●“柔道家”フォレストの肖像
ミカエル・フェリエ/翻訳:小黒昌文
フィリップ・フォレストという人物を紹介しようとすると、自然とひとつのイメージが頭をよぎる。ある柔道家の姿である。恰幅のいい身体つきや、髪を短く刈り込んだ頭、足取りや身のこなし——水の入ったコップを手にしたり、葉巻に火をつけたりする仕草——のうちにある悠長な、しかし洗練を欠くことのないある種の佇まいが、きまって私に、山下泰裕のことを思わせるのだ。この喩えに何かしら正確なところがあるとするならば、それは彼の容姿に限ったことではない。あの著名な日本の柔道家が重量級だったように、フォレストは現代文学において、重量級の名にふさわしい作家であり、ながきにわたってその歴史に名前を刻むために必要な、すべての資質を兼ね備えているのである。 ここで柔道を引き合いにだしたのは、たんに奇をてらうためではない。フォレストの重要性を理解するためには、今や10年以上も前から、彼が並々ならぬ熱意を傾け、大変な量の仕事を次々とこなしているという事実に目を向ける必要がある。フィリップ・フォレストの作品のすべては、ひとつの死、すなわち愛娘ポーリーヌの死から、生まれ落ちている。1996年、当時4歳だった彼女は、ガンのために亡くなった。この忘れ難い出来事があってから、フォレストの仕事は3つの方向へと広がってゆき、それは彼にとって——そして私たちにとっても——、この恐ろしい出来事について思考するための一助となってゆく。柔道では、対戦相手を倒して戦いに勝利するために、敵の力を利用する。それとまったく同じように、ポーリーヌの死こそが、哀しみの活力(エネルギー)を彼の作品にあたえ、なおかつしなやかさと優しさ、変わることのない優雅さをもあたえているように、私には思えるのだ。
子供の死を経てなお、いかにして生きながらえるのか。言葉による理想化や慰めに流されるのではなく、死をそのもっとも受け入れがたい様相のもとに語ることで、フォレストは苛烈ともいえる小説を書き綴る——『永遠の子ども』(L’enfant éternel)に書かれた娘の死についての描写は、あらゆるフランス小説のなかでも、もっとも容赦のない厳しさを持った描写のひとつである。彼にとって、書く行為とは、よりすんなりと「人生の再スタートをきる」(これは、ひじょうに強固な世間の決まり文句であり、the show must go on「それでもショーは続けなければならない」という、吐き気をさそうようなイデオロギーがその前提となっている)ために、娘の死の忘却を手助けすることを務めとするのではなく、この世界の真実を、その穏やかさと苦しみにおいて語るために、現実と死、困難極まりない喪を「引き受ける」ことを、その使命としている。それこそが、フォレストが「人生の優しき悪夢」と名づけるものなのだ。彼は4冊の見事な小説(注1)を通じて、死を、不在を、問いただす。フォレストは個人的な状況に基づいた思索のなかでそれを問いながら、読み手一人一人のひじょうに内密な領域にまで触れ、さらには、読み手を彼ら自身が経験した喪失や死の体験へと立ち返らせるのだ。
第二の方向。それはエッセーである。創作家には自分の作品について語ることなどないと思いたがる月並みな考え方とは逆に、フィリップ・フォレストは彼の世代でもっとも輝かしいフランス人エッセイストのひとりである。前衛芸術やテル・ケル(ソレルス、バルト、クリステヴァ、デリダらの周辺)についての仕事はよく知られているが、彼はバタイユやヌーヴォー・ロマン、自伝についても素晴らしい文章を書いており、パスカル・キニャールのような現代作家について思索を重ねる数少ない書き手のひとりでもある(注2)。彼の著作のこうした面には、社会学的な負荷(例えばTous les enfants sauf un, Gallimard, 2007にみられる、病院という世界についての、死に対する我々の関わり方についての、あるいは子どもの地位についての鋭敏な思索)が含まれており、これがフォレストに、我々の社会が持つ欠点についての、正確で、ときに辛辣な観察者としての性格を与えてもいる。彼の仕事の得がたい特色は、文学理論の諸問題が、常に、より広範な論の展開へと接続している点にある。それはたとえば、文化の「生産物」をめぐる世界化(グローバリゼーション)についての詳説であり、あるいは、我々が生活するメディア社会の逸脱ぶり、つまりは「一切の思考を払いのけ、無味乾燥な気晴らしの価値を推進しようと躍起になっている」その姿について敷衍された議論である。
