……『ヒルティ 幸福論 Ⅰ(新装版)』
哲学的見地からはいくらでも反対できると思うが、人間が意識にめざめる最初の瞬間から、意識の消滅にいたるまで、最も熱心に求めるものは、やはり何といっても幸福感である。そしてかれが体験する最も苦痛にみちた瞬間は、この地上では幸福はまったく見出すことができないのだ、と完全に確信したときである。(「幸福」より)
今日どこにルターのごとき人がいるだろうか? あの信じられないほどの短期間に、あのような仕事をなし終えて少しも参らず、少なくとも半年、一年といった「休養」も「息抜き」も必要としない。それで出来上がった聖書翻訳は、この種のものとしていまだこれを凌駕するものがないというものである。今日の学者の中で、その著作がついに数百巻の二折判をみたすという者があるだろうか? あるいは芸術家の中に、ミケランジェロやラファエルのように、絵をかくことも、建築することも、彫刻することも、詩作することも同時にできるような者、あるいはティツィアーノのように、毎年温泉や療養地に行くでもなく、九十歳に及んでなおさかんに働いている者がいるだろうか? してみれば、今日の性急さと神経質の原因は、近代人が過去の人々より、より多く、よりよきものを作り出しているという点には全然求められない。おそらく多大の休息は取らないでも、焦躁を知らずに生きて、しかも何事かをなしとげるということが、可能なのに相違ないのである。(「時間をつくる方法」より)
求められている休息は、何よりもまず、精神と肉体をまるっきり遊ばせている、あるいはそれに近いような状態においては来ることがないということである。むしろ逆に、休息は両者を適切に活動させる場合にのみ生ずる。人間の本性は、活動するようにできているのであり、これを勝手に変えようとすれば、本性は容赦なく復讐する。人間はいうまでもなく休息の楽園から追放された身である。しかし神は人間に働けと命じられたが、そのやむをえない働きに同時に慰めを付け加えられた。ほんとうの休息はそれゆえ、活動のさなかにのみ生ずる。精神的には、仕事が着々と発展したり、課題が為しとげられたのを眺めることによって生じ、肉体的には、毎日の睡眠、毎日の食事、また無上の休養のオアシスたる日曜日といったもので、自然的に与えられる中間的な休みの時に生ずる。こうした自然的な休憩にのみ中断をゆるすだけの、絶えざる有益な活動の状態こそ、地上における最も幸福な状態である。人間はこれよりほかの外面的な幸福を望むべきではない。いや、さらに一歩をすすめて、こう言い加えてもいい。この場合、仕事の性質などはたいした問題ではないのだと。たんなる遊びでないかぎり、あらゆるほんとうの仕事は、人間が真剣にそれに没頭しさえすれば、たちまち興味深くなってくるという性質を持っている。仕事の種類が幸福にするのではなくて、創造と成功の歓喜が幸福にするのである。およそありうるかぎりの最大の不幸は、仕事のない生活であり、生涯の終わりにその実りを見ることのない生活である。(「仕事をするこつ」より)
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ヒルティ 幸福論 Ⅰ (新装版) カール・ヒルティ 著/氷上英廣 訳 幸せになるための処世訓として、質・量ともに世界一の名著(全Ⅲ巻)。第Ⅰ巻として、「仕事をするこつ」「エピクテトス」「良い習慣」「時間を作る方法」など8篇が収められた新装版。 |



