──『店じまい』
休みの日の昼ちかく、きょうも冷やし中華にしようかと考えるころ、ラジオで民謡をやる。
その土地の名人の声をきくと、いいなあと目をつぶる。歌っているひとの声に手をひかれ、いったことのない山河に出かける。
馬や船にゆられ、木を切る音や、水の流れを聞く。名物をたらふく食べ、暮れた里の艶っぽい酒宴にまで呼ばれる。ぽかんと聞いているだけで、いい休みになる。
まえは、あたらしい音楽を知りたがってばかりいて、尺八や太鼓がおっとりはじまると、べつの番組にしていた。
耳がなじんだのはこの五年で、銭湯のおかげだった。アパート近くの風呂にいくと、いつも民謡がかかっている。
Tシャツを脱ぐ。ばんざいついでに天井を見あげたままでいると、最上川音頭だった。湯気でくもったガラス戸のむこうで、カコンカコン、湯桶があいの手をうつ。
首のうしろからつむじまで、ぴんと張った声をききながら、おおきな熱い湯につかると、歌がかわる。のばす出だしの声といっしょに、息をはく。
会津磐梯山(ばんだいさん)は
たからの山
風呂をでて、汗のひくのを待つあいだ、歌のなかにしか残っていない景色をのんびりながめ、過ぎた一日をねぎらうように、うちわをつかう。
ひとと自然は、ずいぶん離れた。
このごろは、恋の心情ばかりになった。演歌に民謡の流れがあっても、のどかさがたりない。春の田畑にたなびく風よりも、嵐や吹雪にいどむような歌が多い。
なんでもない山、のどかな川をありがたい、ありがとうと喜ぶ。いつか、そういう歌をみやげにする旅がしてみたい。昔のひとたちは、そうやって土地の歌を持ち帰り、ひろめた。
番台には、おじさんとおばさんが交代で座る。ときおり目をつぶって聞いているから、民謡好きはおじさんかなと見ていた。
りっぱな玄関を見あげる。そこから女湯の中庭、裏の焚きつけ場まで、太い藤の枝が龍のようにのびている。
いつか、昼に通ったとき、植木やさんが枝をはらっていた。その翌年から、花のつきが悪くなった。藤は、はさみを嫌う木と覚えた。
細い路地をぐるりとついてくるから、葉がつくと夏に涼しい木陰ができた。藤は、花どきをすぎても、枝ばかりになる冬も、表情がある。毎日歩くうち、むかいの犬にもなつかれた。
子どものころは、犬は怖くてさわれなかった。いまも、吠える犬は、すこしひるむ。シロはもうおばあさんで、夕飯をやるついで、シロの家のおばさんが玄関さきに水をまく。そのあいだ、首輪をはずしてもらって、路地を自由に往復している。
犬小屋のまえから、ふわふわと歩いてきて、しっぽをふる。やさしい黒い目で、おかえりなさいと近づいてくる。そっとわきにくっつくと、銭湯の玄関までいっしょにくる。そうして、また明日ね。小屋に帰っていく。
冬のあいだは犬小屋にいて、目があうと出てきてしっぽをふってくれる。毎日顔をあわせ、シロのおかげで、犬はもう怖くなくなった。耳のあいだや首輪のなかに指をいれ、つくつくとかいてやれるようになった。
(「ひとそろいの湯」より)
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店じまい 石田 千 著 手芸屋、文房具店、銭湯、自転車屋……あなたの町にもきっとあった、あの店この店。日常のふとした瞬間に顔を出す懐かしい記憶の断片を、瑞々しい感性と言葉でたどる。 |



