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ちょっと立ち読み
ピュリツァー賞受賞作品
──『倒壊する巨塔 アルカイダと「9.11」への道』(1)

 一九九六年三月十七日、聖パトリックの祭日。FBI(米連邦捜査局)のニューヨーク支局で対外諜報を担当するダニエル・コールマン捜査官はその日、ヴァージニア州タイソンズ・コーナーにむかって車を走らせていた。数週間前のブリザードが残した灰色に汚れた雪で、歩道はいまだ埋まったままである。グロスター・ビルディングという名前の、これといって特徴のない政府系の建物に入り、エレベーターで五階にあがる。そこがコールマンの新しい職場、CIA(米中央情報局)のいわゆる「アレック支局」だった。 CIAは世界各国に支局を展開し、当該地域を担当させていたが、そこは初の〝ヴァーチャル支局〟で、場所は本部から目と鼻の先。組織図上は「対テロ・センター」の下に置かれていた。「テロ資金リンク課」というのが正式名称だったけれど、その主要任務は、最近活動の目立つとあるテロ資金提供者の動向監視にあった。男の名は、ウサマ・ビンラディンといった。コールマンがビンラディンの名前を初めて耳にしたのは一九九三年のことである。「サウジアラビアのさる王子」がイスラム過激派組織を支援しているという話が、外国情報筋からもたらされたのだ。その過激派組織はニューヨークの代表的建造物の爆破を企んでいると。標的の候補リストには国連本部ビル、リンカーン・トンネル、ホーランド・トンネル、そして「フェデラル・プラザ26」―コールマンが当時働いていたFBIニューヨーク支局も入っている連邦合同庁舎ビル―などがふくまれていた。それから三年。FBIはようやくコールマンを出向させて、CIAがこれまで収集した情報を精査し、この人物を捜査対象とすべきかどうか検討することになった。
 アレック支局はすでにビンラディンにかんする三十五巻もの資料を保有していた。ただ、その大半はNSA(米国家安全保障局)の電子の耳が拾ってきた電話の通話記録にすぎず、実際にチェックしてみると、重複が多く、これという決定打に乏しかった。それでも、コールマンはビンラディンを捜査対象とすることを決断した。この「イスラム主義者の金庫番」がもし万が一、より危険な存在に化けたときの備えからだった。
 FBIの多くの捜査官がそうであるように、ダン・コールマンもやはり、ソ連との冷戦をたたかう要員として訓練された。彼は一九七三年、当初は事務職員としてFBIに入局した。だが、たぶんに学究肌で知的好奇心に富んでいたことから、対敵防諜部門に引っ張られたのはごく自然ななりゆきだった。一九八〇年代、コールマンは国連の周辺に掃いて捨てるほどいる共産圏出身の外交官を相手に、彼らを寝返らせ、アメリカのスパイに仕立てあげる任務に邁進した。たとえば、ある東ドイツの随行員はまさに宝の山だった。しかし、肝心の冷戦が突如として終結したため、コールマンは一九九〇年、中東のテロリズムを担当する特捜班に異動となった。彼にはこの新分野に取り組むだけの基本的知識がほとんどなかったが、事情はFBIも同様だった。なるほどテロはトラブルの元ではあるけれど、真の脅威ではないというのが従来の通念だったから。ベルリンの壁が崩壊し、この晴れわたった空のもと、超大国アメリカに刃向かえる敵がいまも残っているなんて話は、およそ信じ難かった。
 そして一九九六年八月がやってきた。ビンラディンがアフガニスタンの洞窟の奥から、アメリカにむけ〝宣戦布告〟をおこなったのである。あえてアメリカとの戦いに踏みきる理由として、ビンラディンが掲げたのは、湾岸戦争終結からすでに五年が経過するのに、アメリカ軍がいまだサウジアラビアに居すわっている現状への怒りだった。「きみたちがわれわれの土地に軍隊を持ちこんでいるあいだ、きみたちにテロ攻撃を加えることは、正当なる権利であり、道徳的な義務でもある」とビンラディンは明言していた。この冗長な文書は、ムスリム(イスラム教徒)のかかえる法的問題にかんする宗教的見解の表明、すなわち「ファトワー」(教義判断)という体裁をとっていたが、その一部は当時の米国防長官、ウィリアム・ペリー個人に向けられていた。「きみに伝えよう、ウィリアム。これらの若者はきみたちが生きることを愛するように、死を愛していると。……これらの若者はきみに説明を求める気はない。彼らは大声で唱えるだろう。われわれのあいだに説明が必要なものは何もなく、ただ殺傷あるのみと」
 だがしかし、サウジアラビア出身のこの反体制派人士の名前に当時聞き覚えがあったり、あるいは多少なりと関心を持っている人間は、アメリカ全体どころか、FBIの内部でさえ、コールマンを除いて、ほとんどいないのが現状だった。アレック支局の三十五巻の資料が描きだすのは、救世主的な資質をもった億万長者―という人物像だった。ビンラディンは、サウジ支配層と深い関係を築き、きわめて羽振りがよく、影響力も強い富豪一族の出身だった。ソ連のアフガン占領に抵抗するジハード(聖戦)に参加したことでその名をあげた。そんな人物が何でまたアメリカに〝宣戦布告〟をするのか、その真意はどこにあるのだろう。コールマンは、この文書でさかんに言及される十字軍と初期イスラムをめぐるさまざまな抗争について理解しようと、歴史書をたっぷり読んでみた。実際のところ、この文書の衝撃的な特徴のひとつは、時の経過が千年前で停止しているように思える点だった。現在があり、千年前の過去がある。しかし、その中間には何もないのだ。ビンラディンの世界では、さながら十字軍がいまもまだ続いているようだった。その怒りの激しさも、コールマンには理解しがたい点だった。このような人物に、われわれはどう対処したらいいのだろう、とコールマンは思案した。
 まずはビンラディンの「ファトワー」のテキストを、ニューヨーク南部地区の連邦検事たちに見せてみた。どこまで本気か分からず、突飛なところもあるけれど、これは犯罪を構成するようなものだろうかと。法律の専門家たちは、一種独特の言葉遣いに困惑しつつも、とりあえず法的判断を示してくれた。暴力行為をおこなうよう他人をけしかけている点、合衆国政府の転覆を企てている点に鑑み、南北戦争期にまでさかのぼる治安攪乱罪にめずらしく抵触するのではないかと。アフガニスタンのトラボラ地区の洞窟にいる、祖国を追われたサウジアラビア出身の一個人に対して、アメリカ法の適用を考えることは、いささか拡大解釈に思われるかもしれない。だが、コールマンは、根拠に乏しいそうした先例を基礎にして、刑事事件の捜査を開始する。やがてビンラディンは、FBI史上最大の指名手配犯になっていく。ただこの時点では、コールマンは依然として、孤独なひとり旅を強いられていたのだが。

倒壊する巨塔
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倒壊する巨塔
アルカイダと「9.11」への道
ローレンス・ライト著/平賀秀明訳

ビンラディン、ザワヒリ、FBI捜査官の軌跡を丹念に追いかけて、等身大の姿を描く。徐々に惨劇に向かって収斂していく様には、まさに戦慄を覚える。ピュリツァー賞受賞! 手嶋龍一氏推薦!

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