第57回岸田國士戯曲賞選評(2013年)

第57回受賞作品

『一丁目ぞめき』赤堀雅秋

『ある女』岩井秀人

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演劇における性と力   岩松 了
 岩井秀人『ある女』には、私の知るかぎり演劇がかつて扱おうとしなかった題材に挑んでいる新鮮さがあった。男に捨てられつづける女の性がお金にかえられてゆくその女の内面に光をあてている。B級と言われる映画なりが扱いそうな題材だが、自分の中で自我が溶けてゆく時、女の感じる至福に、解きえぬ問題を抱えながら真人間であろうとする生き方と対峙する価値を見ようとしているのだ。女の性を描く演劇だと言える。問題は「その女」に見えた世界を充分に独自性をもって提示しえたかということ。後半で具体的な女の窮地に終始したことが、作品から、そのテーマのもつであろう攻撃性をそぎおとしてしまった。老人ホームの前の東京音頭に託した意味も未消化ではないか。定食屋の父娘の役割にもう一工夫あってしかるべき。とは思うが、着眼された〈女の性〉への接近を実に果敢であると思うがゆえに、これを授賞作として推した。
 赤堀雅秋『一丁目ぞめき』は、欠点だらけの戯曲である。後半の始まりに、健二が包丁を持って立っていることが、ただの思わせぶりにすぎないということに象徴されるように、〈劇的であろうとしたが息切れした〉場面を何度となく味わわされる。選考会で一部評価されたペタペタと落ちてくる雨漏りの効果についても私はありきたりだと思えた。父親の通夜の裏で殺された犬がいて、という状況もサスペンスにならない。思いつき以上のこだわりがないのだ。そして、いろいろありながら明日も問題のない会話をしていたいという健二の言葉にも「いいのかよ、それで」と言いたくなる。ただ、作者のこだわりつづける、暴力的であらざるをえない人間の醜態との闘い、そこに発するにおい、そのための郊外という場所、絶えず汗をかいているかの人間のもがき、それらは作者独自のものであり評価されてしかるべきだ。その筆力は賞に値すると思うし、ここにあげつらった欠点も作者は周知のこととして次なる段階へ進む能力をもっていると思う。受賞に異存はない。
 水沼健『ニューヘアスタイルイズグッド』は会話の面白さにひかれてラストまで来るが、これは果たして何を強くイメージされたものか。いつの間にかかかっている橋という存在にもう少し思い入れがあれば作品として力強いものになったろうに、と思った次第。
 サリngROCK『漏れて100年』は、100年生きた男の限られた人間との出会いによる無自覚な成長をたどる。読後に、その人間の孤独がじんわりしみこんでくるような余韻を残す。100年という年月を多くの場面転換で提示しようとするから、どうしても平板な印象。芸術に目覚める40代に、その平板をくつがえす力が欲しかった。


ノーマルな劇を構成する力   岡田利規
 私は赤堀雅秋氏の『一丁目ぞめき』を推した。中流家庭の一軒家を舞台にした、ノーマルな形式の劇である。築年数もかなりのものらしい様子のその家屋は、雨漏りしており、垂れてくる雨滴をバケツが受ける音が「ペタ……ペタ……」と劇中鳴り続けている。この仕掛けが、会話が途切れて沈黙が生まれた際に強い効果をもたらすものであるだろうこと、登場人物たちのかかわる俗世的な時間の流れと少しだけ別の流れやスケールを持つ時間がそこからは感じ取れ、それゆえ、劇場をあとにする観客たちの中にこの雨滴の音はこびりついてしばらくのあいだ残るだろうことは、想像に難くなかった。
 セットの一部に、台所の換気扇がある。煙草を吸うときはその下で、というこの家のマナーを、遵守する者がいて、無視する者がいる。そうした描写を可能にするためにこの装置が、しっかり役立てられているし、その描写を通して作中人物それぞれに対する肉付けがきちんと行われていく。そういったところも私には、赤堀氏の確実な力の現れに感じられた。
 ことさらな感じのほとんどしないサラッとした手つきで、ガサツさという人間性のひとつのドロッとした本質を描き出してみせる資質に一定の独特さがある、ということも疑う余地はない、と判断した。
 ……たとえば以上のような理由によって、私は『一丁目ぞめき』を推したのである。ノーマルな劇を構成する力が確実にあることが見て取れたから、ということである。
