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ちょっと立ち読み
ドメスティック・バイオレンス 

 「生まれ変わっても、またこの人と結婚したい」
 と七十歳になる夫が言う。
 「私は……。疲れましたね」
 と妻が言いよどむ。「この人が二年前に病気で倒れるまで、私はおびえて暮らしていました」「よく殴られました」

 これは離婚調停の記録ではない。最近、ある週刊誌に載った有名人の夫婦のインタビュー記事である。読みながら私は暗澹とした気持ちになった。夫は名の知れた政治評論家。夫は妻に対する暴力については「殴りましたねえ」と、いともあっさり認めている。二年前に病気になって妻に頼らざるをえなくなり、それからは妻に感謝の気持ちを述べるようになったことが、インタビューのなかで美談のように語られている。妻がこの結婚生活に対して複雑な気持ちをもっていることは、その言葉の端々から読みとれるが、夫にはまったく伝わっていないようである。

 「私は疲れました」「おびえていました」という妻の言葉の意味するものは、おそらくこの雑誌の記者にも伝わっていないのだろう。外では有能だが家に帰れば駄々っ子のような夫と、それに手を焼きながらもほほえましく見守っている妻という日本的な風景のなかに、この妻の言葉は押しこめられてしまっている。

*     *     *

 ドメスティック・バイオレンス(domestic violence)――日本語でいえば、家庭内の暴力。ふつうはパートナー間の暴力を指す。もっとわかりやすくいえば夫婦間暴力、とくに夫から妻への暴力ということになるが、そう訳して終わりにしてしまえないのは、夫婦ではないケースもかなり多いからである。

 私は対人暴力被害者に対する精神的援助を専門としているので、殺人事件の遺族や性暴力の被害者、児童虐待の被害者など、さまざまな形の暴力の被害者に出会う。社会の無理解や法律の不備のために、多くの被害者が、偏見やいわれのない非難にさらされて、さらに傷つくことが多いのだが、なかでもドメスティック・バイオレンスの被害は、わかりにくく、誤解されやすく、また援助がむずかしいと思うことが多い。

 ここ二、三年、「女性に対する暴力」の中心的な課題として、ドメスティック・バイオレンスという言葉は、あっというまに日本全体に広がった。けれども、この言葉を使う人たちがみんなほんとうにわかっているのか、心配になることがよくある。週刊誌の夫婦インタビュー記事を書いた記者も、きっとドメスティック・バイオレンスという言葉は知っていたにちがいない。でも、この夫婦に深刻な問題があるとは感じなかったのではないだろうか。

 たとえば、酒に酔っては夫が妻を殴るので、妻は骨折したこともある、流産したこともある、と書けば、だれしもそんな男は言語道断であると考える。そしてそういう男は、人相も悪くて、いつも乱暴で、妻以外の人との対人関係もふつうではなくて……などと想像するだろう。

 でも、そうではないことが多い。あなたのとなりの、ごくふつうに仕事をし、ふつうに話をしている人が、そういう暴力をふるっていたらあなたはどう思うだろうか。あるいはその人が会社の経営者や、学者や社会のエリートといわれる人たちで、仕事についてはまったく問題のない人たちだったらどう思うだろうか。「そりゃ、奥さんにも悪いところがあったにちがいない」と思わないだろうか。

*     *     *

 (暴力を)ふるっている男性は、それが「暴力」であるという認識をもつことがむずかしい。つけ加えると被害にあっている女性も、これを被害であると認識することがむずかしい点では同じである。こういう女性は精神的にも追いつめられて、自分が死ぬか、相手が死ぬかどちらかしかないとまで考えている人が多いにもかかわらず、そうなのである。

ドメスティック・バイオレンス
もっと詳しく
ドメスティック・バイオレンス 
小西 聖子 著
税込価格1890円 (本体価格1800円)

 いわれなきパートナーの暴力、二人でいることの不安と恐怖、ジェンダーがもたらす密室の悲劇……最も深刻でありながらなお閉ざされた今日の病理を、カウンセリングの現場から探る。 【編集者よりひとこと】 これは世界中の女性がかかえる深刻な問題です。けっして他人事ではない、あなた自身の身にふりかかるかもしれない、理不尽な出来事です。そのときあなたはどうするか。他国と比較しながら、日本の現状を分かりやすく説明しています。


【目次】
第一章 ドメスティック・バイオレンスとは何か

ある事例/パートナーの暴力/なぜわかりにくいか/児童虐待とドメスティック・バイオレンス/被害者らしい被害者
第二章 ドメスティック・バイオレンスの施策

女性に対する暴力/世界中で起こっていること/各国のドメスティック・バイオレンスとその対策/日本のシェルターとドメスティック・バイオレンス防止法
第三章 ドメスティック・バイオレンスの実態

さまざまな形態/日本のドメスティック・バイオレンス/日本で行なわれたドメスティック・バイオレンスの調査/東京都の調査から
第四章 なぜ逃げないのか

支配する力/洗脳とドメスティック・バイオレンス/パワーによる支配/暴力と性差/ジェンダーによってもたらされるパワーの差
第五章 被害者と加害者の心理

被害者の心理と症状/被害を受けることの「意味」/精神医学的症状/精神科とドメスティック・バイオレンス/加害者への介入/加害者のタイプ/被害の過小評価と否認/ドメスティック・バイオレンスの多軸性/同居していないパートナー間の暴力/パートナーの対人関係
第六章 ドメスティック・バイオレンスへの対応

現在の日本の状況と問題/実際に被害を受けていたらどうすればいいのか/被害者への支援と対応/加害者への対応
あとがき
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