第56回岸田國士戯曲賞選評(2012年)

第56回受賞作品

『○○トアル風景』ノゾエ征爾

『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』藤田貴大

『前向き!タイモン』矢内原美邦

 

藤田貴大氏を推す。   岩松 了
 しょうもない日常生活芝居がはびこって久しいが、ここへきて、それも様子を変えていると思っていた矢先の藤田貴大『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』。
 極めつけの日常生活と言えるが、人を、その記憶を、解体と再構成によってかほどまでに迷路に運びこむその手法は、独自の人間観察を観客に強いている。それは必ずや演劇の果たすべき(おそらくは演劇そのものへの)批評行為の責務を担っているからだと思えてならぬ。貴重なのは、その偏執(へんしゅう)である。これでもかと繰り返されるしょうもない時間は、一種の苦痛を想像させるし、その苦痛は日常生活の中であらわにならぬ苦痛であるはずなのだ。そこに記憶がとどまらざるをえないという意味でも。チェーホフ劇の人物たちが退屈だと言う、その退屈がここでは別の形で提示されている。
 受賞には到らなかったが、桑原裕子『往転』。随所に面白さがあるけれど、バスに乗っていた様々な人たちの各々の人生、という構造を超えるためには、病室の知花と庵野の場に、表現者としての野心が欲しい。そこは抽象だろう、と思う。レズとナルコレプシーでは弱い。
 山崎彬『駄々の塊です』。動物のいない動物園のまわりに人間という動物がうごめいている。その状況を、牧歌的とでも言いたい空気の中に描いていて好もしいが、難点が多すぎて。
 前川知大『太陽』。ノクスとキュリオ、その設定された者たちの内実に迫らず、設定倒れの感をぬぐえない。そこに切実なものが感じられないのだ。
 今回の選考は難航し、三作品の同時授賞となったが、ノゾエ征爾『○○トアル風景』に関して言えば、前作『春々』の魅力に比して、今回の、文字を書いては消すという手法が、ひと昔前の前衛劇を見るようで、しかも物語を母親という存在におとしこむのがどうにもいただけないと思った。新たな挑戦をして欲しい。矢内原美邦『前向き!タイモン』は、野田・岡田両氏が強く推して選評も書かれるだろうから岩松は割愛。いや、矢内原さんも、これを機に、さらなる挑戦を期待します。


権威によって招集されるべきもの   岡田利規
 なにも選考会の場でそう宣言したわけではないが、私が今回から選考委員を引き受けたのは、端的に言い放つならば、これからの日本の演劇が今よりずっと社会や世界に対して意義を持つものとなることに、権威ある戯曲賞の選考に関わることを通してわずかにでも寄与したいと考えたからである。大上段に構えているのである。
 だから、震災によって日本社会に引き起こされた問題を正面から扱おうとした中津留氏『背水の孤島』の、その志には敬意を表したい。でも、戯曲としての質が、政治性という意味でも美学的な意味においても、いかんせん低かった……。このように率直な形で政治性を表現する作家が、芸術家としての力量も並々でない、というのであれば、それは現在の(特に私自身が属する世代以降の)演劇の風景を余裕で一変させるに違いないのだけれども。そうではなかったことは、とても残念だった。
 前川氏『太陽』は、社会的不平等という普遍的な問題を、大きな架空の設定を構えた上で描こうとしたもので、その結構にいっちょ乗ってみたい! と私は強く思ったが、本作の中身は結局のところそこまで大きなサイズの設定を必要としないものだったのでは、という気がしてならない。そしてかえって、架空のしつらえを保つのに労力の多くを払ってしまい、肝心のその先に行くということが未遂(みすい)に終わってしまった感じがする。身の程を知って日常的なサイジングをしている作品においては、そういった瑕疵(かし)がそもそも生じないわけで、それに較べるとこういった虚構性の高いドラマは、欠点が見えてしまい易くて不利だと言える。前川氏が、そんなことを軽々と凌駕(りょうが)するパワフルなフィクションで、現実とのテンションを生み出してくれることを、私は切に切に希望している。
