……『哲学者とオオカミ──愛・死・幸福についてのレッスン』
わたしはこの本で、ブレニンという名のオオカミについて語ろうと思う。一九九〇年代の大半と二〇〇〇年代の初めまで、十年以上にわたってブレニンはわたしといっしょに暮らした。根無し草で落ち着きのないインテリと生活を共にすることで、ブレニンは並外れてたくさんの旅をするオオカミとなった。住んだ場所はアメリカ合衆国、アイルランド、イングランド、最後はフランスだった。また、たいていは不本意ながらであるが、地球上に生きたどんなオオカミよりも多く、無料で大学教育の恩恵を受ける身となった。読みすすめていただければ分かるように、もしブレニンを家にひとり残しておいたら、我が家とわたしの所有物は悲惨な結果になっていたに違いない。そのため、ブレニンを仕事場に連れていくほかなかった。そしてわたしは哲学の教授だったから、ブレニンも授業について来ることになった。わたしが哲学者や哲学についてブツブツと単調な話をしている間、ブレニンは教室の隅に寝そべり、居眠りするのが常だった。これは学生たちと本当によく似ていた。ときどき、講義がことさら退屈になると、ブレニンは体を起こして、遠吠えをあげた。こんな習慣があるものだから、ブレニンは学生たちから愛された。学生たちも、同じことをしたいと思っていたに違いない。
この本ではまた、人間であるということが何を意味するのかについても語りたい。といっても、生物学的な存在としての人間ではなく、他の生き物にはできないことができる生き物としての人間である。わたしたちが自分自身について語るとき、月並みにくり返されるのは、人間がいかにユニークであるかという点である。ある人は、人間のユニークさは、文明をつくり出し、それによって必死に自分自身を自然から守る能力にあると言う。別の人は、人間は善悪の区別を理解できる唯一の生き物で、それゆえに真に善者にも悪者にもなれる唯一の生き物なのだと指摘する。あるいはまた、人間は理性をもつがゆえに特別なのだと主張する人もいる。非理性的な野獣の世界にあって、人間は唯一の理性的な動物なのだと。さらにはまた、口がきけない動物たちと人間とをはっきり区別するのは、言語の使用だと考える人もいる。ある人は、人間には自由意志をもつ能力があり、自由に行動できるからユニークなのだと言う。また別の人は、人間だけが愛することができるからこそ、ユニークなのだと考える。さらには、人間だけが自然そして真の幸福の基盤を理解できると言う人もいる。人間がユニークなのは、人間だけが自分がいつかは死ぬということを理解しているからだ、と考える人もいる。
わたしはこれらの所説のどれ一つとして、人間と他の生き物の間に横たわる決定的な深淵の根拠だとは思わない。わたしたちが、他の生き物ではできないだろうと思っていることの一部は、実際には他の生き物でもできる。一方で、人間ならできると思っていることの一部は、実際にはわたしたちはできない。その他については、事の種類というよりもたいていは、いわば程度の問題である。これらの所説とは違って、わたしたち人間のユニークさというのは単に、人間がこうした所説を語るという事実、しかも自分自身にこうした所説を信じ込ませることが実際にできる、という点にある。もし、わたしが人間の定義を一言で表現しようとするなら、次のようになるだろう。「人間とは、自分自身について自分が語る所説を信じる動物である。人間というのは、根拠なしに軽々しく信じやすい動物なのだ」と。
(第1章「クリアリング」より)
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哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン マーク・ローランズ 著/今泉みね子 訳 気鋭の哲学者が仔オオカミと出会い、共に生活しその死を看取るまでの驚異の報告。野生に触発されて著者は思索を深め、人間存在についての見方を一変させる画期的な研究を結実させる。 |



