閲覧が大幅に楽になったので、さっそく「大阪鉄道」と「大阪天王寺駅」で検索してみると、見事にヒットした。大正12年5月14日付の官報第3234号で、全文は次の通り。

地方鉄道停車場名称変更 大阪鉄道株式会社所属大阪天王寺停車場ヲ大阪阿部野橋(おほさかあべのばし=ルビ)停車場ニ本月十日ヨリ名称変更ノ旨届出テタリ(鉄道省)

 つまり4月13日に開業して翌月、正確にはわずか27日後の改称である。官報のこの簡素な記述からは他に何も伝わってこないが、異例に早期の改称が行なわれた背景には、大阪天王寺という駅名ではマズい、もしくはぜひとも大阪阿部野橋にしたいという何らかの強力な事情が存在したと考えるしかない。
 そもそも阿倍野橋というのは関西本線が大阪鉄道(近鉄の前身の大阪鉄道とは別会社)として最初に湊町(現JR難波)〜柏原(かしわら)間を開業した際に設けられた天王寺駅西側の陸橋の名前である。一帯は南北に延びる上町(うえまち)台地を線路が切通しでくぐる区間で、四天王寺から住吉方面を経て紀州に至る熊野街道が線路を跨ぐために架けられた陸橋(跨線橋)が阿倍野橋だ。
 駅名が阿部野橋であるのに対して橋名は阿倍野橋と字は異なるが、阿倍野と阿部野はどちらも長いこと並行して用いられてきた表記である。現在では行政区名が阿倍野区、同区内の町名も阿倍野筋など「倍」の字のみで、警察署や郵便局、図書館、高校、それに市営地下鉄谷町線の駅も阿倍野駅と圧倒的であるが、大阪阿部野橋の駅名の他には阿部野神社が今も「部」の字を用いている。
 駅が設置された大正12年(1923)の時点では現阿倍野区の天王寺駅南側エリアは東成郡天王寺村で、大阪阿部野橋駅の所在地も同村の大字阿部野であった。大字阿部野は江戸期から明治22年(1889)の町村制まで用いられてきた阿部野村の表記であったため、駅名はそれに倣ったのかもしれない。近年では「あべのハルカス」をはじめ、「あべのキューズタウン」など平仮名も目立つ。近鉄自身が南大阪線の列車の行先表示に「あべの橋」を用いていたこともあり、そのあたりは基準の緩さも感じられるが、かつてはこの2通りだけではなく安倍野・安部野の表記さえあったようで、近世までの日本の地名表記は実に緩かった。
 さて、天王寺という地名はもともと四天王寺の上略形で、寺名の略称として「天王寺」が長らく使われた後、徐々にその周辺一帯の汎称地名となっていく。これは東京の京橋が橋の名から広域の区名や町名に転じるのと同様の変動であるが、大阪(大坂)の市街の広がりにつれて、示す地域は徐々に南下していったようだ。現在の天王寺区は大正14年(1925)に旧東区と南区から分割されたもので、天王寺駅の南側に位置する天王寺村のエリアとは重なっていない。
 あえて大阪阿部野橋の駅名に改めた理由を考えてみると、大正12年(1923)当時の大阪市電の路線図を見れば納得できる気もしてくる。というのは天王寺駅の北側に位置していた市電のターミナルが「安倍野橋」を名乗っていたからで、これは現在の市バスの停留所にも引き継がれている(南海上町線=現阪堺電気軌道は大正10年から天王寺駅前)。
 ここを起終点とする市電の系統は多く、橋の名はすでに大阪南部の繁華街を代表する汎称地名化がすでに進行しており、北部の「梅田」に対応するブランド地名としての価値があったのではないだろうか。さらに天王寺西門前という市電の停留所が、大正期の大阪市街図でしばしば単に「天王寺」と記されていることからも、そちらの電停とは区別したい意識が働いたと考えるのは自然だ。


図3 関西本線の柏原駅から南下して長野(現河内長野)まで敷設された河南鉄道(当初は河陽鉄道)。図は大正9年のもので、前年に大阪鉄道に改称したばかり。1:200,000帝国図「和歌山」大正9年製版

●近鉄で最古の路線−柏原線と長野線
 この大阪鉄道が大阪阿部野橋への進出を果たす四半世紀も前の明治31年(1898)3月24日、大阪鉄道(現関西本線)の柏原駅から南下して古市までの2マイル55チェーン(約4.33キロメートル)を結ぶ河陽(かよう)鉄道が開業した。これが大阪鉄道(2代目)の前身であるが、約500キロに及ぶ近鉄の路線の中では最も古い。次は明治26年(1893)に提出された河陽鉄道の会社創立願である。

