内田 野田さんのやっていることは日本と英国の文化的な葛藤、摩擦の渦中で、演劇的言語をすりあわせする仕事でしょう。
野田 そうですね。あえていえば、文化というのは摩擦の中からしか生まれないと思うのです。摩擦であり、衝突であり、時にそれが調和して、何かが生まれるということなんだなあ、と感じます。別の言葉でいえば、なかなかきれいごとではすまない。稽古場での罵倒とかにもやっと慣れたし(笑)。罵倒というか、イギリス人はしゃべりたいだけしゃべる。
内田 演劇の作り方が違う?
野田 議論が毎日沸騰している。ただ、解釈することで生まれることと、舞台に立ってみて身体的にわかることがある。僕なんかは、とにかく考える前に舞台に立っちゃう。議論することと、立ってやってみることとが、今回はちょうどいいくらいのバランスだったんじゃないかな。
彼らは一個の結論を出すまで議論しつづけてしまうんですよ。結局、一個の結論さえ出ないこともある。何時間も議論して一体なんだったの、ということになる。彼らもわかってきたんですよ。それよりか、三つくらいのオプションまで絞り込んで、やってみればいい。そういうことに関しては、トライしてみようか、という雰囲気にはなってきました。
たとえば、はじめ被害者だったイドが犯罪者オゴロの妻を訪ねていくと、彼女が「ごめんなさい、これから誕生日ケーキを作って、友達のところにこの子を預けて、また仕事に出なくちゃいけないの」と話すシーンがあります。イドがキャサリン、妻がオレです。そのときのアイム・ソーリィをオレが嫌な女ふうに、表面的に読んだら、それに対してキャサリンたちが、ヒデキ、そのアイム・ソーリィは本心で言っていないでしょう、でも本当は本心で言っているのかもしれないよ、と指摘してきた。本当にごめんなさい、という気持ちかもしれませんよ、と。
いろいろ話してみると、確かにこの女はそうかもしれない。イドという男から「妻子を監禁されてしまった、犯人の妻であるあなたから何とか言ってくれ、助けてくれ」と言われたとき、少し心が動く。動いたけれど、夫のオゴロという犯罪者の性格をよく知っているから、これはだめだ、自分の説得などに応じるはずがない、と思いいたる。それで最終的に、ごめんなさい、誕生ケーキを作らなきゃいけないので、という流れになれば、オゴロの妻の造型はきちんとできる。そういう役の作り方はイギリス的ですね。
日本に演出家のデヴィッド・ルヴォーがきたとき、日本の役者たちがみな驚いたのはセリフの読みこみに、そういう突っ込み方をしたからです。本来は日本の新劇がやりたかったことですよね、ところが実際はなかなかできなかった。セリフを読み解く緻密な作業は、オレにとって非常に新鮮なんです。自分自身は考える前に立つプラクティス、トライ型ですから。イギリスの役者はそのあたりで、バランスをもってできる。
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野田秀樹 [シリーズ:日本の演劇人] 内田洋一 責任編集 日本の演劇界を代表する人気劇作家の真の姿を、生まれ故郷やロンドン公演取材を中心に、多方面から浮き彫りにする。幻の処女作「アイと死を見つめて」や東大新聞連載評論を初掲載。 |



