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ちょっと立ち読み
手に汗握るノンフィクション
──『ナチが愛した二重スパイ——英国諜報員「ジグザグ」の戦争』

プロローグ

 一九四二年十二月十六日、午前二時十三分

 一人のドイツのスパイが、ケンブリッジシャー上空を飛ぶ一機の黒いフォッケ=ヴルフ偵察機から降下する。絹製のパラシュートが、サラサラという音を立てて開く。そして彼は十二分間、静かにゆっくりと降りてくる。星は出ているが、戦時中の灯火管制のせいで下方の地面は真っ暗だ。鼻血が夥しく出る。

 スパイは装備が万全だ。英軍支給の着地用軍靴を履き、英軍支給の鉄兜をかぶっている。ポケットには四ヵ月前にディエップで戦死した英軍兵士の持っていた財布がある。その中には偽の二枚の身分証明書と、女友達から来た一通の手紙(それは本物だ)が入っている。背嚢にはキニーネを浸み込ませた「秘密筆記」用のマッチ、無線受信機、軍用地図、さまざまな金額の九百九十ポンド分の使用済み紙幣、コルト式自動拳銃、塹壕掘削用具、変装用の度なしレンズの眼鏡が入れてある。四本の歯は新しく金で作ったものだ。その費用はヒトラーの第三帝国が支払った。飛行用のオーバーオールの下に民間人のスーツを着ている。昔は流行の仕立てだったものだが、今ではやや着古されている。ズボンの右脚の折返しには、一服分の自殺用青酸カリの錠剤の入った小さなセロハン包みが縫い込んである。

 スパイの名前はエドワード・アーノルド・チャップマン。英国の警察は彼をエドワード・エドワーズ、エドワード・シンプソン、アーノルド・トムソンとしても摑んでいた。彼のドイツのスパイ指導者は、彼に「フリッツ」、あるいは愛情を籠めて「フリッツヒェン」、すなわち小さなフリッツという暗号名を与えた。英国の諜報機関は彼に対するなんの名前もまだ持っていない。その夜、ケンブリッジシャーの警察署長はホワイトホールから緊急電話がかかってきたあと、「スパイX」としか呼ばれていない人物を探すよう全署員に指示した。


 エディー・チャップマンは午前二時二十五分、耕されたばかりの畑に降りるが、すぐさま泥濘にうつ伏せに倒れる。気が遠くなりながらもパラシュートを外し、血が飛び散っている飛行服を脱ぎ、丸めて埋める。そしてリボルバーをポケットに押し込み、背嚢に手を突っ込んで地図と懐中電灯を取り出そうとする。地図はない。闇の中でどこかに落としたに違いない。四つん這いになって捜す。深い闇の中で罵りの言葉を吐き、冷たい地面に坐り、自分はどこにいるのか、自分は何者なのか、自分はどっちの側なのかいぶかる。


ナチが愛した二重スパイ
もっと詳しく
ナチが愛した二重スパイ
英国諜報員「ジグザグ」の戦争
ベン・マッキンタイアー著/高儀進訳

第二次大戦末期、ロンドン暗黒街の悪党チャップマンは、ナチのスパイとなるも、実は「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた……戦史に秘められた、手に汗握る活劇!
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