   河陽銕道株式会社創立願
 今般私共申合(もうしあわせ)私設鉄道条例ヲ遵奉シ、旅客及荷物運輸営業ノ目的ヲ以テ鉄道会社ヲ創立シ、大坂〔ママ〕府下(ふか)志紀(しき)郡柏原(かしわら)村〔現柏原市〕ヨリ同府下錦部(にしごり)郡長埜(ながの)村〔現河内長野市〕ニ至ル拾弐哩(12マイル)間ニ軽便銕道(てつどう)布設仕度(つかまつりたし)。
 抑(そもそ)モ長埜村ハ一小村落ニ有之(これあり)候得共(そうらえども)、東西高野(こうや)街道合線ノ要地ニシテ、西高野街道ハ大坂〔大阪〕ヨリ和泉国堺市ヲ経テ紀州高野山ニ至ルノ道路ニシテ、堺市ヲ距ル四里余ナリ。亦(また)東高野街道ハ河摂〔河内と摂津〕国境交野(かたの)郡招提(しょうだい)村〔現枚方市〕ニ起リ柏原、道明寺(どうみょうじ)、冨田林(とんだばやし)等ヲ経テ高野山ニ至ルノ道路ニシテ、柏原ヲ距ル五里余ナリ。
 何レモ府道ナルヲ以テ交通頻繁、加フルニ柏原長埜間ニハ道明寺天満宮、玉手山安福寺、誉田(こんだ)八幡宮、応神天皇御陵、上ノ太子、滝谷(たきだに)不動、観心寺観世音及楠公首墓〔首塚〕、後村上(ごむらかみ)天皇御陵、壺井八幡、大黒大黒(おぐろだいこく)等ノ霊勝地アリ。亦(また)沿道著名ノ宿駅ニハ柏原、古市、冨田林等アリ。其他近傍ニハ天野山(あまのさん)、金剛山、千窟、赤坂等ノ城址、水分(すいぶん)神社、楠公誕生地等、凡(およそ)河内国有名ナル個所ノ大半ハ南部ニアリテ、春秋笻(つえ)ヲ曳クノ旅客不少(すくなからず)。


 生駒山地の西麓を枚方(ひらかた)から南下して河内長野に至る東高野街道(ほぼ現在の国道170号)は当時としても賑やかな幹線道路であり、ここに鉄道を敷設しようとする計画は当時の状況からみて自然な動きだろう。柏原にはすでに大阪鉄道(現JR関西本線)が大阪の湊町まで通じており、そこから支線的鉄道として古市や富田林を経て長野(当時はしばしば長埜と表記)に至る鉄道として計画されたものだ。沿線には神社仏閣や御陵など河内国の中で主要な名所旧跡の大半をカバーするほどだと強調している。

〔承前〕亦貨物ハ薪炭、木材ヲ始トシ、木綿、米穀、氷豆腐〔いわゆる高野豆腐・千早豆腐〕等ノ大坂ニ搬出スルモノ夥敷(おびただしく)、殊ニ石川、錦部ノ両郡ハ東・大和、南・紀伊ヲ境トシ、二丈嶽、葛城(かつらぎ)山、金剛山、紀伊見嶺(きのみとうげ)等連亙(れんこう)タル山脈ヲ有シ、其間三里余ノ山間原野ニ散在スル新村〔明治22年に誕生した自治体=行政村〕二十五ヶ村ノ大字百余部落〔集落の意〕ノ人民ト貨物ハ皆東西高野街道ノ便ヲ取リ大坂ニ出(いず)ルモノナレハ、其不便少カラサルヲ以テ、一昨二十四年中銕道馬車ヲ敷設シ、是レカ便利ヲ助ケント当発起者ニ於テ已(すで)ニ予測ヲ為シ、結社出願ノ運ニ至リ候処、聊(いささか)事故ノ為メニ姑(しばら)ク中止致居(いたしおり)候折柄(おりから)、大坂和歌山間鉄道官設ノ議起リタルヲ以テ目的ヲ変シ、之レカ比較線トセラレンコトヲ上願スルニ至レリ。
 然ルニ線路中紀伊見嶺(きのみとうげ)ノ難所アルヲ以テ斥ケラルヽコトヽナリタレトモ、実ニ本線ノ必要ハ前陳ノ如クシテ、仮令(たとい)和歌山ニ連絡ヲ通セサルモ、河内南部ト紀州橋本、高野、妙寺(みょうじ)〔現伊都郡かつらぎ町〕等ト大坂間ノ交通ハ東西高野街道ノ二線ニ頼ルノ外無(ほかな)シニ付、今本銕道ニシテ成功スルノ暁ニ至レハ、其便益実ニ尠少(せんしょう)ニアラサルナリ。
 尤(もっとも)本線敷設目的ノ要旨ハ、南河内一部ノ便ヲ開カントスルニ基キタルモノニシテ、柏原以南紀伊見嶺ノ交通ニ止マリ、他ノ幹線ニ接続スルノ目的ニアラス。軽便銕道ヲ以テ適当ト考究候ニ付、別紙起業目論見書并(ならび)ニ略図相添、連署出願仕候間、地方ノ実況深ク御酌察、至急御允許(いんきょ)仮免状御下付相成度(あいなりたく)、此段奉懇願(こんがんたてまつり)候也。
   明治二十六年七月二十一日
     発起人
     河内国丹南郡平尾村大字平尾〔現堺市美原区〕三十八番屋敷平民
       出水弥太郎
       他十九名
追テ幅員ハ二呎六吋〔2フィート6インチ=762ミリメートル〕ノモノヲ布設ノ見込ニ候。
逓信大臣伯爵 黒田清隆殿