 桑原氏『往転』と田村氏『連結の子』は、普通によくできたドラマだが、それ以上のものだとは思えなかった。それ以上、とはそのドラマが観客(すなわち世の中)に変容をきたすポテンシャルを有している、ということである。そのポテンシャルが感じられないものに対しては、岸田賞の権威によって公的なフィールドに招集したいという気持ちが、私には引き起こされない。
 山崎氏『駄々の塊です』は、上演の様子があまりに容易に思い浮かぶもので、戯曲固有の何か、というものを欠いている、というのが私の印象だった。また、映画やテレビドラマのようにさまざまなシチュエーションをめまぐるしく描くことには本質的に向いていないと思われる演劇という形式に、そうしためまぐるしさを安易に、ある意味因習的な仕方で取り込んでおり、そこがラディカルでない(これは『往転』についても言える)というのは、私の好みではなかった。
 そういったわけで今回の選考では、ドラマは総じて日の目を見なかった。私たち選考委員が、見せなかったということである。けれども、ドラマの逆襲があってしかるべきだろう。見た目のコンサバさで油断させておいて観客(つまり世の中)を痛い目に遭わせる、というような仕方で社会に対して意義のあるものとなること。私が今のところイメージできるドラマの逆襲、そのあり得べき形の一つは、たとえばそういったものである。いずれ圧倒的な作品が一つ出てきて、それがすべてを打破するだろう。
 私は受賞作の一つである矢内原氏『前向き!タイモン』を推した。言葉がぴちぴちとしてドライブ感を持っていること、一筋縄ではいかない、しかし鮮やかで深いイメージを与えるフレーズが随所にあることなどが好みだったというのもある。しかしなにより、描ききろうとしているその枠組みがしっかりと大きかった。私は、そういう作家を今、激しく支持したい気分。今回の前川氏が成功していなかったこと、すなわち大きな枠組みの中に実質を詰め込むということに、矢内原氏は比較的成功していると、私は判断した。この世界この社会の構造の理不尽さに、誠実だがしかし粘りを見せることもなく絶望したりシニカルになったりする、というのとは反対の仕方で、基本的に明るくそれこそ前向き! に向かい合う。そのとき不可避的に生じる残酷さについても、これまた明るく引き受けちゃう。そういったこの作品の、責任の高い姿勢も支持したい。権威あるこの賞を授けるのにふさわしいと私は考える。
 他の二つの受賞作、藤田氏『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』とノゾエ氏『○○トアル風景』を、私は推さなかった。藤田氏の作品は短いシーンの反復──音楽で言えばそれはちょうどリフのようなものだと言えよう──という手法で全篇押し通されていることがとにかく特徴的だが、そうしたエディッティングは、そもそも芝居のクリエーションの段で行ない得るものだ。つまり、それは演出家の領分だと言える。演出家はその気になれば、どんなテキストだって好きなように編集していいのだもの。だからこの手法を、戯曲に属する何か固有のものとして評価することはできない、というのが単純であるが私の見解だ。そして描かれている内容──思春期の少女たちの日常が、ごく恣意的に切り取られ、しかしそれはただそのことだけでわけもなく、かけがえのない記憶となっていく、的な──についても、権威付けする必要の特にないもの、という気がした。