 これを大傑作と思っているかと言うと、そういうわけではない、と言わざるを得ない。瑕疵をいくつかあげることだってできる。けれども、赤堀氏に確かな技量があることを私が読み取るためには『一丁目ぞめき』は充分な水準であったと、私は言っておこうと思う。そして、この確かな技量以上に評価するべき何かが、本作を除く他の最終候補作の中からは何一つ、私には見いだせなかったということも、明確に表明しておこうと思う。
 今回、『一丁目ぞめき』に授賞することができて私はとてもハッピーだけれども、同時に、私自身がノーマルでない形式の劇を書く部類の劇作家であることもあり、赤堀氏の持つノーマルな形式の劇において発揮される力量にまさる、もしくはそれと匹敵する力量を今回の選考で見いだすこと、認めることができなかったのは、残念だったというか、がっかりだったというか、そういう気持ちも、やっぱりすごくあります。


作家賞という選考基準   ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 岸田戯曲賞の最終選考会において、具体的な選考基準が提示されることはない。われわれ選考委員は、「くれぐれも申し上げるが、この賞はこれこれこうした意義を問うための賞でありまして、そうであります以上、こうしたあれに着目して御選考いただきたい。間違ってもああしたあれを評価する賞では決してございませんから御注意を!」というようなことは、一切言われない。であるから、各選考委員のなかで設けられる基準や、それぞれに思う「優れた戯曲」の位相はバラッバラだ。だから面白い。
 私個人の見解を言えば、「戯曲賞」である以上、演劇作りの一パーツである「台本」や「演出ノート」ではなく、単体の「読み物」として求心力のある「戯曲」を選ばねばならぬ、と心して努めている。反面、きちんと演劇に奉仕しているか否かも重要な課題で、つまり小説やエッセイではなく、戯曲だからこその力も不可欠としたい。
 『漏れて100年』(サリngROCK)を、私は大層面白く読んだが、積極的に推すことはしなかった。ト書きの説明が台詞よりずっと多いシーンが多々あり、そのト書きがきわめて主観的である点が、戯曲として評価できないと感じたからである。
 『りんご』(北川陽子)はさらにタチが悪く感じられた。スピリットこそ伝わるが、思いが先んじてまるで言葉に足りない。例えば、ト書きで「コントともとれるシーンの連鎖」と記された、ごく短いシークエンスの羅列を読んでいて、私は「笑いを舐めている」としか思えなかった。演劇の作り方は様々であり、どう作るかは作り手の自由だ。テキストを軽んじる上演にだって素晴らしい演劇はあるだろう。このシーンにしても、演じ手の状態を観客は笑うのかもしれないが、文字では何も伝わらない。文字で伝わらないものをここで評価することはできない。なにしろ「戯曲賞」だ。
 私が推したのは、「ニューヘアスタイルイズグッド」(水沼健)と『一丁目ぞめき』(赤堀雅秋)、次点が『ある女』(岩井秀人)。どの作品も作家としての個性を感じさせ(主にこの点で、畑澤聖悟『翔べ!原子力ロボむつ』、早舩聡『エレノア』、中屋敷法仁『無差別』は私の選から外れることになった)、それぞれに異なる強さで力強く、読み物としての「作法」も、先に挙げた二つの作品のような欠点とは無縁の域に達している。
 『ニューヘアスタイル〜』は不条理な会話劇だ。前言を次々と撤回してゆく話法はユニークで、笑え、幾度も読んでみたくなる魅力があった。ところが選考会半ば、「うまい」と膝を打つような台詞のいくつかが、「引用・参照文献」として末尾に記された海外小説の、まさに「引用部分」であるとの指摘があり、そういえばそのうちのひとつを私もかつて読んでいて、「ああそうだ、たしかにそうだ」、といった流れで、今後の作品も読んだうえで改めて机上に載せるべき作家だという意見に同意した。
 『一丁目ぞめき』のト書きは、今回の候補作の中で最も過不足なく、イメージを広げてくれた。そっと手を差し伸べるようにして台詞を補完してくれる、そんなト書きだ。差し出がましさがなく、的確である。そして、映像でいうインサート・ショットのように、効果的に挟み込まれる、雨漏りの「ペタ………ペタ………」という擬音。なんでもないことのようで、最近の戯曲はどれもこれもト書きが粗雑だ。自戒の意味も込めて、特筆しておきたい。「うまいト書き」は得点につながる。
