ここでの朝は、ハンナ・パールがよそで知っていたどの朝とも違う。まず、蜂蜜色の髪をした若い女が入ってくる。ヘアクリップから髪がこぼれている、青い……制服、を着た女だ。
「起こしますよー、そーれっ!」女は声をかけながらベッドを起こす。「眼鏡かけましょうねえ」眼鏡のつるを開き、ハンナの鼻にのせる。「はい、お薬!」
制服の胸には、「ロキシー」と書いてある小さな……もの、が留めてあった。そうそう、この人はロキシー。ハンナは錠剤を一つずつ、水と一緒に飲んだ。
この朝、女は──なんという名前だったかしら?──さらにこう言った。「今日はお客様が来ますからね、ハンナ」そして、にっこり笑うと、まず上がけを、次にシーツをはぎとった。「さあ、トイレの時間ですよ」
若い女は片手をハンナの背に回し、もう一方の手でハンナの右手を握って上半身を起こした。ハンナはベッドの横からそろそろと脚をおろす。かがんで室内履きを履かせる女の蜂蜜色の髪が、ハンナの膝に触れそうになった。
「準備完了。はい、歩行器」
「メルシー、マドモワゼル」
「あなたにそう呼ばれると、すごくいい気分。マドモワゼル、ですものね。彼にもそう呼ばせようかしら。とっても上品なんですもの」女は、ハンナの肘をそっと支えた。
ハンナは銀色のバーにつかまり、トイレまでゆっくりと歩いた。手を借りて、便器に腰をおろす。ハンナが用を足しているあいだに、若い女は急いで鏡をのぞきこみ、ほつれていた髪を耳のうしろにはさんだ。
「もうすぐシャロンが来て、シャワーを浴びさせてくれますからね。ところで、だれが会いにくるか知りたくないの、ハンナ?」
女は、ハンナ(Hannah)という名を、ハンド(hand)と同じように、Hの音を大きく、はっきり発音し、次のaを、マーシュ(marsh「沼地」)のように平板に伸ばす。ハンナはもう慣れているが、内心、最初のHは書く時だけ、と思っていた。口に出す時は、このHを発音せず、愛らしく「ああ!」というように始め、nの音をはさんで、もう一つ「ああ!」を続ける。「アア・ナアア!」だ。二つ目の「ああ!」は一つ目よりふっくらした音にする。これを、この人にどう伝えたらいいのだろう?
「ハンナ? だれが来るのか知りたくないの?」
ハンナは歌を思い出した。パール夫人のところに来るのはだあれ? だあれ? お医者様、なんとか、かんとか、伯爵様。床を濡らしたくなかったので、きれいに一本の線を描くよう集中していると、女は──なんという名前だったかしら?──すぐそばに立ち、ハンナの肩に手を置いた。ハンナは、もう一人の女の人も好きだ。
(中略)
その人は、シーツを翼のように、あるいはパラシュートのようにばさりとやりながら歌を歌う。
「ハンナ? 聞こえてた?」若い女は、今度はハンナの正面にしゃがみ、にっこり笑った。
「今朝は娘さんが来るのよ! 毎週来てくれてるでしょう? でも、あの人は、あなたと違ってフランス生まれじゃないのよね?」
女の言葉に、ハンナは戸惑った。たしかに娘はいるが、それは別の人生でのこと。あんなに幼い娘が、ここにいる自分をどうして見つけたりできるだろう? この場所が……ここがどこなのか、だれにわかるというのか? 廊下は果てしなく続き、迷路のようだ。あの……食事をするための大きな部屋、まで行くあいだに、迷子になってしまうことだってある。(「記憶」より)。
(『わたしの知らない母』より)
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わたしの知らない母
ハリエット・スコット・チェスマン著/原田勝訳 税込価格1995円 (本体価格1900円) 記憶が乱れ、長く隠してきた戦争の傷が蘇ってしまう認知症の祖母、その記憶に触れまいとする母、祖母の過去を知りたいと願う孫娘……家族という「他者」の心の秘密に迫る感動作。 |