 ノゾエ氏の作品は、アイデアの次元においては、劇場というブラックボックスが放つ抽象性への誘惑に導かれて構想されたものであると読めた。何もない空間に混沌が生まれ、そこから原型としての男と女が現れ、物語が始まる……というのは古事記のイザナミとイザナギの挿話みたいだと思って、ちょっとわくわくしたけれど、結果がある種の普遍性というよりも、単なる平均値(あるある的な)の提示に甘んじてしまっていて、その意味では、本作だけドラマ形式ではないけれども、提示される価値観のレベルにおいては『往転』や『連結の子』と基本的には同じの、コンサバティブなものだと思った。
 私は原則的に、オルタナティブな形式を用いてコンサバティブな価値観が提示されるのはたちの悪いカムフラージュのような気がする。そういったものに対しては原則的に警戒心を抱いている。


「ポストドラマ演劇」の遠心力   ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 まずは、乱暴だと言われるのを怖れずに、この度の候補作七作を、いわゆる「ドラマ演劇」と、「ポストドラマ演劇」とに区分したとき、明らかに前者に位置する、中津留章仁『背水の孤島』、田村孝裕『連結の子』、桑原裕子『往転』、前川知大『太陽』の四作が、どれも、私を含め、多くの選考委員にとって、圧倒的な求心力をもち得なかったことが残念だった、と述べておく。前川氏の設(しつら)えた設定は期待感を煽(あお)るに充分だったし、桑原氏の人物配置も巧みで、かつキャラクターも魅力的だ。が、演劇上演を前提にする「戯曲」として、両作とももう一拍及ばなかった。「うまくできている」だけでは足りない。物語の力を信じる者としては、次回作に期待したい。
 では、「ポストドラマ演劇」派はどうだったろう。藤田貴大『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』には最多数の票が初期段階から集まったが、私は積極的に推すことをしなかった。三連作として上演されたこの作品の第一部の上演を私を観ていて、それはそれは美しく、藤田氏の戯曲に多用されるリフレインから出現する空気は、観劇後の余韻を長引かせたものだった。しかしながらそれが、テキストレベルでは響いてこなかったからである。選考会で、リフレイン効果について、歌、あるいは詩に準(なぞら)えての議論がなされた。歌詞カードを読んで、CDを聴いた時の感銘に及ばなかったということか。戯曲賞である以上、CDではなく歌詞のみで評価するべきだと思った。付け加えれば、藤田氏にはまだまだ可能性を感じたから、テキストで揺さぶってくれる作品を待ちたいとも思ったのである。
 矢内原美邦『前向き!タイモン』は独自のイメージ展開が魅力的だった。ルールの新しさにおもねることをしていないのが強みであろう(あるいは無自覚であることが)。ひとつ苦言を呈すれば、対話が弱い。というか、対話に興味がないのかもしれない。ダイアローグを弾ませられれば、恐るべき才能に化けると思う。
 話は選評から離れてしまうが、いつの時代もマジョリティであるコンサバティブな演劇(私自身はこれを否定するものではまったくない)の作り手は、藤田氏や矢内原氏の作るものをどう感じるのだろうか。次々と、そして易々とルールを乗り越えてゆく後進たちに(作品自体を否定しようが肯定しようが)、やけに力んだ眼差し、あるいは畏怖の眼差し、もしくは無視しようという態度を向けるのだとしたら、演劇の貧しさを憂えるしかない。
 で、私が推したのは、ノゾエ征爾『〇〇トアル風景』と山崎彬『駄々の塊です』の二作。後者は勢いだけと言ってもよい穴だらけの稚拙な仕上がりである。ただ、スピード感とふざけた姿勢が醸し出す愛嬌(あいきょう)は極めて魅力的だった。ふざけた姿勢は前者にも共通する。だが、ノゾエ氏はうまい。ふざけた姿勢で、軽々とうまい。力を抜くのは簡単だが、そこで問われるのは「抜き方」のセンスである。クレバーな作家だ。氏の作品の中で抜きん出ているとは思わなかったものの、他の候補作と比して、歓迎すべき作品であると目した。
 受賞者の御三方、おめでとうございます。真摯に、一生懸命選びました。