 『ある女』はワクワクさせる導入部が大きな期待を抱かせる。が、「セックス教室」のシークエンスをはじめ、部分的にあざとさが散見され、早々にバランスを崩していると感じた。選考会は終盤、『ある女』と『一丁目ぞめき』の接戦となり、私は後者を推し続けた。「葬式に厄介者が帰還する」という設定を「あまりに古めかしい。寅さんじゃないか」とする意見もあったが、赤堀氏から滲み出る説得力は本物である。『一丁目ぞめき』を全盛期の「男はつらいよ」の変奏と、無理矢理考えるならば、それはそれで評価されるべきだと感じた。
 岩井氏の戯曲はいくつか読んでいるが、もっと良いものがたくさんある。次作を待ってもよいと思った。問題は、赤堀氏にも同じことが言えるという意見を、「そんなことはない」と一蹴しきれないことだった。
 選考会に相対価値ばかりを問う様相が漂いはじめたその時、野田秀樹氏からの提言を説明するかたちで、主催である白水社のW氏が、こんな主旨のコメントを口にした。「岸田戯曲賞は、作品賞であると同時に、作家賞としても機能してよいのではないか」。
 候補作のみでなく、「これまでの実績」も鑑みる、そんな側面を持ち合わせた賞でありたいというのは故・井上ひさし氏の遺志でもあるという。井上氏云々はおいても、初めて、選考基準を示唆する提言がなされ、このひとことが背中を押した。
 決して気持ちのよいカタチでの結論ではなかったものの、今は心より赤堀、岩井、両氏の受賞を祝いたい。おめでとう。


井上ひさし氏がくれた賞   野田秀樹
 今年の作品の中には、これだと、熱弁をふるって推したいものがなかった。にも拘わらず、赤堀雅秋氏、岩井秀人氏の両作品を受賞作に推したのは、「岸田賞には作家賞としての意味合いもあっていい」という、故井上ひさし選考委員の演劇への思いを踏襲するべきだと考えたからである(つまり賞がある以上、受賞作なしよりもあったほうがいいという思いだ)。
 「作家賞」とは、その作家のその年の作品が格別なものでないにしても、今までいくつもの良い作品を書き続けてきた、作家としての力を評価して与えるものである。
 その意味で、赤堀氏も岩井氏もここ数年(たぶん私が知らないだけで、実は十年くらいかもしれない)優れた戯曲を書き続けている。赤堀氏は、何とも言えない「人間が暴力の深みにはまっていく様」を書き続けてきたし、あるいはそれを「へっちゃらで傍観し受け入れていく状況」を書いてきた。今年の作品は、その切れ味がいいとは言えないけれども、「中心(東京)から少し離れた場所(千葉)に起こりがちなイヤな人間関係」を丹念に書いている。
 一方、岩井氏は「卓越した描写力で、人間関係の『ズルズル』とでも呼ぶべき状況に人が嵌っていく、その姿」を書いてきた。今年の作品は、最後の最後で息切れしていた。が、前半中盤には相変わらずのうまさ、面白さがあるので、終局には目をつぶってもいいと思った。目をつぶるというのも失礼な言い方だ。ま、例えば「これは東電OL殺人事件なのである」と解釈すれば、終わりの読み方も変わってくるであろうし、致命的な欠陥ではない。セリフが洒脱で言葉が面白い。それだけで認めるべき才能だと思う。
 なんにせよ、岩井氏も赤堀氏同様に、これからも面白いものが書ける作家だと確信している。だから、早く『岸田戯曲賞候補作家』などというコトバから解放してあげたいと願った。二人とも、これからもますます乱暴に傲慢に芝居を書いて欲しい。
 他の候補作品の中では、サリngROCK氏の『漏れて100年』と水沼健氏の『ニューヘアスタイルイズグッド』の二つを面白く読んだ。
 サリngROCK氏の作品は、漫画の吹き出しの言葉でできていると言えばそれまでなのだけれど、たったひとりの人間が生きていく「長い時間」というものを書ききった力は賞賛に値すると思う。そして不思議な魅力がある。その不思議さが本物か、次作を読みたい。
 水沼健氏の作品は、高いレベルの、大笑いさえできる、詩的でとぼけたイメージでつなげられている。ただいかんせん、そのほとんどが海外小説からの引用に依るところが大きいために、サリngROCK氏同様に、このイメージを紡ぐ言葉が本物か、もう一度、次作を読んでみたいと思った。


