女王が果たしつづけている責務のひとつに議会の開会があるが、以前はこれを負担に感じたことは一度もなく、それどころかむしろ楽しんできた。晴れやかな秋の朝、宮殿前の大通りを馬車で通ってゆく楽しさは、五十年たってもやはり格別だった。だが、もはやそうは思えない。全部終わるまで二時間もかかると思うとげんなりしたが、幸い無蓋の馬車ではなく大型四輪馬車なので本を持って行くことができる。女王は本を読みながら手を振るのがとても上手になった。本を馬車の窓より下に置き、沿道の群衆ではなく本に集中するのがコツである。公爵はもちろん苦々しい顔をしていたが、ありがたいことにこのやり方でうまくいった。
すべては順調だったが、宮殿の前庭で行列を組み、女王が馬車に乗りこんで出発の準備が整ったところで、彼女は眼鏡をかけ、本を忘れたのに気づいた。公爵は隅で憤慨し、御者はそわそわし、馬たちは身じろぎして馬具を鳴らし、ノーマンの携帯電話が鳴った。近衛兵は休めの姿勢で立ち、行列はその場で待っていた。担当の将校は腕時計を見た。二分遅れだ。時間に遅れるのを陛下がどれほど嫌っているか、よく知っている彼は、本のことなどつゆ知らず、この不手際が必然的に招く結果を心配した。そこへノーマンが賢明にも本をショールに隠し、砂利の上を走ってきたので、一行は出発した。
不機嫌な女王夫妻はかなりのスピードで広い並木道を運ばれてゆく。二分の遅れを取り戻すためである。公爵は自分の側から猛烈に手を振り、女王は反対側から気のない様子で手を振っていた。
国会議事堂に到着すると、女王は問題となった本を帰りにも読めるようにと馬車のクッションのうしろに押しこんだ。玉座について施政方針演説を始める際には、自分がこれから読みあげなければならない駄文がおそろしく退屈なことと、事実上これが国民に向かって朗読する唯一の機会であることを意識していた。「わが政府はこれをする……わが政府はあれをする」あまりにひどい悪文で、格調もなければ面白みのかけらもなく、朗読という行為自体をおとしめるものであるような気がした。おまけに女王自身も数分の遅れを取り戻そうとしたため、今年は例年よりいっそう聞きとりづらい朗読になった。
馬車に戻ってほっとし、クッションのうしろに手を伸ばしたが、あるはずの本がない。ごとごとと走ってゆく馬車の中から絶え間なく手を振りつづけながら、女王はひそかに他のクッションのうしろも探った。
「あなた、上にすわってない?」
「何の上に?」
「私の本」
「いや、すわってない。在郷軍人会の人たちが来てるぞ、車いすの人たちも。頼むから手を振ってくれ」
宮殿に着き、グラントという若い従僕に訊いてみたら、女王が上院にいるあいだに爆発物探知犬がかぎまわり、警備の者が本を押収したのだという。おそらくもう爆破されただろう。
「爆破?あれはアニタ・ブルックナーの小説よ」女王は言った。
若者は見るからに無礼な態度で、爆発物だと思ったのかもしれませんと言った。
「そうね。まさにそのとおりよ。本は想像力の起爆装置ですもの」
従僕は答えた。「そうですね」
まるで自分の祖母に向かって話しているかのような口調だった。女王はあらためて、自分の読書に対する風当たりの強さに気づかされて、不愉快な気分になった。
「わかりました。それなら警備の人に同じ本を見つけてくるように伝えてちょうだい。念入りに調べて爆弾がついてない本を明日の朝までに私の机に届けておくように。それからもうひとつ。馬車のクッションが汚れてるわよ。この手袋を見てちょうだい」陛下はそう言って立ち去った。
「くそっ」従僕は膝丈のズボンの前から本を引っぱり出した。そこに隠しておくように言われていたのである。しかし、だれもが驚いたことに、行列の遅れに関しては、公式には何のおとがめもなかった。
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やんごとなき読者 アラン・ベネット著/市川恵里訳 飼い犬が縁で、読書に目覚めた女王エリザベス二世。読書は彼女に喜びと、ひとつの疑問をもたらした。女王ではない、「わたし」の人生とは、何……? 英国ベストセラー小説! |