第三の特質は、フォレストの仕事ぶりに、その十全な広がりを与えている。彼は、「時間的、空間的な拡がりを念頭におきながら、真の世界文学というものの、偽るところのない現在(いま)を思考する」ことへの野心を抱いているのだ。フォレストは、フランス文学の狭隘な世界(パリのサン=ジェルマン=デ=プレ周辺のいくつかの通りに集中し、威光を放っている拠点)に充足することなく、ジョイスやフォークナー、あるいはカフカやボルヘスを読み、彼らについて書くことで、つねに、異なる文化との接触を試みているのだ。このような視野の中で、日本という国は特別な位置を占めている。日本語を読むことも理解することもできないながらも、彼は長いあいだこの国に対して関心を抱き続けてきた。そしてその関心は、観光客的な足取りにも、安易な異国趣味にも属してはいない。フォレストは大江健三郎作品の洗練された読み手であるうえに——彼は世界でも有数の大江作品の注釈者である——、夏目漱石や津島佑子、小林一茶についての文章も著しており、さらにはその一方で、日本での旅を重ねてもいる。彼はこの国を、「新たな千年紀が予告するすべての美学的な問いのための実験室のなかでも、もっとも生産性の高いところ」と考えているのだ。
小説の執筆に際しての要求の高さ、強固な理論的野心、世界に対して開かれた姿勢。フォレストの作品が持つこの三つの側面は、それぞれが個々に独立したかたちで連続しているわけではない。フォレスト自身や編集者たちが作品をどのジャンルに分類しようとも、それらは彼の著作の一冊一冊のなかで互いに絡み合い、重なりあっているのだ。この三つの要素によって、彼の作品は、現代フランス文学のなかでもっとも示唆に富んだものとなり、また、すでに現時点で、もっとも重要な作品のひとつとなっている。あのヴィクトル・ユゴー(フランス文学におけるいま一人の巨人は、娘レオポルディーヌを亡くしており、フォレストは子どもを失った苦しみを彼と共有している)以来、こうした問題の数々に正面から取り組んだ作家は一度として現れなかったし、それらをフォレストほどに多様なジャンルで取り上げることで、その非常な才気を示した作家もまた、現れてはいない。このことが、フィリップ・フォレストという存在の重要性、ひいてはその活動の重要性を、余すところなく示している。作家としての仕事は、すでに内容的にも充実し、かつ多彩である。しかし、私が思うに、それはまだ、はじまりにすぎないのである。
(注1)L’enfant éternel(Gallimard, 1997)邦訳『永遠の子ども』(堀内ゆかり訳、集英社)、Toute la nuit(Gallimard, 1999)、Sarinagara(Gallimard, 2004)邦訳『さりながら』(澤田直訳、白水社)、そしてLe Nouvel Amour(Gallimard, 2007)の4冊。
(注2)2005年から2008年にかけて刊行されている4冊の評論集Allaphbed 1 - 4(Ed. CécileDefaut)を参照のこと。
(Michaël Ferrier : 中央大学教授・作家。主要著書『Tokyo : petits portraits de l'aube』、編著『Le Goût de Tokyo』)
●[原文]Portrait de Philippe FOREST en judoka japonais Michaël Ferrier
●『さりながら』——エキゾチスムと私小説を軽やかに潜り抜けて 澤田直
●はじまりとしての愛——荒木経惟をめぐる「物語」—— 小黒昌文



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