図4 河陽鉄道の敷設申請書に添付されていた全線略図の一部。新線は大和川の支流である石川と東高野街道に沿って南下するルートである。当時は阪堺鉄道(現南海電鉄)が堺まで、高野線の前身・高野鉄道はまだ開業していなかった。鉄道院文書「河陽鉄道株式会社」巻全 明治28・29年 国立公文書館蔵

 当初は紀見峠を通って紀州へ通じる馬車鉄道の敷設を申請したものの、険しいルートゆえに当局の許可が得られず断念したというくだりによれば、河内長野以南は現在の南海高野線と似たルートを計画していたことが窺える。申請はこの後で長野から三日市まで2マイルほど延伸、その区間も後日に認められた。末尾では軌間を2フィート6インチ(762ミリメートル)としているが、結局は現在と同じ3フィート6インチ(1067ミリメートル)で開業している。
 発起人筆頭の出水弥太郎(文書ではこの字だが一般には彌太郎の表記)はこの住所に見られる平尾村の豪農で、創立願の提出前年にあたる明治25年(1892)から衆議院議員もつとめている。地元の鉄道敷設の気運に応えて奔走した人物で、鉄道敷設の仮免許は同28年10月10日、本免許を同29年2月4日に得て同年度末に会社を設立、自らが社長に就任している。同31年の3月24日にまずは第1期区間として柏原〜古市間、翌月の4月14日には古市〜富田林間を開業した。
 沿線にさまざまな産物があって交通頻繁を申請書で強調していた河陽鉄道ではあったが、いかんせん沿線人口は少なく、大阪に直結しているわけでもないので当初から経営は厳しかった。そこで翌32年には河南鉄道に経営権を譲渡している。同社になって3年後の明治35年(1902)3月25日には滝谷不動まで、同年12月12日には長野(現河内長野)まで開通させている。同駅には高野鉄道(現南海高野線)がすでに明治31年(1898)に到達していた。開業に際しての竣功監査の書類が綴じ込まれていないので、だいぶ後ではあるが明治42年(1909)の文書に添付された時刻表より停車場の一覧を掲げる。ついでに所要時間の目安として下り第6列車と第22列車の時刻(長野以外は発時刻)を掲載しよう。細かい話ではあるが、富田林の表記は同時期でもしばしば「冨田林」が混在している。

停車場名 起点からの距離    第6列車 第22列車
柏原   0哩00鎖〔0.00km〕 7:44  8:35
道明寺  1哩30鎖〔2.21km〕 7:51  8:43
古市   2哩55鎖〔4.33km〕 7:57  8:50
喜志   4哩56鎖〔7.56km〕 8:05  9:00
冨田林  6哩06鎖〔9.78km〕 8:12  9:08
滝谷不動 7哩74鎖〔12.75km〕 8:19  9:16
長野   10哩22鎖〔16.54km〕8:28  9:25
 この第6列車と第22列車の所要時間の相違にお気づきだろうか。第6が44分であるのに対して第22は50分とだいぶ差がある。着発時間をすべて示した元の表によれば駅間の所要時間は同一なのだが、第22列車の方は混合列車、つまり客車と貨車を一緒に連結したものだ。このため各駅で積み卸しのためそれぞれ1分ずつ余分に停車し、これが所要時間に反映されている。
 このうち第6列車は貨車を連結しないだけではなく、蒸気機関を据え付けた客車すなわち「蒸気動車」が用いられた列車である。日本では名古屋鉄道瀬戸線の前身である瀬戸自動鉄道がその名の通り蒸気動車(セルポレー式)を用いた日本初の事例であるが、整備の困難さと線路条件との不適合などの理由で早々に引退しており、河南鉄道は明治40年(1907)に関西鉄道(現JR関西本線)に改めて導入された2年後にこの「新兵器」を採用した。この新車両の導入を時刻改正とともに申請した文書とその理由書を以下に掲げよう。

