白水社 白水社
書籍の検索 →詳細検索はこちら
 
教科書検索はこちらから買い物カゴを開く
白水社 白水社 白水社
■ トップページ
■ 耳より情報 ■ 新刊情報 ■ おすすめ本 ■ 全集・シリーズ ■ 白水Uブックス ■ 文庫クセジュ ■ 語学書 ■ 雑誌『ふらんす』
■ 岸田國士戯曲賞 ■ 出版ダイジェスト ■ クラブ白水社 ■ メルマガ「月刊白水社」 ■ 教科書見本 ■ 連載・エッセイ ■ 書店様向けページ
キャッチャー・イン・ザ・ライ 刊行特集
角田光代 ホールデンと私

 15歳で出会ってからこっち、ホールデン・コールフィールドは私にとってずっと、パンク音楽みたいなものだった。正確に言えば『ライ麦畑でつかまえて』という小説は、なのだが、そんな区別は意味がない。小説『ライ麦畑でつかまえて』はホールデン・コールフィールドそのものだし、その小説がくるまれていた白水Uブックスのあの青とベージュのブックカバーも、もうホールデン・コールフィールドそのものなのだ、私にとっては。

 とにかくホールデンはパンク。彼もしくは小説の在りかたがパンクだというのではなくて、ある年齢層にパンク音楽とよく似た興奮をあたえてくれる、という意味合いで。

 出会ったときにがつんとやられるその感じもよく似ているし、共鳴したいとかなしいほど切実に願う感覚も、ああこの音楽が存在してくれてよかったという深い安堵も、両者はおんなじだ。

 そうして、まったくパンク的に、18歳になった私はホールデンのことなどけろりと忘れてしまう。もちろんときどきは思い出した。口ずさむこともある。その存在に力づけられることもある。けれど、わざわざホールデンに会うために『ライ麦畑……』を開くことはもはやない。

 たとえばの話、ロックスターがどんどん老いていって、ライブ会場はかつて彼の歌にしびれた中年でひしめきあい、当時は立ちどおし踊りどおし叫びどおしで音楽にのれたのに、もはや体がついていかず、それでもうれしくっていっしょに歌を口ずさみながら中年たちがにこにこしている、というほほえましい光景はよくあるけれど、パンクにそれは似合わない。年老いたパンクロッカーなんか見たことない。

 ホールデンと成熟は、パンクと懐メロみたいに似合わない。18歳すぎの私が成熟したとは言い難いが、しかし私のなかでホールデンはどんどんあわいものになった。成長期における通過儀礼、期間限定のバイブルというわけだ。

 しかし、かような洗礼をまったく受けず(パンクを聴かず、ロックを聴かず、もしくはホールデンに出会わず)成長しきってしまった人を私はなんとなく信用しない。

 かつて私の部屋に遊びにきた恋人が、本棚をしげしげと眺め、「これを貸して」と言って『ライ麦畑……』を抜き出した。「なんで?」と私は訊いた。この「なんで?」には二種類の意味があり、それは、1、なんで読まずにあんたはおっきくなったの? 2、なんで今さら読もうと思うの? だったのであるが、彼はそのどちらにも答えず、「だってこれ本棚に二冊あるよ」と言った。「よっぽどおもしろいから二冊持ってるんでしょ?」と。

 本棚になぜ二冊あるのか。それは私が以前の恋人と本棚を共有しており、もう一冊は以前の恋人の所有物なのだが、わかれたときにそのあたりがうやむやになって、私の本棚におさまったままになっているからだ。しかし、そんなことを現恋人に説明するのははばかられ、どうぞどうぞ、お読みになって、と私は一冊を貸し出したのだが、そのとき、彼にたいする恋情がほんの少々薄れたのはたしかである。これはあくまでも、知識とか教養とかとまるきり関係ない、私とホールデンの問題なのだ。そののち、私と彼は何かのきっかけでまったく会わなくなってしまったから、20歳をずいぶんすぎていた彼がホールデンと出会えたのか定かでないが、とりあえず私の本棚で『ライ麦……』はふたたび一冊になった。

 二冊の本は一冊になり、私はどんどん年齢を重ね、ホールデンのことを思い出す回数も減る。思い出されないホールデンは、私のなかで夭折しているのかもしれない。だって、スーツを着たりネクタイをしたり、バーで大人らしくふるまったり、若者相手に訳知り顔で説教したり、もしくは共感してみせたり、太ったり禿げたりするホールデンなんて、まったく思い浮かべられない。でしょ?