こつぶで終わらない才能   松尾スズキ
 設定が、こつぶで巧みな作品と、スケールが大きくて仕立ての荒い作品に分かれました。手塚治虫のマンガを読んで育った身としてはスケールの大きな話はもちろん大歓迎なのですが、だとしたら、画を描かなくていいぶん、さらにマンガよりお金を要求するぶん、演劇ならではの想像力とセリフや構成の緻密さでマンガのスケールを超えてくださいよ、と、思うのですが、なかなかそのレベルの作品がなく、こつぶ組に票が集まったという感じです。
 すなわち、『一丁目ぞめき』と『ある女』と『ニューヘアースタイルイズグッド』の三作品が、競り合い、されど、『ニューヘアースタイルイズグッド』に関して言えば、なかなかにいいセリフや場面があるのですが、そう言う場所に限って既存の小説の引用が露骨すぎるのではないか、との指摘もあり、ボクは、それを見逃すとしても、「本年日本一」と呼ぶにはこれはちょっと小品にすぎるし、他の二作のほうがうまいな、と思っていたら、皆もそのようで、この作品は見送ろうか、という全体の流れになりました。
 それで、残りの二作が競ったわけです。
 若者に流行りの、こつぶなものも嫌いではありません が、いつまでも、空舞台に椅子で、普段着っぽい俳優が出て来て、しらーっとした始まり方をするという、「なるべく大怪我しませんように」というやり方で、演劇界ずーっと持つのかな? という不安もあります。
 が、それを抜きにして、『ある女』は、達者だなあ! と思えるセリフやキャラクターが、そこかしこに散りばめられ、「ただのこつぶで終わらない」ような才能が拡がる可能性を感じました。論点になった「定食屋」の不透明な存在もボクはちっとも気にならないし、ギチギチのリアリズムより若干ぶっ壊れた部分のある戯曲のほうが好きですし。
 『一丁目ぞめき』は、またゴツゴツした手触りが好きな作品で、しかし、場面設定が「葬式」というのが、「一幕物の演劇で、よく見る光景だよなあ」とボクは、やけに気になり、どちらか一つ、と言われれば、『ある女』を推したわけですが、多くの方が「二つで!」とおっしゃるので、だったら、「じゃあ、ボクも二つで!」と、のっかったわけです。
 来年で、ボクの審査員の任期は終わります。卓袱台ひっくり返すような作品に出会いたいです。


等々力と顔   松田正隆
 ダイアローグとモノローグが併用されている作品に注目した。
 『ある女』は、タカコという女のことを、登場人物の等々力が語る構造になっている。タカコは冒頭、それでは始めますと述べることから、この作品が、あらかじめ語り手にタカコという「ある女」が一方的に語られることによってすすめられることが提示される。タカコの言動は等々力を通しての語りで浮かびあがるのだけれど、等々力は登場人物の一人でもあり、等々力の知り得ないタカコの経験や内面が延々と語られることには、不可解さを感じた。タカコと他の登場人物が会話する場面に、等々力のいる定食屋の場面が侵入することもあるので、等々力(および定食屋)は普通とは違う立場(場所)にあることがわかる。それなら、等々力とは一体なにか。タカコの行きつけの定食屋の主人でありながら、タカコの心情まで語るのはなぜなのか。ラストでは、等々力は監禁されボロボロにされたタカコのもとへ声として現われ、彼女をあっけなく救出する。いずれにせよ「ある女」は語り手が誰であろうと、詳細に語られ独特な方法で描写されることで、匿名の女であることからはみ出し、固有な一人の「タカコ」であり得たのかもしれない。わたしのことを他の女とは違うような感じで語って欲しい、滑稽でもいいから、という欲望が、今の女たちにはある、というのを織り込み済みでこの劇は成立していたのかもしれない。その語りの起点が定食屋の等々力であることには根拠を見つけられないのだが、たとえば、タカコが、セックスの前段階でこれから為されるセックスのことをどれほど考えていたかを知ることで興奮を覚える男の性癖にげんなりしたり、タカコの元彼についての記憶がほとんど長々と蘊蓄をたれていた光景しかない、というようなどうでもいいと言えばいいような描写がなされるのだとしたら、このあたりの立場の語り手兼登場人物が絶妙だったのかもしれない。考えようによっては、物語を俯瞰する大河ドラマのナレーターでもなく身近な恋人でもない、よく話を聞いてくれるなんとなく気になる定食屋の男という選択があの微妙な距離感の「語り」を生んだと言える。これを、日常に埋もれる人間関係における新たな回路の開発と解釈することができるだろうか。
