──デンマークの新聞に、イスラームの預言者ムハンマドをテロリストとする風刺漫画が掲載された。そもそも偶像崇拝を否定するイスラームでは、預言者の描写も禁じられている。これは表現の自由なのだろうか。著者はこう語りかける。
「表現の自由」という主張を繰り返すヨーロッパの政治家や編集責任者を見て、私は真っ先にバーミヤンの仏像を思い出した。「我々は、表現の自由と相反する考え方は認めない。したがってその自由の行使によって一三億の人々の尊厳が傷つけられてもかまわない」という姿勢は、「我々はイスラーム以外の宗教を認めない。したがって、世界がいかに抗議しようと仏像は排除する」と言ってバーミヤンの仏像を破壊したターリバーン政権とよく似ている。「表現の自由」という宗教の原理主義者とも呼べるだろう。
漫画を掲載した雑誌の編集長は、「これは異文化の衝突だ。ここは私たちの国なのだから、彼ら(イスラーム教徒)は、私たちの文化(表現の自由)を受け入れるべきだ」という内容の発言をしている。それならば、ターリバーンが支配するアフガニスタン国内でだれの宗教を冒瀆しようと自由だということになる。仏像破壊が実際に存在する物を壊す物理的な行為であるという違いはとるに足らない。「ムハンマド」がある人々にとってはただの名前であるように、仏像はある人々にとってただの石かもしれない。しかしそれらを聖域とする他人がいるかぎり、それを尊重してこそ文明人ではないのか。
しかも彼らは、表現の自由という宗教の原理主義者ですらない。なぜならこの自由には、然るべき制約が課されている。ホロコーストの否定は許されないし、ユダヤ教徒に対する差別的な風刺は訴追の対象になるのだ。
「でも、このような風刺の対象になっているのは、本当にイスラームだけだろうか」
と、ドイツ人の親友が言った。
「たとえば僕は、中絶クリニックから出てくる女性を、手に持ったキリスト像で殴る保守派の漫画は、ヨーロッパでもおおいにあり得ると思う」
「じゃあ、中絶クリニックから出てくる女性をキリストが殴る漫画は?」
そう私が聞き返すと、彼ははじめて、「そうか、だいぶ違うね」と納得してくれた様子だった。一方で私も、いかにこの問題の本質が多くのヨーロッパ人に理解されていないかを痛感した。
イスラームが対象となるときのみ表現の自由が絶対なのであれば、イスラーム教徒がそこに悪意と傲慢のダブルスタンダードを見出しても仕方がないだろう。さきほどのドイツ人男性を含め、私が話した西洋人はみな、この風刺漫画を「故意な挑発」だと考えていた。
(中略)
「文化の違い」というのは、便利なようでやっかいな言葉だ。確かに文化は違うのかもしれないが、壁にぶつかるたびに「文化の違い」を引き合いに出しても、それは外交的オブラートに包んだ優越意識の影がちらつく空虚な言い訳でしかない。これはどちらにとっても不利だ。イスラーム世界で起こることをすべてイスラームやイスラーム文化で説明しようとする誘惑は理解できる。その方がどんなに簡単か知れない。しかしそれと同じことをイスラーム側がすれば、西洋にとっても面白くないことになるはずだ。
──では、どう考えることができるのだろうか。
……たとえ預言者の描写を禁じる教義がなかったとしても、彼らが会ったことも、おそらくその人格や思想について学んだこともないムハンマドという、歴史に巨大な足跡を残した生身の人間を嘲笑しようという姿勢そのものに、私は疑問を感じる。 宗教を抜きにしても、表現の自由には限界がある。その境界線を引くのは、私たち人間の品位だ。人の品位に文化の違いはない。
(「表現の自由という原理主義」より)
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イスラームから考える 師岡カリーマ・エルサムニー 著 ベール、風刺画、原理主義、パレスチナ問題……。イスラームに関する報道から私たちは何を考えていかなければならないのか。いまを生きるための一冊。酒井啓子氏との対談も収録。 |



