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「パールってあんまり一緒に酒飲みたくないんですよ」

:ボースとパールとでは、キャラクターも大分違うと思うんだけれど、中島さんにとっては、どこに力点を置きながら描写したのでしょうか。


中島:ボースは「人間」というのを書きたいと思いました。それに対してパールは「論理」を書こうと。パールはものすごく意志の強い人で、全く妥協を許さない人。逆にボースは妥協を重ねながら苦悩した人。クォン・デもそうだったと思うんですけれども。僕はどちらが人間的に好きかというと、妥協を重ねる人の方が好きなんですね。割り切れなさの中で人間みんな生きている。そうすると、右の物語からも左の物語からもずれて行くところがある。そういう人たちの中にある想像力の豊かさに思いを致すことの豊かさというのが、僕にとっての歴史に対するアプローチだと思うのです。

 パールの論理の一貫性は、左右の軸の中では捉え得ないだろうなと思いました。東京裁判批判というとすぐに右派だ、ということになるんですけれど、彼の絶対平和主義ですとか、再軍備反対とか、朝鮮戦争反対といった論理は、左派にとっての方が心地よいものかもしれない。しかし、左の人にとっても、やはり耳障りのよくないことというのがたくさんあって、ハル・ノートに対して、日米の開戦に対して、パールは圧倒的にアメリカに責任がある、ということを展開しているわけです。そういう右左の物語からこの論理を辿っていっても、どうしてもこぼれてしまう。

 そうした時にまずパールの論理を全部総ざらいして、何を一貫して言いたかったのか、右左という軸をまずは取っ払って、見てみようと。非常に面白かったのは、パールは世界連邦論者で、世界連邦が形成されなければ、最終的には国際法というものは有効にならない、という発想なんですが、これに共鳴していた戦後すぐの日本人というと、戦前の右翼なんです。特に大川周明の周辺にいた猶存社系右翼。超国家主義というのは、国家を超えていくイマジネーションを持っていたからこそ、アジア主義というものを持てたわけですね。その人たちは戦後、代表的なのは下中彌三郎という平凡社を創った人物、あるいは南京大虐殺はなかったと主張されていた田中正明さんもそうですが、彼らはどちらかというと日本社会党に近いところにいた。「戦争放棄」や「核廃絶」を強く主張していた。

 60年代以降に保革の対立というものがある種概念化されて、歴史が展開していったのだと思うのですが、我々はどうも、戦前から戦後すぐの歴史に対して、後で出来た右左対立の軸とか枠組みを、演繹的にそこに投射して歴史を見ようとしているんのではないか。そうすると、そこからこぼれるものというのがたくさん出て来るんですよね。なぜ戦前の右派と言われた人たちが世界連邦論を戦後唱えたのか。逆に1950年代にナショナリズムを一生懸命唱えていたのは左派です。そういう問題をどういう風に見ていくのか。それは今の軸からは漏れていくのですが、逆にそこに豊かさがあると思うんですよ。それを見たいと思ったのが、『パール判事』を書いた縦糸のもうひとつでした。


:ボースとパールの差異をざっくり言ってしまうと、「エモーション」と「ロジック」のふたつですよね。やっぱりそれは「エモーション」の方が書いていて興が乗るというか書きやすい、感情移入しやすい。だから今回の方が、作品の善し悪しや面白さは別にしても、書くという意味ではきつい作業だったんでしょうか。


中島:そうですね……若干ずらして言うと、ボースという人は、一緒に酒を飲みたいんですね。一緒に飲んだらすごく楽しいだろうなあと思うんですよね。パールってあんまり酒飲みたくないんですよ(笑)。すごく説教されそうで。僕はものすごくだらしない人間なんで、そんなことじゃいかん、と。


:確かに読んでる限りでは、僕もパールとは一緒にお酒飲みたいと思えないな(笑)。


中島:厳しい人だなあと思うんです。ものすごく立派な人で、徹頭徹尾自分の論理がある。そりゃそうですよね、東京裁判に来て連合国それぞれから来た裁判官がずらっといる中で、自分の主張を一切曲げないんですから。その精神力の強さは、少なくとも僕にはない。やっぱりそれだけすごい人だなあというのは感じますね。裁判の方向がおおよそこういう方向に行くべきだと指針がある中で「俺は違う」と。インド政府もその立場に立っていないですからね。そういう中で自分一人で孤軍奮闘して自説を主張するというのは相当な人物だと思うんです。そういう人はやっぱり論理を書きたい。『パール判事』ではこの辺りの論理を書いていた。それに対して『中村屋のボース』は、なんでそんな風に妥協したの? でも俺もそこにいたら妥協するかなあとか、そういうように心情を共有しながら書いていた感じですね。

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