 『ニューヘアスタイルイズグッド』もやはり二重の言説構造で推移する魅力的な戯曲であった。
 この作品のセリフは、登場人物による会話とその会話とは違う位相からその人物たちが語る奇妙な独白(これが発話されるのかは不明だが)が混在することから成っている。普通、会話はあたかもそれが現時点においてなされるように交わされるのであるが、この戯曲のやりとりはユニークとは言え、ぎこちない。さらに、この会話はつねに独白によって中断されることで、会話の時制における時の流れは阻害される。というより、登場人物によって交わされる会話の主体は、独白の層のほうに軸足があり、その影響下にあるかのようだ。つまり、回想の側から過去のイメージが探られている。回想の側というのは、曖昧な言い方であるが、誰による想起なのかが特定できないのだ。とにかく複数の回想の語りによる過去の実相(しかし、それは不確かである)を登場人物による会話が証拠だてるようにできている。この戯曲の空間のおぼろげな感じはここから来ている。それは「いま・ここ」とは違う時間、「あのとき」の時間への追求の成果と言えないだろうか。
 いや、独白する語り手たちは「顔」とひとまとめに明示されていた。「顔」という語り手。それなら、いくつもの可能性をはらむ問題が提起されてしかるべきであろうが、それについての言及は皆無であった。それゆえ、私は、これをただの思わせぶりにすぎないと判断した。


ドラマにおける「間」の取り方について   宮沢章夫
 例年に比べ、テクニカルな側面に難点のある作品が多い印象を受けた。
 だからなおさら、巧みな筆致で描かれた赤堀雅秋の『一丁目ぞめき』の見事さが際だっていた。たとえばそれは、同じように、オーソドックスなドラマを基底にしている、早船聡の『エレノア』と比較したとき鮮明になる。どちらも、「ひとつの家」を舞台にしていた。赤堀作品は、まず書いている過程から、この「家」の間取りを作家自身、明確に把握しているだろう。そして同時に、間取りが先に構築されたのち、建物(=住居)のなかで人はどのように動くか、なにが人を行為に至らせるかが書かれる。けれど、早船作品を否定的に読まざるをえないのは、人の行為が先行しているからだ。それに合わせて家が作られたかのような「都合のよさ」がある。たとえば、一階を不動産屋の仕事場として使っている事情があるにしても、聞かれてはいけないような電話は、住居部分であろう二階の電話にかかってくるのを読むと、その都合のよさから、そもそもこの家の間取りはどうなっているのか、うまく整理できない。あるいは、人の出入りもまた、きわめてタイミングがいい。誰かがいなくなる。すると、またべつの人物がすぐ登場する。しかも、いままでいた人物と会ってはいけない者が都合よく入ってくる。9ページのト書きに、「克彦出て行く。美幸一人。/ややあって、男(隆文)入ってくる。」とあるが、あきらかに克彦と隆文を会わせたくないのだ。もし、克彦がいなくなったのをどこかで見ていて隆文が入って来たとしたら、隆文の「(辺りを警戒し)一人?」という台詞はありえない。なにしろ、克彦は美幸の夫であり、隆文は、美幸がかつて付き合っていた男だ。
 ドラマは人がそこにやってくる。
 その「時間」や、「時機」「瞬間」のことを私はいつも疑問に感じるのだ。ひどく中途半端な瞬間に入って来てもいいのではないか。劇的なドラマが進行しているとき、誰かが来て台無しにしてもいいじゃないか。そもそも、私たちの日常は、その中途半端な時間によってできており、あまりにぴたっとなにかが一致したとき、それを偶然と呼んで驚くのと同時に、つまらない日常にほんの少しだけ祝祭的なものが生まれる。克彦と隆文を会わせることがドラマの進行を阻害するとしたら、もっとうまい方法はなかったか。早船聡の『エレノア』には、こうした「都合のよさ」が、しかもドラマを進行させる作家にとっての、「都合」がいくつもあって、そこに技術的な難点がある。だから、家の間取りがわからないのだ。わかっていないのは作者だ。ほかにも、畑澤聖悟の『翔べ!原子力ロボむつ』には、原子力という社会性を担保にすることで、テクニカルな筆致をないがしろにした粗雑さを感じざるをえなかったし、北川陽子の『りんご』は戯曲として読むことができなかった。たしかに「戯曲」という定型のスタイルがあるわけではない。よくわからない姿をしたテクストが出現し、それが読む者の想像を凌駕すればまちがいなく私は支持しただろう。北川作品にそれは感じられなかった。拙さだけが印象として残った。