『無責任』と『静物画』と『責任感』の同時受賞   野田秀樹
 30年ほど前に、三人授賞というのがあった。私はその時の受賞者だが、結局、三人授賞というのは、選考委員の混迷ぶりを表わす。今回は、選考委員が大幅に入れ替わったことによって、それが起こった。私は、いつもなら三人授賞というのは受賞者に失礼なので反対する立場をとってきたが、今回は、選考会の混迷ぶりの表現にもなる。そう思って、最後は三人授賞に賛成した。
 私は今回は、矢内原美邦氏の『前向き!タイモン』を推した。
 無責任な言葉の羅列でイメージを喚起させ、無責任にイメージがぶつかり合う。それだけで、ストーリーが紡がれていく。久しぶりに登場した、その種の作家だ。私はこういう作品に演劇の可能性を見る。
 近頃のテレビや映画の脚本にも見えがちな一連の、いわゆる巧(うま)い若手の作家群の作品に私は欲求不満である。
 この矢内原氏の「例え話」は、どれもこれも面白かった。とりわけ、「農民」が語る『空から落ちてきた子供(りんご)と大きな手』の話は、それだけで壮大な物語にもなるほどのイメージだ。しかも、子供は林檎のことなのだと、しつこく繰り返すことで、比喩と言うものをさらに括弧付きにしてしまう、これはうまい。しかもこの上手さは、近頃の若い作家の、どこで覚えたのか知らないが、マニュアルのように書いてくる巧さではなくて、伸びやかである。つまり無責任に楽しんで書いている。舞台を好きな人間の現場から生まれてくる、しなやかで無責任なうまさである。と確信する。責任感のあるうまさなど見せられても、わたしは戸惑ってしまう。
 そして、ドキッとするようなシンプルで美しい言葉にも出会えた。
「誰かが生きたかった明日が、僕の明日かもしれないから」
「キミとぼくが出会う前に進みだす時計がある」
 これらの言葉に貫かれているのは、ハスにしかものを見られない一群の作家(私などはその中に入るのだろうが……)に対する、ポジティブなアンチテーゼであり楽観論である。その意味で、曲者(くせもの)が揃いすぎた選考委員たちの中で彼女の作品が支持されなかったのもうなずける。
 一番選考委員の評が集まった藤田貴大氏の作品は、故郷と距離を持つ若い人間の「感傷」をどう見るか? によって評価が変わってくる。わたしは、「感傷」と言うものには基本的に否定的だが、彼の描く「感傷」は、リフレインを使うことで、間接的なものとして、すれすれのところで成立している。そこがこの作品の成功である。よく描かれた静物画のように、「感傷」が食卓の上に置かれているのである。もしも、それがただ投げつけられていたら、この手の「感傷」は、いやな読後感がするものだが、受賞に値するだけの距離感のある「感傷」である。リフレインが、読み手に既視感を持たせ、知らずその「感傷」を共有してきた気分にさせる。近頃よく見る方法だが、発明である。惜しまれるのは、一部目の「あんこ」という役が面白かっただけに、彼女が、山(富士山)の後に、海へ行き、その後、三部目、どこに現れるのだろうと期待した。が、とうとう姿を見せなかった。それが残念だ。
 が、佳(よ)くできた「静物画」として、受賞に値する作品であることに変わりはない。
 もう一本の受賞作、ノゾエ征爾氏の『○○トアル風景』は、矢内原氏の作品同様に、演劇ならではの手法をとる作品だが、残念ながら着地に失敗している。不条理のように登場した『穴』と『光』のイメージが、余りにもぞんざいに扱われているし、ありきたりである。それは、若い人の閉塞感なのですか? とでも意地悪に聞き返したくなる。私は、彼の去年の作品を高く評価している。去年は彼を一番に推した。それは彼が不条理なイメージを書ききったからである。しかも、今年の矢内原氏のように無責任に楽しんでいた。楽しみ切っていた。今回も面白いところに届きそうだったのだが、しかも『穴』の登場で、それがどう転がるか楽しみにして読んだが、それは結局、簡単に上れる『穴』であったし、越えられる『不条理』だった。ノゾエ氏が楽しんでおらず、それは理屈になってしまっていた。何に対してなのかわからないが、ノゾエ氏の責任感さえ感じられた。そこが失敗である。私は今回の作品での受賞には反対だが、去年、受賞するべき作家だったと今でも思っているのでノゾエ氏の受賞そのものに異論はない。


