特集■ユベール・マンガレリ
HUBERT MINGARELLI
静謐な中に不思議な力強さを秘めた中編『おわりの雪』の邦訳で、フランス作家としては近年稀に見る大勢の読者を獲得したユベール・マンガレリ。邦訳第二弾『しずかに流れるみどりの川』の刊行を機に、四人の方にその魅力を語っていただいた。(初出=雑誌『ふらんす』2005.7月号)
- CONTENTS
マンガレリの本
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おわりの雪 ユベール・マンガレリ作 田久保麻理訳 雪深いフランスの町で病床の父と暮らす少年は、ある日、一羽のトビに魅了され、それを手に入れるためにつらい任務を引き受ける。メディシス賞受賞作家による、胸に迫る中編小説。 |
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しずかに流れるみどりの川 ユベール・マンガレリ作 田久保麻理訳 「ふしぎな草」が広がる原っぱの真ん中の小さな町。電気も止められてしまうような貧しさのなかで寄り添う父と子は、裏庭に自生する〈つるばら〉でひと稼ぎしようと夢みるが……。 |
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四人の兵士![]() ユベール・マンガレリ作 田久保麻理訳 1919年冬、ロシアの若き赤軍兵士たちが敵軍に追われ逃げていく。厳しい寒さと空腹で次々と仲間を失いながら、いつしか、ささやかな日常のよろこびを分けあい絆を深める四人がいた──。 |
野崎歓
静かな沼——『Quatre Soldats(四人の兵士)』の魅力
1919年冬、ロシアの赤軍兵士たちが、ルーマニア軍に追われて逃げていく。騾馬や馬まで食べつくしてしまうほどの困窮のうちに、連隊の兵士たちはばたばたと命を落とす。そのなかで、運命を共にする仲間同士の絆が結ばれる。語り手の「私」ことベニヤ。頼もしい相棒のパヴェル。ちょっと間抜けな大男のキャビーヌ、そして一番年下で気の優しいシフラ。長く厳しい冬を乗り越えた四人は、糸杉の森のはずれにテントを張り、待機状態の日々をすごす。食糧はあいかわらず乏しいし、娯楽といったらサイコロを振って遊ぶことくらい。それでも、しばし戦争を忘れて、四人の心にはわずかながらゆとりが生まれる。
そんな題材をもとに、壮大な歴史絵図を描き出すことだってできるだろう。しかしそれはマンガレリが選ぶ道ではない。ロシア革命の大義が説かれるなどということもまったくない。そもそも、兵士たちは何もわからないまま戦いに参加したらしく思われる。描かれるのは、四人の生活のおりふしを飾る、出来事ともいえない出来事ばかり。それができるかぎり切り詰めた言葉づかいで、声を高めることなくスケッチされていく。
大事なのはたとえば、タバコやお茶だ。大男のキャビーヌはよせばいいのに手持ちのタバコをサイコロに全部賭け、そっくりパヴェルに取られてしまう。しょげかえった様子がかわいそうになり、パヴェルは半分、返してやる。キャビーヌはまるで自分が大勝利を収めたみたいに大喜び。それが二人の友情の始まりだ。
あるいは、珍しくいいお茶が手に入ったときのこと。いつものように大量のお湯で薄めて飲むのではもったいない。それではお茶の味などわからなくなってしまう。しかしお湯で薄めないとすると、一人当たりほんの一口、二口になってしまう。さてどうしよう。思案のあげく、やっぱり本物のお茶を飲みたいということになり、四人は少しずつ分けて飲んでがまんする。
なんともささやかなディテールの繰り返しである。切り詰められた文章が、若い兵士たちの貧しくつましいテント生活とみごとに通い合い、思いもよらないほどの喚起力を発揮する。反復が一種の儀式となり、兵士たちを支えているさまを、読者もつぶさに体験する。
四人の大切にしている懐中時計がある。壊れていてもう動かないのに、毎晩交替で一人がその時計を持って寝る。時計のふたを開けると、そこに女性の肖像が描かれているのだ。だれなのかもわからないその肖像の女性にそっと口づけして眠りに入る。それが兵士たちにとって唯一、甘美な瞬間となる。
そしてもっとも楽しい時間、それは沼ですごすひとときだ。四人が森のなかで見つけた小さな沼。ほかの兵士たちには知られないように注意して、彼らは毎日そこに出かけ、短い夏の陽光のもと、水浴びをし、魚をつかまえ、はしゃぐ。愉快な、滑稽なシーンもたくさんある。しかしどこか淋しさが漂う。恐怖や、悪夢もつきまとう。やがて戦いは再開するはずだ。死の予感がぬぐえない。
