■私の無数の欠片
清岡:『オレンジだけが果物じゃない』の中に一箇所、とても面白いと思うところがありました。私たちもみなさんも人生は一回きりという中で生きてきて、いろいろな人生の選択をする場面があるわけですよね。例えば今日のお昼ご飯はなんでした?
岸本:素麺でした(笑)。寒かったです。
清岡:私は、カルビクッパですよ(笑)。レトルトですけどね。素麺を選んだ他には、可能性はなかったんですか?
岸本:ご飯があればカレーにしたかった。でも、なかったんです。
清岡:みなさんも今日お昼ご飯召し上がったでしょうから、何かを選んで召し上がっているわけですね。つまり人生というのは、選択することの連続なんですね。『オレンジだけが果実じゃない』の一節を読みますと、「人生ではなにか大事な選択をするたび、その人の一部はそこにとどまって、選ばれなかったもうひとつの人生を生き続けるのではないか。」
岸本:そこいいところですよね。
清岡:いいところですね。つまり素麺じゃなくて、早めに頑張ってご飯炊いてという人生もあったんじゃないかと。そこで「あったんじゃないか、でもそれはなかった」というのではなくて、ジャネットの場合は「そういう選ばれなかった私という人間はどこにも行かずに、私の無数の欠片となっているんだ」と。なかなかポエティックでいい場面という気がします。この欠片たちっていう翻訳もすごくいいと思いました。
岸本:ありがとうございます。

清岡:本当に岸本さんの翻訳が上手だなあと思うのは、段落の中のキーになる、イメージがそこに集まっていくような言葉、苦労して選んだ感じのする言葉があって、イメージをそこに集中しやすい。その欠片という言葉から引っ張って、先ほどのクロムウェルの話で出た『さくらんぼの性は』の中にも、似たようなところがありまして。「無数の私が切り紙細工の人形のように、手を繋いでいる」と。「人生は、積み重ねられたお皿のようなもので、見てるのは一番上だけだけれど、時々一番上がずれて2枚目、3枚目のお皿が見えることもある。つまり自分が選ばなかった人生というのも同時に進行している」。
岸本:ありましたね。ウィンターソンはすごく時間の感覚が面白い人で、一直線上を自分が過去から未来に向かって進んでいくというのとはちょっと違うんですよね。その時その時の自分がいて、その時の自分は生きている、またその次の自分も生きているから、自分がたくさんいる、という感じがある。現在があるから3分前の世界は消えているかというとそうではなく、全部が並列で存在しているという、ちょっとSFっぽいような不思議な感覚を持っているみたいなんですよね。だから物語が行ったり来たり平気でするんでちょっと大変なんですけれども。
清岡:時間の上をただ行ったり来たりするのではなくて、同時に進行しているというところが、普通の想像力を超えている感じがしますね。岸本さんは普段生活なさってて、そういうのをお感じになるときありません? ずっとお勤め真面目にやっていた自分とか、あるいはもっとやさぐれていた自分とか、そういうものが隣りに来て今の自分に語りかけたりとか。
岸本:今もずっと会社に勤めている自分というのは、想像するだに怖いんですけれど(笑)。でも、今聞いていて思い出したんですけれども、この部分は本当に半泣きになりながら訳してました。そういうことを考えざるを得ないくらい、この人は故郷を離れるのが大変なことだったのかって。自分が半分に引き裂かれるような、恐怖だったんだろうなと思うんですよ。
たぶん彼女は、その時の恐怖をまだ全て語れていないんですね。『灯台守の話』もある意味そういう話で、灯台守のところに養女になったみなしごの女の子が、やがて灯台を出なければならなくなくって、放浪する。でも、彼女が大人になるまでのあいだに物語にちょっと空白があったでしょう? そこはやっぱり、ウィンターソンがまだ書けないブラックボックスなのかなって思うんです。
『オレンジだけが果物じゃない』も、語られているのは生まれてから教会を追い出されるまでなんですよ。それからなんとか独り立ちするようになって、また故郷にちょっと里帰りしましたというところで終わるんですけれども、その“いろいろあって”の部分をあまり書いていない。アイスクリーム売りをしたとか、精神病院で住み込みで働いたとか、死人に死化粧を施す仕事をしたりとか、相当苦労したみたいでいろいろエピソードはあるんだけれども。たぶん、彼女の中でまだ“ネタ”になってない。と言うと本人、怒るかもしれないけど。
清岡:確かに苦しそうなところはありますよね。
岸本:そうですよね。本当に、血の出るような部分がそこここにあって。
清岡:なんて言いますか、「書くセラピー」。みなさんもなにかしらセラピーあるでしょう。
岸本:私は翻訳の他に書くようになって、人格の歪みがだんだん正されてきた気がします(笑)。
清岡:ジャネット・ウィンターソンもそうかもしれないけど、もし書くことを禁止されたらおかしくなっているかもしれないってところありますよね。
お楽しみにしていらっしゃる方の邪魔をしてはいけないのであまり言えませんが、今言ったような話が具体的な人物のキャラクターの作り方とか、生き方に結実しているので、お読みになる際に参考にしていただければと思う次第です。
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