そっと推したり推さなかったり   松尾スズキ
 他人の戯曲を純粋に読むという体験を久しぶりにし、それは刺激的な体験であったとまず言っておきます。
 『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』をまず読みましたが、セリフとセリフの間に頻繁に挟み込まれる「、、、、」の理解に苦しみ、スリムクラブの人が喋るように読めばいいのか、などと悩みましたが、途中から人間の記憶の構造を俳優の肉体を使って詩的に表現しようとしているのだと勝手に理解し、それからは面白く読めました。
 『○○トアル風景』は、ノゾエくんにしては、キレイにまとめたなという意見が多く、私も同意見でしたが、好きなセリフがいっぱいあり、笑いと真正面から戦っている、捨てがたい作品なので推しました。
 『前向き!タイモン』は、正直俺には、難しかったのですが、実際あの長いコミカルなセリフを高速で喋り踊り、おそらく限界までがんばらなければならない俳優を見てみたい、という気にはさせられました。大変そう過ぎて自分が出たいとは、まったく思えませんが。
 そういう意味では『往転』は、出てくるキャラクターにみなひと癖あり、俳優としては「そそる」作品で、そっと推してみましたが、力は及びませんでした。
 『背水の孤島』は、震災のことについて実際現地で取材したかのようによく調べてあるし、細部のリアリティに「なるほど」と思うこともあるのですが、それだけに、後半の、(ボクから見たら)やや、強引な設定がやけに気になるのでした。
 『太陽』は、前置きでやたらと壮大なSFの風呂敷を広げたのだから、もっとエンタテイメントの可能性を拡げてほしかったというのが正直な意見です。
 『連結の子』は、読みやすく書けてはいるのですが、引きこもりなど、今どきの道具を出して来ているものの、笑いの質、物語のしつらえなどに、どうしても新しさが感じられなかった。という意見が多かったのです。俺もそう思ったのです。
 『駄々の塊です』は、一番作者の色気を感じました。「ぶちかましてやろう」という気概を胸に、若いことだしもっと書いて腕を磨いてほしいと思い、あえて強くは推しませんでした。ごめんなさい。


時間と悪臭について   松田正隆
 私は八本の候補作品のなかから、強く推すことのできる作品を選べなかった。それでも気にかかる作品が二つあった。
 『帰りの合図、』は、過去の帰り道の記憶を想起するものたちについての作品で、上演における時間の流れのなかに、なんとか過去の時間を関わらせようとしていた。記憶を想起する主体とその対象(過去の記憶)にある役柄を演技するものとの二つの位相が、この上演の推移によって、あるいはある場面を反復することによって、おそらくは曖昧に溶解し変容をきたすさまがこの戯曲からは想像できた。
 あの日の帰り道のそのさきに、帰ることのできた家があったのだということは過去の確かな事実ではあるが、いま(上演時において)それを思い出そうとしたときに、その帰るべき家はほんとうにあったのだろうか、という気持ちになる。この現在にあの過去は不在であるが、どうしてあの過去が私にこれほど影響を与えるのか。もしくは、まったく影響を与えないとすれば、あの過去はなんのためにあったのか。このような動機に支えられた作品世界において、想起する主体が想起される対象の役柄を演じるときの、その違和感が保持されたままで、その両者の関係の交差点が模索されたことに、私は興奮を覚えたのである。
 しかし、その動機に立ち会う観客はいったいそのとき、その想起する身体をどのように見ればいいのだろうか。なぜ、彼ら彼女らはその記憶を思い出し私たちの前で、それを語り演じるのか。私は、そのことの根拠が、彼ら彼女らの立ち位置が、確かで明らかなほうが良いとは決して思わない。
