菊地信義 KIKUCHI Nobuyoshi 装幀家 ●対談● 蜂飼耳 HACHIKAI Mimi 詩人
事件が生まれる場所 ─2─
司会 今回菊地さんが指定された、一望できる本文レイアウト(文字組)に合わせて蜂飼さんは実際推敲をされました。その本文レイアウトに合わせて自分の文章が多少なりとも変化する、ということはありましたか?
蜂飼 菊地さんが提案してくださった文字組に合わせて推敲とおっしゃいましたが、これは、私が普段決まった文字組で文章を書いて発表する場合にはいつも必ず考えていることですので、特に今回というよりは普段から習慣的に見ていることなんです。ただそれは私だけではなくすべての書き手、特に詩を書いている人達は、書く瞬間瞬間に読点や句点の一つをどうするか、熟語にするかどうか、熟語が一つの文で文頭文末に分かれてしまうか、目で追って気にして書いていると思います。でも菊地さんがおっしゃった「一望できる」という認識を、自分のテキストに対してこれまではっきり持ったことがありませんでした。
菊地 図書新聞のレイアウトは、一行18字ですが、それは意識してますか?
蜂飼 18字という形で意識しているわけではないです。
菊地 新聞の連載では、ページをめくらなくても一つの囲みの中、本来なら一望できるはずなんだけど、そうは感じなかった。
蜂飼 あの欄ですと、タイトルが真ん中にきて文章が上下段に分かれていくレイアウトで細切れになっていきますので、それを立て直して一行をより長くすることでまとまりが見えるということはあると思います。ただそういったことと関係なく、菊地さんが私の文のなかに発見してくださったことというのは日本語の漢字・ひらがな・カタカナの配合や配分の何かではないか、と思います。恐らくすべての書き手、特に詩歌の人達は意識していることだとは思いますが、言葉の触感をより強く表現の上で求め、必要としている人たちには漢字・ひらがな・カタカナの配合は非常に重要であり、面白さでもあり、日本語と切り離せない一つの言葉の生理だと思います。同じ言葉でも漢字で書かれているかひらがな或いはカタカナで書かれているかで、たとえ発音は同じでも、目で追ったときの感覚、そして頭のなかで事が再現されるときの感じはまるで違います。
菊地 それは詩を書くときと、散文を書くときとでは意識は同じですか?
蜂飼 はい、ほとんど同じです。
菊地 この本に収められたあらかたの散文で、入れ子状態というか一つの主題を捉まえた細部や周辺を記す文が、本来主題とは関係ないように見せ見事に嵌め込まれています。これまでの散文を追う読者は書き手の物事に対する感想を読み取って「こいつは面白い眼を持っている」とか「この人の感覚って私にはわからない」と思うことで文章を消費することが専らだと思います。
蜂飼 私が普段、たとえば一つの現象を書くときに考えていることは、それが可能な限り説明にならないように、ということです。おそらくそれは、『装幀談義』(1986年、筑摩書房、文庫版は1990年)のなかで菊地さんがおっしゃっている、中身のテキストの説明ではなくそれと拮抗する何事かを打ち出す、という目線と重なる部分があるのではないか、と思いました。
菊地 文章でまさにそれを具現している作品と出会えた、というのが僕の昂奮です。
蜂飼 それに関しては、やはり私にとって詩というものが大きいのです。私が一篇の詩を書くときに考えているのは、それがある現象・出来事に対しての、一篇の詩の主体である私の感想や感慨・感情・感覚に留まらないように、ということです。一つの現象は、そこに参加しているすべてのものの違う眼によって見られている、と考えているからです。たとえばこの部屋に何人かの人がいるとして、それぞれの眼がある。それだけではなくて、その人たちが向かい合っているテーブルとしての視線がある、テーブルの上のコップ一つ一つの視線があって、そのコップのそばにある水、水が出てきた源の山なら山の視線がある、壁には時計があって、そこから反射される何かがある、というふうに。いろんな存在の、いろんな時間が同時に流れていると思うんです。それをいかに一篇の詩のなかに巻き込み、抱き込むか。一篇の詩を一つの世界として成り立たせることができるかどうか。菊地さんがおっしゃったような、散文のなかに無関係であるような要素が組み込まれて同時にある、というのは、いろんな視線を同時に取り込んで詩を書きたいと思っている、詩に対しての私の根本的な考え方が文に流れ込んでいるのだと思います。菊地さんからのご指摘でそれを新たに知ることになりました。
菊地 それは、散文として見事に具現したと思う。文を読んで昂奮したのは久方ぶりです。書き手はみんな実践しているとおっしゃるけれど、三十年間日本の文芸のジャンルと付き合ってきたけれど、蜂飼さんの作品以上に、成功した散文を読んだことがない、とはっきり言えます。あいつは何を読んでいたんだ、と言われるかもしれないけれど(笑)。
蜂飼 書く自我というか、書くときの「私」に対する疑い深さの結果かもしれません。
菊地 例えば古井由吉の最新作『野川』における文体の成熟はものすごいですよね。「私」を消すための文体といってもいい。彼も「私」に対する疑いと、作品を一人一人が読むことで生じる事件にすべく拵えているが、どこか読者の文学に対する深い知識、知性を期待するところがある。蜂飼さんにはのっけから期待も何もない。
蜂飼 平たく言うなら疑いと不安のようなものかもしれません。やはり自分で確かめるほかない、というか。決まった枠組みは一つのコミュニケーションの上では絶対に必要なんですが、自分にとってはそれは疑いです。この言葉で言っているけれど、本当にその言葉に沿ってそう受け止めているのか、という自分への疑いです。そこが揺らいでいる。そこに対する疑問が常にあります。
「私」を消す方法とおっしゃいましたが、一貫して消せることはないですよね。いったん消しても勝手に出現する私とは何か。消すことができれば、消す行為において一つの安定を得ることになります。消しても勝手に出現する何かを予期しないといけないし、入り乱れもする。きっと日本の近代文学が追究してきた何かに対する疑問ですね。私だけが考えていることではないのですが、揺らぎやすさは古来からあったとしても、いま、揺らぎやすさが見えやすい状態になっている、ということはあると思います。私というものに対する疑問を追っていくと、最終的に私という決まった殻はないわけで、すべて関係性だと思うんです。そういうことが、菊地さんが装幀の仕事をされるときに色や材質のあいだにつくる隙間と共通点があるように思います。
菊地さんは『樹の花にて』(1993年、白水社、Uブックス版は2000年)や『装幀談義』のなかで、物体としての本を造られるとき、材質や文字の形や色など本来ばらばらであるはずのさまざまな素材が馴れ合いで一つになるのではなく、要素ごとに拮抗しながら一つになり、世界をつくっているとおっしゃっています。そのことと、私の書いたものの中に菊地さんが見てくださった視線の在り方というのは強く重なるところがあると思います。自分では捉えきれない背中のほくろみたいなものを、紙を使ってものを出現させる菊地さんがある種の別の視線を持ち込んで取り出してくださったのかな、と感じています。
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孔雀の羽の目がみてる |