 だから赤堀雅秋の『一丁目ぞめき』が強い印象を残す。「うまい」としか言いようがない。きちっと戯曲を設計する段取りが整っている。ドラマとしての配慮が行き届いている。
 けれど、私はそれを推さなかった。
 たしかに冒頭にあるト書き、「二〇一二年、三月。大震災から一年の時が経つ」がこの戯曲に一定のトーンを与えており、だからこそ、どんなに喜劇的な人の行動があっても、拭いがたい薄気味悪さが作品全体を支配する。雨が降り続けている。その家ではずっと雨漏りがしている。ト書きに、たとえば、「間」とか、「沈黙」と書くべきところを、「ペタ…………ペタ…」と表現し、ごく短い真空の時間を表現すること、その雨水が、舞台になっている千葉でも放射能に汚染されているのではないかと想像させる。
 「テーブル席にいる灰色の背広を着た稔、煙草に火をつけ、やがて雨漏りの所に行き、その雫を掌で受け、やがてその匂いを嗅いでみる。」
 開演からすぐのこのト書き以外に、雨水について触れた箇所はほとんどない。けれど、それだけで「二〇一二年、三月。大震災から一年」の意味を感じる。それを前提にしつつ、人はひどく愚かな行為のなかで、ここでもやはり喜劇的に存在するのは、数多く語られただろう、原発事故についてのドラマのなかでは特別性があると読めた。だが、赤堀作品の特色である、「あ?」といった乱暴な応答、「使えねえなあ」といった暴力的な非難の言葉に違和を感じる。それらがドラマの空気を一定に保ち生成するが、そうした劇言語に新鮮味を感じることができない。そうした空気感に有効性を感じなかった。さらに「通夜の夜」という設定によってドラマを構成するのもひどく凡庸だ。私はこれまで積極的に赤堀作品を推してこなかったが、それでももっと刺激的な状況の創造によってドラマもまた生き生きとしていなかったか。「喪服姿の者ら」「通夜の夜」「死」が、どれだけ手垢のついた表現か。それをもっとも痛感しているのは作者自身ではなかったか。
 あるいは、岩井秀人の『ある女』には、そうした「ドラマ」という軛から解放された筆致や軽やかさがある。これもまたきわめて巧みな戯曲だ。そして、ここにあるのは、「表現の抽象性」と、「性の生々しさ」という奇妙なバランスである。「ある女」がセックスを通じて成長するドラマと読めないこともないが、しかしそれにしたって、赤堀作品にあるようなオーソドックスなドラマの緻密な作りはない。だいたい、「小林」という男が理解できない。いったいこいつは何者なのだ。それを言い出したら、次々と別の男とつきあってしまう「ある女」、それは奇妙なことだが、そうした性的なドラマを内包した女は、「ある女」であって、ではなぜ、小林のことを「ある男」と呼ばなかったかはフェミニズムの文脈で誤解を受けるのではないか。しばしば語られるのは、小説でも、映画でも演劇でも、男の作家が女を「都合よく」使っているという反駁だが、けれど、岩井作品にすぐれた表現があるとするなら、主人公の「タカコ」がそうした作品の束縛から逃れていると読めることだ。なぜなら、とんでもなく愚か者でありながら、性的な快楽に忠実に、ドラマが生成する男の構造に奉仕せず、淡々と生きているのを感じるからだ。だから、「ある女」の死を予感させる読後感が残念でならない。タカコだったら、「ドラマが生成する男(=ファルス中心主義)の構造」を破壊することができたのではないか。
 選考の最後、岩井秀人の『ある女』のみ、私は消極的だが推した。それというのも、二本同時授賞に異議があったからだ。選考の結論として安易さを感じたからだ。
 こうして全体的に低調だった作品のなかで、水沼健の『ニューヘアスタイルイズグッド』を私は好感を持って読んだ。とはいっても、何度か読み返さなければ、ほんとうによくわからない戯曲だ。ト書きはたったの一行だ。冒頭にある。