 だが、この『帰りの合図、』につづく『待ってた食卓、』と『塩ふる世界。』では、性急にも観客と共有可能なノスタルジックな世界が展開されてゆくことになる。家族関係の出来事に回収されるような誰にでも理解できる場面(物語要素)の反復となる。私としては、冒頭20 分間の、あのとるに足らない帰り道の時間へのこだわりが延々と持続していて欲しかった。
 ジャン・ジュネは「私の演劇が悪臭を放つのは、ほかの演劇が芳しいからである」と述べたそうである。世界中の卑しいものどもが自分の演劇に亡命して来るのだという。候補作中唯一、芳しさのかけらもない作品が『駄々の塊です』だった。読んでいるあいだずっと地方都市の駅前のマクドの異様な臭いがした。暗闇の動物園で股間光男を飼育員が懐中電灯で案内しているというのに、またぞろ股間光男の股間が道を照らしてしまうという場面での光男のせりふがこの作品の悪臭度を象徴している。
「お願いした立場やのに、何か光っててすいません」
 ひさびさに爆笑した。なにかひとつ受賞作を選ぶとすれば、私はこの作品が一番ふさわしいと思ったので、選考会ではこの作品を受賞作に推した。


ディレイ・エフェクトとしての新しい劇作術   宮沢章夫
 選考の過程で印象に残ったのは、ある作品について、「これ以外の作品にグルービーなせりふがなかった」という意味の発言で選考委員の一人が高く評価し、そして、べつの選考委員はまたちがう作品を、「この戯曲のほかに笑えるせりふがなかった」と語ったときの、そうしたやりとりの背景だ。
 ここには、種類の異なる二つの〈魅力的なせりふ〉がある。
 たしかに、「グルービーなせりふ」という言葉はわかりづらい。ゆるやかなうねりや、ドライブ感、そこから生み出される弾むような躍動が言葉にあったかどうか、そしてそのうねりや弾みが作品の性格を決定づけるといった意味だと理解できる。「笑えるせりふがなかった」は、笑えるかどうかというポイントに〈魅力的なせりふ〉の比重がある。一見、まったく異なる視点から戯曲を読んでいるようでいて、じつはそうでもないところが興味深い。これは「面白さの質」や「笑いの質」のちがいか。あえてべつの言葉にするなら、〈魅力的なせりふの響き〉と表現できるが、それにしたって「魅力的」という価値は相対的だ。あるいは主観的だが、〈批評基準〉としてそれは大事だし、ややもすれば、〈好み〉という言葉でまとめられてしまう。いや、それだけではない。というのも、そこにこそ、戯曲を読むときに各自が拠(よ)って立つべき論理が潜んでいると思えるからで、たまたまその〈論理〉と〈批評軸〉が単純化されて〈好み〉という言葉になる。戯曲を読むときの解釈に、どう線引きがされるか、あるいは、読み手がどのような土壌にいるか。それが選考を動かすのはあたりまえの話だ。
 具体的に書くなら、矢内原美邦の『前向き!タイモン』と、ノゾエ征爾の『○○トアル風景』の二作について議論するなかで発せられた言葉だった。
 ノゾエ征爾のせりふは構造の仕組み、そのメカニズムが動き出す運動性のなかから魅力(=笑い)が浮かび上がる。だから、表面上の言葉としては、例外を除けば、たいてい「なんでもないこと」が書かれている。「なんでもないこと」を構造的に積み上げることで笑いが生まれ、そして、そのなんでもなさこそが、ノゾエ戯曲の美点になり、この作家のすぐれた部分だと私は読んだ。一方、矢内原美邦の戯曲の言葉にはほとんど構造性はない。その構造のなさは、むしろ言葉を覚えたばかりの子供が歌うように、誰に向かってでもなく語りかける、長くてあてどない、奇妙な言葉のかたまりのように読める。そこに不思議な〈コドモ身体〉の瑞々(みずみず)しさが浮かび、だから、「無自覚さによる過剰な言葉の疾走」と表現してもいいようなグルーブが生まれる。この過剰さはただごとならない。それもまた魅力的だ。まったく種類が異なる性格の言葉が、ノゾエ、矢内原作品にある。それをどう評価するかによって議論は分かれたが、繰り返すが、それはけっして、「好み」だけの評価ではない。