   汽車運転時刻改正之義ニ付申請
 当会社鉄道列車并(ならび)ニ蒸気自動客車運転時刻、別表之通リ改正実施致度(いたしたく)候間、御認可被成下度(なしくだされたく)、運行図表及理由書相副ヘ此段申請候也。

 明治四十二年三月十三日
    河南鉄道株式会社
    社長 野田吉兵衛

鉄道院総裁 男爵後藤新平殿

   理由書
 弊社線路ニヨル来往旅客ハ追年増加ノ傾向ニ有之(これあり)候処、現行ノ列車ハ約弐時間ノ運転ニシテ、世ノ進運ニ伴ヒ旅客ハ常ニ交通上ノ不便ノ声ヲ洩セリ。然リト雖(いえど)モ今一列車ヲ増発センニハ経費ノ点ニ於テ之ヲ容ルヽノ余地ナク、苦心考究ノ結果、一部動力ヲ変更シ「ガンツ式」自働車ヲ採用スルニ於テハ、取扱簡易ナルノミナラズ、比較的経費低廉ニシテ、当会社線ニハ至極適当且ツ有効ト認メタルニヨリ、該自働客車ヲ増設シ、通常列車ト併用運転スルコトヽシ、旅客ノ交通ヲ便ナラシムル所以(ゆえん)ニ有之候。


 ガンツ式自働車とはハンガリー・ブダペスト市のガンツ社から輸入した蒸気動車で、添付された「工事方法書」によれば車体はボギー8輪車で最大幅8フィート2インチ(約2.49メートル)、最大長43フィート2インチ半(約13.17メートル)、自重約15トン335(これを英トンとして換算すれば約15.6トン)、旅客定員54人(2等室4人、3等室50人)という車両であった。
 河南鉄道はこの蒸気動車の導入に加えて、その機動性に対応すべく一挙に6つの停留所の設置を計画している。鉄道の分野でいう「停留所」とは一般に転轍機(分岐器)が設置されず列車交換ができない簡便な形式の駅で、これらは主に大正期頃から気動車が普及するのに伴って乗客の利便性向上を図って設置されたものが多い。明治末にその動きが始まった河南鉄道はかなり先駆的である。
 従来の7つの停車場の間にそれぞれ1か所ずつ、合計6つの停留所が設けられた(△印)。設置場所を明治44年(1911)7月に提出された文書の「営業哩程表」(哩以下は十進法の小数にて記載=原資料のまま)から換算して記せば次の通り。所在地は別の資料によった。これらの停留所は同年8月15日に開業、このうち大和橋停留所は少し遅れて11月12日に開業している。


停車場・停留所 累計哩程〔km換算〕  所在地
柏原      0.00哩〔0.00km〕  南河内郡柏原村大字柏原
△大和橋*   0.55哩〔0.89km〕  南河内郡道明寺村大字船橋
道明寺     1.38哩〔2.22km〕  南河内郡道明寺村大字道明寺
△誉田*    2.30哩〔3.70km〕  南河内郡古市村大字誉田
古市      2.69哩〔4.33km〕  南河内郡古市村大字古市
△西浦     3.78哩〔6.08km〕  南河内郡西浦村大字西浦
喜志      4.70哩〔7.56km〕  南河内郡喜志村
△宮前*    5.03哩〔8.10km〕  南河内郡喜志村
富田林     6.08哩〔9.78km〕  南河内郡富田林町大字毛人谷(えびたに)
△川西     7.00哩〔11.27km〕  南河内郡川西村大字甲田
滝谷不動    7.93哩〔12.76km〕  南河内郡錦郡(にしこり)村大字錦郡
△汐ノ宮    9.14哩〔14.71km〕  南河内郡市新野(いちしの)村大字市
長野      10.28哩〔16.54km〕 南河内郡長野町大字長野


*大和橋は大正13年(1924)6月1日に移転して柏原南口と改称、誉田は昭和8年(1933)に誉田八幡と改称後同20年休止した後に廃止、宮前(宮ノ前)は一旦廃止後旭ヶ丘として復活するも昭和20年休止した後に廃止。


図5 蒸気動車の導入に伴って駅間に設けられた河南鉄道の停留所。大和川南詰の大和橋、道明寺〜古市間には誉田の停留所が見える。道明寺から西へ分岐していく路線は大正11年〜12年に開業した現在の南大阪線の前身で、図は河南鉄道から大阪鉄道に改称した後。1:25,000「古市」大正11年測図


図6 蒸気動車の導入に伴って6か所の停留所が新設された後の河南鉄道。「キ」印は自働車によって運行される列車で、新設停留所は欄外に記されている。旅行案内社『公認汽車汽舩旅行案内』大正4年2月号

*引用した公文書等は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め(変体仮名は現行仮名に修正)、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行なった。それ以外は原本の通りである。〔 〕内は引用者注。

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