 「夏、海の近く。」
 では、ずっと「海の近く(=ある島の)」で出来事が発生しているのかというとそうではない。登場人物表には、「男1」「男2」「男3」「女1」「女2」とある。ちなみに赤堀作品では、「大場稔(43)」「大場健二(39)/稔の弟。親の代からの『スーパーおおば』を継いでいる」というように、各登場人物をフルネームで、年齢や説明を加えて表記する。「男1」といった表記は、不条理劇や、もっというなら、別役実作品でよく目にするが、作品の全体に、ベケットやイヨネスコといった作家の影響を感じさせる。もちろん、だからすぐれているわけではない。さらに後期ベケットを思わせるのは、「夏、海の近く。」に続いて語り出すのが、「顔」という登場人物だからだ。たとえばそれは、『わたしじゃない』の「口」を思わせるが、ここでは「顔」がさまざまな人物に変化し、ではいま語っている「顔」が誰なのか、ときとしてそれは「男1」だったり、「女1」だったりと変容する。親切な説明はない。まるでパズルを解くような戯曲を読む悦楽をそこに感じる。
 つまり、わけがわからないのだ。
 繰り返すが、不条理劇だったり、わけがわからなかったらいいというわけではない。けれどここに奇妙な魅力を感じた。戯曲の最後に「引用・参照文献」という項目があり、『僕たちはしなかった』(スチュアート・ダイベック/柴田元幸訳)と『猫の首を刎ねる』(ガーダ・アル=サンマーン/岡真里訳)という小説があげられている。たまたま、『猫の首を刎ねる』を読んでいたので、この機会に『僕たちはしなかった』を読んだ。参照というより、ほとんど引用されているところもあり、しかもそれが作品にとって大きな要素になっているのはマイナスだとしても、そうした短編小説からインスパイアされて書かれた戯曲だからこそ、またべつの興味を持った。それというのも、ボルヘスの『続審問』のなかに「カフカの先駆者たち」という章があり、いくつか奇妙な小説が紹介されているが、それと同様の味わいを、『ニューヘアスタイルイズグッド』に感じたのだし、それを支えるのが参照・引用された小説たちだったからだ。それはサンプリングだ。サンプリングによって新しいテクスト表現が生まれる。
 あるいは、どこかいびつな笑いがある。
 たとえば、「顔」が「わたしは音楽室でコントラバスになって女教師の着替えを覗く」といった意味の言葉を語る。それはいったいなんだ。だいたい、四十五歳で小学校に入っていま一年生の男2(フツオ)とはなんのメタファーだ。では同じ学校に用務員として働いている、男1の兄弟、男2(ヨシオ)はなんだ。なにもわからない。さらに男3(ワルオ)が出ることによって、三人の名前から関係がうっすらとわかる。後半は、『猫の首を刎ねる』と同様に話は展開し、女2によって結婚するよう男たちは勧められるが、そのためには「犬の首を刎ね」なければいけない。しかも、ここで女2は、「男1」と「男2」を頻繁に間違え、それでわかるのは「男1」と「男2」が常に交換可能だということだ。ここでもやはり不条理劇としての、トム・ストッパードの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』とよく似た構造がある。どちらでもいいのだ。主体が曖昧になる。赤堀作品ではそうはいかなかった。同じ兄弟でも、とんでもなくだめな兄として描かれる稔は、稔でなければいけない。けっして、弟の健二と交換はできない。
 ト書きは、「夏、海の近く。」だけだ。ときおり小学校の用務員室や音楽室が出てくるが、ト書きで指示されることはない。それでも、そこがどこなのか台詞でわかる。すると逆に、「夏、海の近く。」だけが、なぜ記されたかは理解できない。その意味を知りたくて、また繰り返しその戯曲を読む。だからこれは豊穣なテクストだ。よくわからないのである。いや、まったくわからない。あるいはこれは、「とんでもないもの」だ。だがゴダールは、「もっとも、とんでもないものというのはどれもみな、たぶん有益なものではあるんだが」(『ゴダール全評論・全発言Ⅲ』111頁)と語っている。愉楽である。そして刺激である。それで、また読み返す。読む者に、読むことのよろこびを与える

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