 ただ、今回は、そのようにして〈劇の仕組み〉より、〈魅力的なせりふの響き〉に評価が集中した印象がある。戯曲はせりふだけだろうか。もちろん大きな要素だが、〈劇の仕組み〉がもたらす良質な戯曲もあるはずだ。
 ノゾエ作品『○○トアル風景』の冒頭の、秀逸であり、きわめて演劇の本質を感じさせるト書き、「チョークと、チョークで描く壁があればできる演劇」がほとんど語られなかったのは意外だった。というのも、ピーター・ブルックが『なにもない空間』に書いた、「どこでもいい、なにもない空間──それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう……」と記されてはじまる有名なあの言葉を想起させるし、また一方で、「黒板とチョーク」は、ストリートにおける〈グラフィティ・カルチャー〉にも通じ、その意味では、とてもグルービーだからだ。二作品は成立している場所、その土壌が本来的に異なるので、比較して議論するのは困難だが、むしろ「構造性」より、「無自覚性」の持つ、なにかよくわからない豊かさが読み手を惹きつける。なぜならそれは、劇性から逸脱する力に溢れているからで、すると、候補作になったほかの作品たちのうち、〈ドラマ〉と分類される傾向を持った作品たちが評価されない結果にもなった。構造を含んだ〈劇性〉が、逸脱する魅力を上回る圧倒的な戯曲になっているかが試されたからだ。
 藤田貴大の『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』は、そうした議論とはまったく無縁な位置、なにか異なる場所に存在する印象を与える。九〇年代以降に出現した、この国の〈ある演劇の傾向〉に影響を受けている印象を感じさせつつ、けれど、誰にも似ていない。誰にも似ていない方法によって、表象すべき演劇的な行為に〈言葉〉で接近しようとする。そのひとつが、すでに書いてきた〈魅力的なせりふの響き〉の、「魅力」の表出を、そこに書かれた言葉によって発するのとは異なる方法で試す作者の筆致だ。そのことに興味を惹かれた。
 ノゾエ征爾のような「構造性」ではない。矢内原美邦の「過剰な言葉の疾走」でもない。ではなにか。細かく読んでいくと、いくつもの手法によって織りこまれたテクストは、その細やかな手つきによって緻密に調整され、きわめて複雑な手触りを感じさせる一枚の布のような豊かさがある。まず、これが三つの作品によって構成されているという形態がそもそも奇妙だ。『帰りの合図、』『待ってた食卓、』、そして『塩ふる世界。』という三作品が全体を作る。三つの作品に共通した要素として「家」がある。もっというなら「家族」ということになるが、それを既存の方法で描くなら、ここに「家庭劇」らしい人物が存在しなければおかしい。つまり、父と母、そして、子どもたち、あるいは祖父母がいることで家庭劇はその結構を整えるが、「家」を描きながら、そのような空間は出てこない──父や母は登場しない。まして祖父母も。そこに死を想像させる陰りがある──だから、『帰りの合図、』では、「家」は常に、少し距離のある場所に設定されている。おそらく東京であろう、都市で一人暮らしするそのアパートの一室という「家」のほかに、田舎の「家」があるが、どちらも常に〈距離〉はある。その〈距離〉をどのように演劇的に描くかが言葉によって紡(つむ)がれる。たとえば五十メートル先のことを演劇は舞台という限られた空間でどのように表現できるだろう。その方法のひとつがくどいほどの繰り返しだ。信号を待っているというごく短い時間が、同じせりふのリフレイン(=反復)を含みながら細密に描写され、「近づく」という行為が、しかし、同じせりふの〈反復〉によってどこまでも〈遅延〉される。