youという架空の「語りかけられ手」は、意外に大きな意味を持っている。
村上 変わりますね。けっこうがらっと変わっちゃう。というか、僕が訳している『キャッチャー』と、僕が昔読んで覚えていた野崎孝訳の『ライ麦畑』とは、自分で訳して言うのもなんだけど、訳していて、ずいぶん肌合いの違うものなんだなという感じがしました。野崎さんの訳は、翻訳するにあたっては読み返していないんですけど。
柴田 それは本当に違うと思いますね。
村上 野崎さんはフィッツジェラルドなんかもよくやっていらっしゃるし、ジョン・バースのものも好きだし、すぐれた翻訳家だと思うし、訳も正確で、きちんとした文体を持った方だと思います。ただ『ライ麦畑』が最初に出版されたのが1964年ですから、もう40年近くたっちゃっています。40年も経過すると、我々にとってのオリジナル・テキストの意味みたいなのもけっこう変化してきます。翻訳を立ち上げる文化的背景もずいぶん変化しますし、読者の意識も変わってくるし、だいいち日本語の文体そのものが変わってきますよね。だから、そういう意味で、ある程度文学史的な重みを持つ本には、翻訳もいくつかの選択肢があってしかるべきだと僕は考えるんです。
とくに『キャッチャー』の文体は終始きわめてコロキアル(口語的)なものだし、コロキアルな文章というのは、流行的、風俗的な要素を否応なく多分に含んでいます。そのあたりをどのように翻訳するかで、全体的なニュアンスというか、意味あいみたいなのは大きく変わっちゃうんですよ。60年といえばまだ石原裕次郎が日活青春映画に出ているころですから、風俗的表現、俗語的表現なんかについていえば、今とはかなり違ってますよね。そういうところにはやはり、ちょっと齟齬というか、温度差みたいなものが出てくるだろうな、ということがあります。これは翻訳の限界みたいなことでもあるんです。文化的背景の位置関係は常に推移しているわけだから。
もう一つ、これは流行とも風俗とも関係のないことなんですが、『キャッチャー』の場合、語り手であるホールデンが「you」に向かって語りかけているというかたちをとっているわけですね。そのyouなるもの=語りかけられる存在をどういうふうにとらえるか、どこまで具体的に訳出していくかということで、文章の感じはけっこう違ってくるんですよね。引いては作品のストラクチャーそのものの印象が変わってくるかもしれない。野崎さんの訳は、僕がおぼろげに記憶する限りでは、「君の」とかいう言葉はほとんど出てこないですよね。
柴田 そうですね。まあある程度は出てきますが、いわゆるうまい日本語訳のやり方で、できるだけ落とすという形になっていますね。
村上 僕はそれとは逆に、この小説におけるyouという架空の「語りかけられ手」は、作品にとって意外に大きな意味を持っているんじゃないかなと、テキストを読んでみてあらためて感じたんです。じゃあこの「君」っていったい誰なんだ、というのも小説のひとつの仕掛けみたいになっている部分もあるし。
柴田 それは、僕も村上訳を拝見していちばん思ったことですね。野崎訳のほうが、どちらかというと、独りごと的なんですね。村上さんの訳は、ホールデンがだれかに語りかけている。でも、その語りかけているyouというのがどこにいるのかというのが、問題というか、すぐにはわからないわけですよね。そこは訳の違いとしてすごくおもしろいと思ったんです。
さっきの話に戻りますけど、いざ訳してみると、がらっと見方が変わったというお話ですけれども、どういうふうに変わったかというのを具体的に。
村上 僕が翻訳で読んで記憶している『キャッチャー』は、高校生の男の子が、わりに神経症的で、というか若者的に純粋で、社会の偽善性みたいなものと闘うとか、大人の価値観に刃向かって苦しむ、悩むとか、そういう印象が頭に強く残っていたんですよね。それが野崎さんの訳のせいなのかどうか、それとも僕自身のそのときの個人的な読み方によるものなのか、今となっては正確な判断がつかないわけだけど、ただ今回、僕自身が読み直してみて一番感じたのは、そういうことももちろんあるんだけれど、本当はこの小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内面的葛藤というか、「自己存在をどこにもっていくか」という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのかということなんです。
柴田 対社会ではなく。
村上 対社会ではなく。もちろんそれはあるわけなんだけど、それよりはむしろ、自分自身の意識状況とのせめぎあいという方に、重みが込められているんじゃないか、という気がしたんですよ。だから、訳すときにも、そういう視点から物語の全体を眺めていくというところはありましたよね。視座の据え方というか。
柴田 そうすると、「君」というのがどこにいるのかというのも大きな問題になる。
村上 そういうことですね。ひとつの考え方としては、「君」というのが自分自身の純粋な投影であってもおかしくないということです。それがオルターエゴ(もうひとつの自我)的なものであってもおかしくない。そうじゃないかもしれないけど、いずれにせよ、そのへんの感触は大事なんじゃないかと。
柴田 この小説の主眼は、ホールデンの内面あるいは内面の葛藤じゃないかというふうにおっしゃいましたね。それがすごくポイントだと思うんですけど、要するにこのホールデンという人はどういう人、どういう少年だというふうにまとめられますか。


