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ちょっと立ち読み
あの小説のあの場面がもう一度読みたくなる──『神経内科医の文学診断』(2)

 このテキストはその後長い間、私の脳裏にとどまっていた。その理由の一つは、瞳孔反応がこんなに簡単に観察できることに対する素朴な疑問だった。ルグランダン氏を観察している「私」は、少なくとも相手から数メートルは離れていたであろうし、しかもその場面は、月夜のテラスでの晩餐の時である。日常的に自分が瞳孔反応を診察する時のことを考えると、そんな状況下においては、とてもこんな現象を観察できるようには思われなかった。しかし、その後パリで神経内科を学ぶようになって、この疑問は雲散霧消した。西欧の人たちの瞳孔のなんと見やすいこと。確かに、五メートル位離れている所からだって、相手の碧い目の中の瞳孔のサイズは、一目瞭然なのである。瞳孔の左右不同などを見つけるのは、本当にわけもないことであるのに驚かされた。

 それと同時に、西欧人が相手の目を見て話すことの意味が少しわかったように思った。ここに書かれているような瞳孔反応は、相手の話の中身が嘘か本当かをたちどころに示してしまう可能性がある。西欧人は、これを読みとるために会話相手の目を観察するのではないのだろうか。日本人同士だと、たとえ一メートルも離れていなくとも、相手の瞳孔の大きさを確認することなど、ほとんどできはしない。だから相手の目を見ていても、得られる情報が西欧人よりずっと少ない。こんな理由で、西欧人は日本人の言明の中の「本音と建て前」をよく読みとれないのではなかろうかとまで考えるのである。

 私にとってこの文章がどうにも忘れられなかったもう一つの理由は、文学と時間の問題を考えるきっかけを与えてくれたからである。だいたい、小説というものは時間経過を早めるのが普通であり、「そして十年が過ぎた」と書いてしまえば、いくらでも時間を早めることができる。ところがプルーストのこの文章は、私にとって、リアルタイム、ないしはそれ以上の時間の延長を実現しているように思えたのである。ちなみに、冒頭に掲げた精神性散瞳反応の記述を私が音読してみると、日本語の場合十三秒、原文テキストだと十五秒かかる。いくら瞳孔反応が遅い反応だとしても、これはいかになんでも遅すぎる。瞳孔反応の記述を音読するのには、実際の瞳孔反応に要する時間の数倍の時間を要してしまうのである。こうして私は、文学が時間を伸ばし得る力を持つという不思議さに驚かされた。

 しかし考えてみれば、こんなことは舞台の上では昔からの常識である。浄瑠璃だってオペラだって、憎い相手を一突きで刺し殺すのに何分もかかることはまれではない。実世界であれば、刺そうか刺すまいか、迷っていることをくどくどと歌っているうちに、相手はすたこら逃げ出してしまうはずである。実際には一瞬で終わってしまう緊迫した場面であればあるほど、しばしば舞台の上では時間がかかる。これもまた、文学が時間を操作できることを示す例であろう。これは言葉があってこその現象である。

 ところがある時、言葉によらない時間の操作を舞台の上で見る機会を得て、たいへんに驚いた。一九八八年、太田省吾の転形劇場のラストステージ『水の駅』である。前々からおつきあいのある社会思想史研究家の内田芳明さんが、「岩田さんも、時には芝居くらい見に行かなくてはいかんよ」とおっしゃって、私を連れていってくださったのである。

 『水の駅』は、取っ手のこわれた水道の蛇口がぽつんと一つあるだけの舞台で、沈黙のまま演じられた。蛇口からは細い水の糸が流れ続けていた。その水場をさまざまな人が通り過ぎ、いろいろな形で水と接し、そしてまた去っていく。その全ての動作が、実にゆっくりとしたテンポで、まるで超スローモーションビデオのように演じられる。その基本テンポは、二メートルを五分で歩く速度であるという。この風変わりな舞台が終わった後、内田さんは太田省吾に私を紹介してくださり、舞台裏の部屋で劇団の方々としばらく飲み、かつ語った。この時、私は時間の操作ということをまだよく理解していなかったが、後に太田の書いた『劇の希望』(筑摩書房)を読んで、彼がねらったものがまさにこの時間の操作であることを知った。彼によれば、「現実のテンポを早めたものが劇だと考えられ、〈ドラマとは、人生の退屈な部分を削除したもの〉となる。テンポをより早めるために要約を強めるのである。劇のフィクションは、要約を強めテンポを加速させるための機構のように扱われている」。「しかし、」と彼は続ける。「要約は、早足の世界に生きるための、処世の策であり、フィクションは、むしろ要約を停止させる機構であってよいのではないか」。このようにして、『水の駅』は、極めて日常的な「なんでもないもの」を、要約したり、概念化したり、一義化したりせずに、なんでもなく見ることを可能にするため、あえて時間を操作しているものなのだということが、私にもわかってきた。そして、プルーストの『失われた時を求めて』は、文学における、要約するためにそぎ落とされ失われた時間を取り戻すための試みであったことが、はっきりと理解できるようになったのである。

(第三章 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』──瞳孔反応──)

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神経内科医の文学診断
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神経内科医の文学診断

岩田誠 著

脳と神経の第一人者が、谷崎潤一郎『鍵』、プルースト『失われた時を求めて』、タブッキ『レクイエム』など30作品を診る。全く新しい視点から小説を読み解く知的エッセイ。
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