『おわりの雪』の素晴らしさに驚いてほかの作品も読みたくなり、まず読んでみたのがこのメディシス賞受賞作。設定はまったく異なるが、『おわりの雪』と共通する味わい深さだ。いずれの作品も、無垢な者たちが死の予感に包まれながら、しばしの猶予を過ごす。脅威を払いのけるようにして、ささやかな儀式が編み出され、それが愛情や友情を育んでいく。事態の悲劇的な核心は、絶対に口にされることはない。ところが驚くべきことに、その沈黙が一種の光源となる。そこからにじみ出た光に照らされるようにして、ささやかな出来事の数々が、不意に美しく輝きだすのだ。
四人の兵士が無邪気にたわむれる沼の光景が忘れられない。静謐な、秘密の沼のたたずまいは、マンガレリ作品のみごとな象徴となっている。マンガレリが描き出すのはもっぱら、表面のさざなみのみである。だがさざなみを通して、沼の奥底に潜むものの存在をたしかに感知させる。現代のフランスで有数の、彫琢された文章の書き手だからこそ可能なことである。
四人の兵士に、後半で実はもう一人、兵士が加わる。四人よりもさらに若い、ほとんど「こども」に近いような少年が志願兵として参加し、四人に合流する。その少年の登場以降、小説はいよいよ、読んでいて胸が苦しくなるほどの緊迫をはらんでくる。もちろん、「沈黙の作法」は最後まで守り通されるであろう。
(のざき・かん)
いしいしんじ
遠い場所で起こるささやかな奇跡
五回は読み返したと思うが、すべてを読み終えた、と思ったことが一度もない。訥々とかたられる、言葉と言葉とのあいだ、あるいはそのむこうに、茫漠とした白い闇が、広がっているようにいつも感じる。
長く読み継がれている小説の多くがそうであるように、『おわりの雪』もまた、頁に書かれている言葉だけの小説ではない。ここでの言葉は、たとえていうなら、著者によって正確に距離をあけて作られた窓で、読者はガラス越しに、言葉の向こう側に広がった、手でさわれない世界を、息をひそめ見守っている。
それは、なにかを思い出すことに似ている。記憶のありかたを、物語のかたちにあらわしたもの、といえるかもしれない。過去に戻れないのと同じように、私たちは、記憶をすべて語りつくすことはできない。
揺れ動く心象。忘却のかなしみ。
淡く、甘やかな絶望感。
ユベール・マンガレリという作者について、『おわりの雪』を読むまで、正直なにも、知っていることはなかった。プロフィールに目を通した後も、彼に関する知識がそれほど増えたわけではない。生年と出生地。あいまいな職歴といくつかの著作名。
いっぽう、『おわりの雪』の語り手である「ぼく」はといえば、まるで遠い日の知人のように、私の記憶のなかに、ひっそりと、たしかに存在している。まるでマンガレリの紹介で、出会ったような感じなのだ。あるいは、マンガレリの心象が自分のなかに、しみこんで定着した、とでもいうべきか。『おわりの雪』を読むことを、特別な体験だった、と感じる読者は、たぶん少なくないだろうが、そのいっぽう、著者マンガレリにとっても、この小説を書くことは、おそらく通常の創作を越えた、特別な経験ではなかったかと思う。/p>
養老院の中庭。
アジアゴ通りの噴水。
水の中の子猫。
ディ・ガッソの店先。
複数の心象が明滅し、揺れている。それらは互いに、ちょうどいい距離、絶妙な無関係をたもっている。何かが何かの原因となり、何かの安易な象徴として提示される、ということが一切ない。一定の厳しさをもって、それらは閉じられている。
マンガレリは、物語の断片を、それぞれがひとつの完結した世界のように、雪の結晶のように、白く広がる闇の上へ降りまいていく。読者はただじっと、見守るほかない。離れあった心象の間に、無理に意味の橋を架け、含意を読みとこうという気にはけしてなれない。書かれた言葉を曇らせないように、頁を繰りながら、つい息を詰めてしまうほどだ。
枕元のランプ。
雪まみれの犬。
影の映る天井。
肉をついばむ鳥。
その瞬間は、読者のなかに、ふいに訪れる。訪れたことに、最初は気づかないかもしれないし、それを感じるのは、読了してから、しばらく経ったあとかもしれない。
離れあった心象、物語の欠片が、自分のなかのある一点で、たしかに交差しあい、また遠ざかっていったような、ふしぎな感覚にとらわれている。
どの頁の、どの部分がという、目に見えるかたちではない。その交差は(作中の雪原とまさしく同じように)、読者のなかの、遠く目の届かないところで、いつのまにか生じている。ささやかではあるが、奇跡的な出来事が、たしかに、自分のなかで起きたという実感が、胸の内に広がっていく。たとえば、この世からもはやいなくなった、親しい誰かとの触れあい。遠い夏の朝の、まぶしい木漏れ日。飼っていた動物の声。冷えた寝床の手触り。はじめて見た雪景色。人の世の寂しさ、そして美しさを、私たちの記憶のなかで、『おわりの雪』は、しずかに蘇らせてくれる。
(いしい・しんじ)
高野文子
『おわりの雪』と私
訳者・田久保麻理さんに聞く
マンガレリ作品を訳したいと思われたきっかけは?