 話は変わるが、学生のころ私はニューヨークに旅行にいった。

 じつをいえばニューヨークという都市に、今まで興味を持ったこともなくそれは今もかわらない。なのにそのときの私が選んだ旅先はニューヨークだった。自分自身、意味不明の行動だったが、なんとなくいってしまったのだ。実際、ニューヨークの町を歩いていても、私にとっておもしろいことはなんにもなかった。それでもホテルに閉じこもっているわけにもいかず、とりあえず町をさまよい歩いた。三月で、ひどく冷えこんだかと思うと、明くる日は初夏のようなあたたかさだったりし、その不安定な天候のせいで、その町がどんなところなんだか理解しかねた。今思い出せる記憶もあんまりない。森のようなところを歩いた気がする、古着屋を何軒か見た気がする、落書きずくめの地下鉄に目をみはった気がする、ひとけのないビル街を歩いた気がする、と、かなしいことに「気がする」ばかりなのだ。

 けれど鮮明に覚えていることもいくつかある。しずまりかえったホテルの廊下とか、どでかい恐竜の骨格が飾られた博物館だとか。どことなくかすけたホテルの裏口とか、地下鉄のプラットフォームとか。それから、町を歩きながら思っていたことも不思議と覚えている。

 この町にだれか友達が住んでいたら、と私は考えていたのだった。

 たしかに、ニューヨークはそこに住んでいる友達がいればとてもおもしろい町であるように、そのときの私には思えた。けれど友達はだれもそこに住んでいない。友達が住んでいるのにはうってつけの町であるのに。

 そんな光景と感想の断片が、私のニューヨークにおけるあわい記憶なのだが、さて今回、村上春樹氏の新訳で出版される『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいて、ぎょっとした。ホールデンがさすらっている町はまさにニューヨークであり、ホールデンの視線と、私の記憶するその町の断片は、ところどころでぴたり合致する。私の今抱える記憶は、実際に「見た」記憶ではなく、ニューヨークがどこにあるんだかも知らないときに「読んだ」記憶だったのかもしれない。もしくは、20歳をすぎた私は、夭折したホールデンの足跡を無意識のうちになぞって、その都市に赴き、彼の目線を捜して歩いていたのかもしれない。町になじむことのできない私がそのとき会いたかったのは、ホールデンという友達だったのかもしれない。

 そしてさらに、この新訳版は気づかせてくれるのである。ホールデンは夭折なんかしちゃいないんだと。

 ひさしぶりに出会ったホールデンは、私より20コくらい年下で、以前思っていたほどスーパーかっこいい男の子ではなかった。だいぶ情けない、あんまりいけてない、けれどユーモアのセンスはずば抜けてすばらしい、アンバランスな男の子だった。

 そうしてこの作品は、ある年齢層にだけ共感を呼ぶ、一過性の物語では決してないのだと、今回しみじみ思った。ホールデンは若死になんかせず、成長していく。私たちと同じように、泣きじゃくりながら、笑い転げながら、インチキを糾弾しながら、でも大人になっていく。バーで洒脱にふるまったり、花粉症になったり、太ったり禿げたり、たぶん、私たちの大半とよく似た経緯をたどって。

 小説の途中で、私はふと、何か非常に深い穴ぼこをのぞいているような恐怖を覚えたのだが、それはきっと、ホールデンは生き続けるんだと理解したからなのだろう。

 私とともに成長を続けるホールデンは、うんと身近になった。彼の言葉を借りれば「いつでも好きなときにちょっと電話をかけて話せるような僕の大の親友だといいのにな」と、20歳年上の私をして思わせてくれるだれかになった。

 たぶんあり得ないことだけれど、もしまたニューヨークを旅することになったとしたら、きっと私は以前と同じく退屈するだろう。そして今度ははっきり、明確に思うことだろう。「ああ、ホールデンに電話をかけて話ができたらいいんだけど」。私が40歳を超えても、50代の半ばでも、それはたぶんかわらない。若者が聴くパンク音楽を耳にし、眉間にしわを寄せ宇宙人の演奏は理解できないとぼやくようになったとしても、だ。

↑ページのトップへ