せりふの〈反復〉と〈遅延〉がリズムになり、音楽のような響きを劇の全体に与える。そのあいだに語られるのは、信号を待つ者のどうでもいいような内的な意識の言語化だ。だが、待っている当人にとってそれはとても重要な意味がある。『待ってた食卓、』では、「田舎の家」が舞台となるが、「家族」は欠落し、父母は存在しない。ここでは「家族」とは、「兄妹」のことだから、末の妹のりりは、「わたしたち、、兄妹、、、が、、、食卓を囲んで、、、朝ごはん、、、を、、、食べたのは、、、いつ振りだろう、、なぁ、、」「いつ振りだろう、、、兄妹が、、、家族が、、、食卓に、、、集まったのは、、、」と口にする。この、「、、、」と読点が並ぶ独特な文体は、ディレイ・エフェクトとしての新しい劇作術である。ここでもまた、言葉が小さく〈遅延〉しているのがわかる。それはなにを示すか。この独特な表記の方法は、このせりふに限らず、すでに『帰りの合図、』でも多用されているが、りりが、ことさら言葉を〈遅延〉させることでわかるのは、人はあたかも、「そこに書かれている言葉」を読むようには言葉を発していないことだ。そもそも言葉は、どのように意識から口元までやってくるかという問いがここにはある。だから藤田作品の登場人物たちは言葉を〈遅延〉させる。
 いつだって言葉は意識より、ずっと遅いのだ。
 さらに、『塩ふる世界。』において印象的なのは、前の二つの連作に通じるように〈私のこと〉もまた語られるが、それ以上に、〈外的な状況〉が語られるせりふで、ト書きに示された「釣りをしていたおじさん、高校生たちの前を通り過ぎる」という状況について、ひなぎくが、「おじさん、、、が、、、わたしたち、、、の前を、、、通り過ぎた、、、のは」と語る。これもまた少しずつ変形しながらリフレイン(=反復)され、このことで表現されるのは、ほかにも時間や季節を表現するせりふがあるにもかかわらず、それこそが〈夏〉を鮮明に描いていることだ。ともあれ、〈釣りのおじさん〉は〈私たち〉の前を通り過ぎた。しかも、なんども繰り返し、〈釣りのおじさん〉は〈私たち〉の前を通り過ぎる。
 そのなんでもなさが〈夏〉を表現する。どんなに「暑い」といった言葉を使っても描けないもの、若い女たちが「暑い」と繰り返し口にしても描けない〈夏〉が出現する。それはおそらく、こうして、いま読むことのできる三つの藤田作品に共通して漂う〈リリシズム〉と、ある一瞬の時間ともいうべき、いまではそれを描くことがきわめて困難になっている青春、けれどそれは、きわめて〈苦い青春〉とも呼ぶべき、彼ら、若い男女の群像を描く方法だ。それはどのようにして可能か。『塩ふる世界。』にもまた〈距離〉についての描写がある。そして細部に共通しているのは、人の背後を歩いている、その〈私〉の意識を、リフレイン(=反復)によって語り、そのことでようやく〈距離〉は、演劇的な方法として可視化されることだ。だから、この方法が有効になる。なぜなら、〈距離〉とは文字通り、道の先を歩いている者や、家までの〈距離〉だけではないからだ。私と他者との心的な〈遠さ/近さ〉のことになる。
 そこに〈反復〉と〈遅延〉という方法が試された。それはあたかも、サンプリングした音源をリフレインし、ある一定のリズムが生まれるヒップホップやハウスミュージック以降の音楽の特長にも似た響きがある。そこに旋律(=ドラマ)がリズムのあいだを縫うようにして流れるとき、鮮やかなグルーブ感は生まれる。そして奇妙なのは、だからこそ、読む者にどこか異和感を抱かせるところだ。ノゾエ作品のような「構造性」の巧みさともちがう。矢内原作品の「過剰さ」ともちがう。この苦みはなにか。異和はどこから来るか。ことによると、意図して、間違ったことを書いているのではないか。間違った方法をあえて選択しているのではないか。そうでなければ、現在を描けないと確信しているように。

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