絵を見るとき、人はなにを見ているのだろうか?
たとえば、フランチェスコ・デル・コッサの《受胎告知》。大天使ガブリエルがマリアにお告げをしているのだが、画面前方、絵の縁をカタツムリがゆっくりと這っている。
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はたして、これが尋常なことですか? マリアがいる豪勢な館での受胎告知という、この上なく神聖な瞬間に、大きなカタツムリがですねえ、両方のつのを突き出して、天使の側から聖母マリアの方に歩いていくなんていうのが。なにか文句のひとつも、つけたくなりませんか? おまけにそれは、画面のいちばん手前でのできごとなんですから。もう少しで、カタツムリが出す粘液の跡まで見えそうじゃないですか。(中略)
とはいっても、解決方法はなくはないですよ。例によって例のごとしで、図像学という方法を使えば、またしても、みなさんの不安はおさまり、すべての疑問に答えてくれるという次第です。わたしだって読みましたよ。《ウォーバーグ研究所紀要》をね。ある女性美術史家が、コッサのカタツムリを「説明してくれる」テクストや図像を提示してましたよね。それが、実に単純なことだというのです。これら実直なる初期ルネサンスの画家たちは、カタツムリが露によって受精するものと信じていたから、この腹足類は難なく聖母マリアを表象するものとなったのだ。(中略)
しかしながら女性美術史家は、タブローの前景、われわれのすぐ鼻先で、カタツムリがなにをしているのかは説明してくれません。それもそのはずで、その手のことは図像学の役目ではないのですから。図像学は、画家がカタツムリをその場所においた理由などいう必要はない、それはこの学問の手にあまることなのですからね。だけど、このタブローでは、カタツムリが、はたしてなにをしているかこそ問題なのです。(中略)
カタツムリに与えられた場所の意味は、遠近法の構成と不可分のものではないのかという考え方から、わたしは出発しました。今でも、そのように考えています。なぜならこの作品は、ひとつの真のデモンストレーション、遠近法をめぐる力わざにほかならないのですから。(中略)
わたしはひょっとすると、ガブリエル→その右手→円柱→マリアと、下から、斜めに奥に向かって上昇していく軸と対応するように、これほど明快ではなくても、なにかもうひとつの軸があるのではないのかと自問してみました。つまり、円柱と天使の手を越えて、カタツムリが、絵の上方の奥にあるなにかの要素と結ばれていて、このことがこの軟体動物腹足綱の意味を明らかにしてくれないものかと考えたわけなのです。(中略)
そこでカタツムリ→円柱上の天使の手という軸をずっと延ばしていったのですが、どうなったと思います? すると、わが視線は、空中の父なる神の形象に遭遇したのですよ。わが驚き、いかばかりであったことか! しかも奇妙なことにですね、雲間に控えし父なる神の御姿なるものが、カタツムリのそれと酷似しているのみならず、大きさまでもほとんど同じなのですから、わが喜びの、いかに大きなものであったことか! こうした図像の構造から推して、このわたしは、地上のカタツムリは天上の神の「等価物」ではないのかという考えに逢着した次第なのであります。
(『なにも見ていない』より)
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なにも見ていない 名画をめぐる六つの冒険
ダニエル・アラス著/宮下 志朗 訳 税込価格2730円 (本体価格2600円) 新しい美術史学の旗手による美術エッセイ=評論。著者は従来の文献学的な方法論を越えた新しい絵画解読法、見ることの冒険を提唱する。絵画を前にして、私たちはなにも見ていない。 |