田久保 まず、マンガレリの描写がすごく好きだったんです。日常のなかにあるふとした光と影の描写とか、静けさのなかで鳴り響く音とか……。訳したのは、その描写を模写するように、マンガレリの世界に深く浸ってみたかったからという感じでしょうか。あと、含羞を含んだような独得の文体にも惹かれたので、読書の延長として、その文章をいっぺんほどいてみたいという気持ちもありました。
訳す際に、言葉をとても大切になさっている印象を受けました。
田久保 それはマンガレリ自身が言葉を大切にする作家なので。翻訳というかたちで彼の文章によりそってみて、言葉のひとつひとつも、リズムも、ほんとうに考えぬかれていると感じました。『おわりの雪』も『しずかに流れるみどりの川』も、どこの国なのか、いつの時代なのか、はっきりしません。でも私は、マンガレリは作品の時間や空間を実際にはかなり具体的にとらえていて、そこから余計なものを削っているような気がしました。訳者である私が削り取られたものを曖昧なままに訳したら、読者には何がなんだかわからなくなってしまうので、私自身も、主人公の身の回りのもの、例えばテーブルやランプなどを雑誌の写真などから切り抜いたりして、私なりにある程度イメージを固め、そこから削っていく作業をしました。マンガレリは難しい言葉は使いませんし、語彙もそれほど多くありません。でも語彙が少ないということは、決して言葉が貧しいということではなく、そのために、かえって豊かな表現が生まれているように思います。
例えばどういうところでしょうか?
田久保 マンガレリの文章にはcomme(〜のように)、 on dirait que(まるで〜のようだ)、 ressembler(〜に似ている)というような比喩の表現が多く見られます。私はそれが彼の文章の大きな魅力のひとつだと感じています。何かを形容しようとしても、いざそれを文章にしようとすると、自分が感じていることとズレてしまったり、あるいは照れてしまったり、そんなもどかしい思いを、子どもみたいに比喩表現を使って一所懸命伝えようとしている気がします。もちろんそれでも自分が感じていることを言い尽くせていないのかもしれませんが、そうした比喩を使うことで、言葉の外に広がりが生まれているのではないかと思います。
『おわりの雪』では「静謐な世界の中に手触りや匂いが感じられる」という感想が多く寄せられました。
田久保 マンガレリの作品は時代や場所の設定がはっきりしないものが多いのですが、主人公の日常生活の記述については偏執的といってもいいほどディテールが細かい。ディテールが細かいから、場面設定が抽象的でも小説としてのリアリティがあるのですが、そうしたディテールをできるだけ正確に伝えられるような日本語にしないと、翻訳したものがいかにもつくりものになってしまうと思いました。例えば『おわりの雪』には、夜、主人公の母親が出かけたあとで“la minuterie se mettre(自動消灯スイッチが入る)”というくだりがあります。フランスの読者なら、この文章を読んだだけで、独特の無機的なスイッチ音や、スイッチが切れた瞬間に真っ暗でシーンとしてしまう寂しい感じなどを自然に実感できるのだと思います。でもその音を実際に聴いたことのない日本の読者には、具体的なイメージがつかみにくい。この場面は「自動消灯スイッチがカチッといった」と、あえて擬音語を入れて訳しました。でもあまりやりすぎても読者の想像をせばめてしまう。イメージを広げる手助けをしつつ、シンプルでストイックな原文の雰囲気は妨げないように気をつけました。
間接話法の訳にも苦労されたとか……
田久保 『おわりの雪』は回想小説で、登場人物たちの会話の多くは“il m'a dit que… ”というような間接話法で綴られています。訳すときにも、彼らの声がそのまま聞こえてくるのではなく、遠い過去からおぼろげに聞こえるような感じにしたかった。ですから会話はできるだけカッコにくくらず、地の文に溶け込ませることにこだわりました。でも、それを日本語でやろうとすると、特に長い会話の場合などは、どこからが会話で、どこからが主人公の語りなのかわかりにくくなるので、そこはけっこう悩みました。逆に『しずかに流れるみどりの川』では直接話法が多く、父と子のちょっととぼけた、ユーモラスな会話がたくさん出てきます。この小説もやはり回想小説ですが、そこは『おわりの雪』とは対照的ですね。マンガレリの小説はよく「せつない」と形容されますが、そのせつなさには、悲しいけれどどこか可笑しいという、ユーモアの要素があるように思います。すごく些細な、ふつうならどうでもいいようなことを大まじめに一所懸命考えるところとか。主人公はプリモという歩くことが大好きな少年で、貧しい父親とふたりで暮らしています。生活はかなり悲惨なのですが、プリモが身のまわりのものを見つめる視線には、やっぱり常にどこか可笑しみがあります。私も散歩が好きなので、プリモと一緒に散歩を楽しむような気持ちで訳しました。読者の方も、彼が歩きながら見る風景とか、頭のなかでくり広げる想像とか、一緒に散歩をするようにマンガレリの小さな世界を楽しんでいただけたらうれしいです。
(聞き手:編集部)






