立ち読み
『ぼくのともだち』

渋谷豊
 この本の頁を繰れば誰しもすぐに、どの章の表題も人名であることに気づくだろう。ただ、ああ、これが主人公のともだちなのかと思うのは早計で、じつは、いずれも彼が〈ともだちになり損ねた人〉の名前なのだ。主人公バトンは孤独を運命づけられた男。そんな男の日常を、ここで少しだけ覗いてみよう。ベケットはボーヴを評して“Il a comme personne le sens du détail touchant.”「彼には心に触れる細部を捉える類い希なセンスがある」と言ったそうだが、以下の短い抜粋からも作者の特異な感性が窺えるだろう。

 貧相な屋根裏部屋に、いつもどおりの朝が訪れる。失業中のバトンは、目を覚ますと、ゆっくり身繕いを始める。

 ぼくはシーツから抜け出ると、いつもベッドの縁に腰をかけ、しばらく、膝から先をぶらぶらさせる。太腿の毛穴が黒ずんでいる。足の爪は伸びて尖っている。他人が見たら、顔をそむけるだろう。
 立ちあがると頭がくらくらする。でも、このめまいはじきに治まる。陽光が差し込める朝は、ベッドから舞い上がった埃が一瞬、雨粒のように輝く。
 ぼくはまず靴下を穿く。そうしないと足の裏にマッチ棒が貼りつくから。それから椅子に手をかけてズボンを穿く。 忘れずに靴底を点検して、あとどのくらい持つか計算する。
 ついで、前日の水垢で目盛りのような筋のついた洗面器をバケツの上に乗せる。そして足を大きく開き、身体を深く折って顔を洗う。このとき、ズボン吊りは肩からはずし、尻のボタンで留めて垂らしておく。これがぼくのこだわりだ。軍隊にいたときも、この姿勢で、野営用の小鍋で顔を洗ったものだ。ただ、いま使っている洗面器は小さすぎて、両手を浸すと水が溢れてしまう。すり減った石鹸はもう泡立たない。
(「(プロローグ)」より)

 身繕いを済ますと、バトンは出会いを求めて街に出る。ある晩、彼はカフェの女主人リュシーに、部屋に来る? と誘われる。一夜限りの侘びしいアヴァンチュール。

 「この部屋、どう思う?」
 「素敵さ」
 いきなり、まるで転びそうになった人を支えるような格好で、ぼくは彼女を抱きしめた。彼女が抵抗しないことに勇気づけられて、片手で服を脱がせながら何度もキスした。できることなら、熱烈に愛し合っている恋人たちみたいに、ボタンを引きちぎり、下着を裂いてしまいたかった。でも、彼女に怒られるのではないかと思って我慢した。
 間もなく彼女はコルセット姿になった。コルセットは張り骨がねじ曲がっていた。細ひもが背中の肉を縛り上げている。両の乳房は中央に寄っていた。
 ぼくは震えながらコルセットのホックをはずした。シュミーズが一瞬、身体に張りつき、そしてはらりと落ちた。
 といっても、はらりと落ちたはずのシュミーズは腰に引っ掛かった。仕方がないから、頭から脱がせた。これには苦労した。肩幅が広すぎるのだ。ストッキングだけは脱がさずにおいた。その方が美しく見えるから。新聞や週刊誌に載っている裸の女性もみな、ストッキングだけは身につけている。
 とうとう彼女は裸になった。ガーターが太腿に食い込んでいる。腰の辺りのラインは脊柱ででこぼこしている。腕には予防注射の痕があった。
(「リュシー・デュノワ」より)

 また別の晩、バトンは街で一人の男と出会う。名はビヤール。翌日、その男と再会し、ともだちになれそうだと喜んだのも束の間、彼には恋人がいると判明する。

 ぼくははっとして彼を見た。彼の紙巻煙草は火が消えていた。
 「結婚しているんですか」
 「いや。いっしょに住んでるけどね」
 それまでの興奮が、いっきに冷めてしまった。いろいろな思いがいちどきにぼくの心をよぎった。
 ぼくの部屋や、部屋から見える街並みや、リュシーの顔が目に浮かんだ。ぼくの人生は、このままずっと、味気ない単調な日々の連続なのだろう。ビヤールに女がいるなんて絶対に許せない。これで、ぼくとビヤールが固い友情の絆で結ばれる可能性は絶たれてしまった。なにしろ、ぼくら二人の友情を邪魔する第三者が存在するのだから。ぼくは嫉妬しないではいられなかった。だいたい、なんだって、昨日、この見ず知らずの男の後を追いかけたりしたのだろう。すっかり生活をかき乱されてしまった。おかげで、今夜からは、今まで以上に辛い孤独がぼくを待っている。
 そう考えながらも、ぼくは最後の希望に縋らずにはいられなかった。ひょっとすると、ビヤールの恋人は美人ではないかもしれない。彼の恋人が醜女なら、ぼくは元気を取りもどせる。
 「きれいな人ですか?」なにげなく訊いてみた。
 ビヤールは、不躾な人間特有の自信に満ちた口調で答えた。「最高だ。まだ十八歳なのに、もう、すっかり成熟した女のおっぱいだ」こう言いながら、両手を丸めて、彼女の乳房の位置をぼくに教えたのだった。
(「アンリ・ビヤール」より)

 翌晩、バトンはビヤールに恋人を紹介され、そこであることを発見して驚喜するのだが……おかしくも切ないバトンの〈ともだち探し〉はまだまだつづく。

(『ふらんす』2006年1月号より)


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ぼくのともだち

エマニュエル・ボーヴ著
渋谷豊訳

「孤独がぼくを押し潰す。ともだちが欲しい。本当のともだちが!」パリ郊外、孤独で無為な日々を送る青年ヴィクトールは、すれ違う人々となんとか心を通わせようとするのだが……