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ちょっと立ち読み
父 荷風 

 荷風没後四十五年、私は半生の半分以上を、荷風の遺品とともに過ごしてきました。本文でもふれましたが、私は望んで荷風の養子になったわけではありません。まだ私が小学生だったころ、時局の前途を案じる二人が決めたことでした。

 警察の検視が終わったばかりの荷風の遺体を前にして以来、私はいろいろな意味で荷風と対面せざるをえない状況にありましたが、私は私なりに、その意味を問いつめてきたつもりです。

 その思いを整理してみようと、話したいこと、話したくないことを含めまとめたのが本書です。 (「あとがき」より)

*     *     *

 家は図のようになっています。玄関を入って左側の、離れのような八畳間が荷風の部屋になりました。家でいちばんいい部屋です。(中略)

 猫が十三匹いました。簡単に捕まるような猫ではありません。

 荷風は玄関を入って、そのまま八畳の離れに入りました。前庭に面して腰高の丸窓がありました。

 荷風の部屋からは、濡れ縁で外に出られるようになっていました。荷風は、部屋から便所に行くために私たちの部屋の前を通るのがいやだったのでしょう。濡れ縁で放尿をしていました。母が後に、敷居が腐っていたと言っていました。荷風はよく畳の上を下駄や靴をはいたまま歩いていましたし、煮炊きを部屋の中でしていました。畳はコゲだらけでした。

 私たちが暮らしていたのは、おもに奥の八畳、六畳、四畳半です。三味線の稽古は八畳でやっていました。

 機嫌がいいと荷風は、熱海のときのように私たちの部屋に来て、柱に寄りかかって足を伸ばしたり、立て膝をして、世間話をしていました。年がら年じゅう、自分の部屋に引きこもってばかりいたわけではありません。

 父も稽古ばかりの毎日ではありませんでした。たいていは午前中で、ラジオも夜に少しかける程度でした。

 しかし荷風はこうした音に異様なほど嫌悪感をあらわにしました。長唄の師匠の家にみずから頼んで同居しているのですから、普通なら遠慮して我慢するところでしょう。しかし、その家のいちばんいい部屋に住んだ荷風は、三味線の音が始まると、容赦のない独特の嫌がらせをしたのです。  火鉢の上に一本の火箸をのせ、それをもう一本の火箸で叩くのです。カチカチ、カチカチ……。決して「うるさい」と言葉では言わない。金属音による抗議です。ただし、父はそれには取り合いませんでした。

 父が遺した『五叟遺文』には、荷風のこんな様子が記されています。

 昨夜、先生茶の間に入り來り、電燈を笠も球も目茶目茶に壊し、香衣と永光に「こはれたものは仕方がない、おれがこはしたと云ふな」と云ったまゝ戸外に走り出せしと、両人笑ひながら顛末を語る。何が故に電燈を破壊せしや理由や情景想像も出来ず。世に文豪と謂はれる人の、日常の子供にも似た仕業可笑し。(昭和二十一年十月十六日)

 夜、成友に紅葉詣教授す。十一時頃爪弾の三味線の音、気に障りてか先生雨を犯して外出三十分ばかりにて帰宅せらる一種のゼネストか。三味線弾の家にては三味線の音を忌避せらるゝは無理なり。老いても尚我儘の盛なる、気の毒にもなれり(昭和二十一年十月二十二日)(中略)

 ちなみに、同じ日の『断腸亭日乗』は以下のように記されています。

 午後、海神に徃く、日暮帰らむとする時主人東京より来る、またまた晩餐を饗せらる、(昭和二十一年十月十六日)

 午後海神、夜十時過寝に就かむとするに隣室より弦歌の声起る、十一時になりても歇む様子なし、已むことを得ず雨中暗夜の町を歩む、(同十月二十二日)

父 荷風
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父 荷風 
永井 永光 著
税込価格2520円 (本体価格2400円)

 永井荷風の養子となった著者が、戦前・戦後、代々木・熱海・市川など、同じ屋根の下に暮らした文豪との生活を、貴重な写真の数々とともに初めて明かす、ファン待望の書き下ろし力作。

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