五十歳を過ぎたころから、澁澤は「持ち時間が少なくなった」としきりに言うようになりました。もともと人と会うことが好きだった人が、むやみに会わなくなり、外出も減って、「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」と原稿依頼もずいぶんお断りするようになり、ときには面会謝絶、電話にも出ないという状態で執筆に没頭し、文芸誌に毎月短篇を発表しました。なにか物に憑かれたようで、一篇を書き上げると、とても消耗して見えました。
いずれも四、五十枚のものですが、毎月書くのはかなり大変で、わたしも緊張してしまいます。澁澤が眠っているときも、仕事をしているときもじっと静かにして、ケンカなどしないように気をつけます。こんなとき怒らせたら大変、「オマエのせいで書けなくなっちゃった」「オマエが悪い、オマエが悪い」で一日終わってしまい、本当に一日損をしてしまうのですから。いかに執筆のためのよい環境を作ってあげるかがわたしの仕事のようなものですし……。
それでも「毎月毎月、あなたちょっと書き過ぎじゃないの」と言ったことがあります。これには怒られました。「書き過ぎというのは、筆が荒れてるということだ。俺はそんなの一篇だって書いてないぞ」。「ごめんなさい」と言うより仕方ありません。
澁澤が体調の不良を訴え出したのは、一九八四年の九月ごろから、頭痛がして気分が悪いと寝てしまうことがたびたびありました。頭のことなので、このときはさっそく友人が内科にいた慈恵医科大学病院に行き、CTスキャンや脳波の検査をしてもらいましたが、異状なしとのこと。血流が悪いためだろうと、血流をよくする薬をもらいましたが相変わらず具合が悪い。
十二月中旬、フランス映画社の試写で、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」を銀座へ見に行ったときも、途中で気分が悪くなり、近くのレストランで作ってもらったウィスキーの水割を飲み、肩をもんだりしてやっと試写を見終わるようなこともありました。でもそれも一時的で、帰りには試写でご一緒になった山口昌男、川喜多和子、平出隆さんとすぐ近くの青木画廊に寄り、四谷シモン展を見ました。結局この映画が、彼の見た最後の作品になってしまったのです。
そんな状態が一九八五年の六月ごろまで続き、今度は喉が痛いと言い出して、「頭からだんだん下ってきたのかな」と、頭痛や不快感よりこの方がまだいいかなと、最初はのんきにかまえていたのです。
最後の山口への旅行(一九八六年)でも、喉が痛いとしきりに訴えておりました。旅行から帰ると、澁澤は「文學界」の連載『高丘親王航海記』第五回「鏡湖」を書くわけですが、その中に、親王が鏡のように澄んだ湖水のおもてを覗いて、自分の顔がうつってなければ一年以内に死ぬという個所があります。親王はふと何の気なしに覗くのだけれど、自分の顔のうつっていないのにどきりとする。どきりとしたのは親王よりわたしの方で、清書をしながら胸騒ぎがして、不安になったものでした。
(「発病」より)
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澁澤龍彦との日々
澁澤 龍子 著 税込価格2100円 (本体価格2000円) 夫と過ごした18年を、静かな思い出とともにふりかえる、はじめての書き下ろしエッセイ。日々の生活、交友、旅行、散歩、死別など、妻の視点ならではの異才の世界を明らかにする。 |



