第54回岸田國士戯曲賞選評(2010年)

受賞作品

『わが星』柴 幸男

 

言葉への信、不信、   岩松了
 例えば江本純子『セクシードライバー』、タクシー運転手とその車に携帯電話を忘れた女のとめどない会話。交わされる言葉の応酬は面白いし二人の人間性にも面白味はある。がしかし、この会話に演劇を支える力はないのだと知るべきである。舞台中央では、工事現場のクレーンが音もなくゆっくり回転している。二人の会話はその奥、舞台の端っこで交わされるべきであり、このクレーンこそが二人の存在に意味を与える。問題はこのクレーンを見てるか見てないか。
 近年多く見られるこの言葉の応酬にたけた書き手たちのその面白がり方は、この先どこへ向かうのだろう。言葉ですむほど、或いは言葉で身を守れるほど、人の世は簡単であろうか。
 その言葉に対して自覚的に距離をとろうとしてい るのが、柴幸男、松井周、野木萌葱の三作品。
 『あの人の世界』(松井周)は構造に無理があり、人物が平面的で、その分を作者の感情で押し切ろうとしている。その感情と作品の近さが風通しを悪くしている。上からの小便を下で雨だというシーンに、その意味を変質させる力がないのがその例。
 『五人の執事』(野木萌葱)は、読み終えてああこんな話かと思うのだが、ならば執事Kが正気を取り戻す時間こそがドラマだろう。結局、どこに問題が潜んでいたのかが探れないまま、五人の出入りに終始した。
 『わが星』(柴幸男)は、ひとつの家庭、ひとりの少女を宇宙の中に放り出し、無用な思い入れなく、人のあわれを描き出している。無常観すら感じさせるその筆致は、A・キアロスタミの映画を観るようで、容易にヒューマニズムなどという言葉に手をのばしてはならぬという警鐘とも感じる。くり返しと少しずつずれてゆくシーンの連らなりも効果的だ。舞台装置や音楽に対する指定も台本には書きこまれているが、個人的には、ちまちました家庭劇もどきが横行してきた演劇シーンに、ひとつの爆破装置を仕掛けたという意味でも評価できるし、歓迎すべき作品と感じた。


なんというか、かんというか   鴻上尚史
 今年の候補作は、例年に比べて今ひとつではないか、という印象でした。選考前には、今年は受賞作なしかな、とも思っていました。
 江本純子さんの『セクシードライバー』は、演劇的な構造に弱く、登場人物の川口さんが立体的にからむとか、女の携帯の写真のエピソードが早くに展開されていれば、もっと面白くなったと思います。言語感覚は非常に研ぎ澄まされているだけに残念です。
 前川知大さんの『見えざるモノの生き残り』は、現代の座敷童子という設定は抜群に面白いのに、エピソードが並列的で深まらなかったことが残念です。一つの家庭、一人の座敷童子に焦点をあて、そこからぐいぐいと深めていけば、とても面白いものになったと思います。
 同じ設定で、再チャレンジに期待します。
 柴幸男さんの『わが星』は、僕にはどうも、ソーントン・ワイルダーの『わが町』の感動をかなりの部分、借りているのではないかと感じて、乗り切れませんでした。
 僕自身、『わが町』が大好きだというのが、一番の原因だと思います。とても大きなものととても小さなものを同時に扱うと、そこに「詩」が生まれます。刹那と永遠を一度に手の上に乗せようとすれば、そこに切なさが立ち上がります。
 『わが星』の感動は、『わが町』の感動ではないのかと僕はずっと思っていました。
 けれど、他の審査員の方々が受賞作として押しました。
 柴さんの魅力は、たぶん、演劇の可能性を遊びとケレン味の形で押し広げていくことなのでしょう。これから数年後、僕の「乗り気のなさ」は間違いだったと教えられるような活躍を期待します。
 おめでとうございます。


「上演」への意識のありかた   坂手洋二
 江本純子『セクシードライバー』は台詞も軽快で、風俗コントとしてすいすい読み進められる。だが後半、話をまとめる姿勢になりすぎていて、しかも演劇的にではなくネタとして終わらせている感じがあって、もったいないと思った。
 神里雄大『ヘアカットさん』は、床屋でもカラオケ屋でもいいのだが、現実の場所で突発的に上演するような志向性を持った作者ではないかと勝手に妄想したが、世界観を提示する途中で終わってしまった気がする。
 野木萌葱『五人の執事』は、よく書けていると思わされるところと、意外と流してしまっているのではないかと思われる部分のムラがあって損をしている。私はこの作者の劇団の『東京裁判』を観ているので、あの俳優チームがこれを演じるのかという理解で腑に落ちる面もあったが、逆にそこからもっとはみ出してもいいのではないかとも思ってしまった。
 福原充則『その夜明け、嘘。』は、「環七」というリアルをどう定着させるかが鍵であり興味深い。創作者を登場人物にすることで「これはフィクションの部分です」という手法が使えるとき、「なんでもあり」になってしまうことを警戒するところから始めるべきだったのではないかと思う。
 前川知大『見えざるモノの生き残り』 のように「アイデア」で勝負する作品に私は点が甘いのだが、なぜ最終的に、せっかく示した世界観とはさほど関係しない「ストーリー」の決着によって終わらせようとするのかがわからない。アイデアを真に優れたものにするには、それに見合った新たな方法論が導き出されなければ。
 松井周『あの人の世界』は、開き直ったようにある種の「へんてこりん」の「羅列」をしているのだが、構造的なようでいて徹底していないために、ぼんやりとした印象しか伝わってこない。
 柴幸男『わが星』は、失礼を承知で言えば、他の候補作との関係では、一種の消去法で一番まともに見えたというのが本当である。「だからなんだ?」と思うことも多々あるし、手垢にまみれたノスタルジア史観だとも思う。それでも作者は自分のスタンスに合わせて新しいことに挑んだ。「上演」を意識した台本であることが、この場合は吉と出た。


設計士としての勝利   永井愛
 今回の最終候補作には、凝った手法のものが多く、そこはかなり楽しめたが、人物は総じて単純な印象で、戦略的に記号化したとは思えないところがまた共通していた。
 『わが星』(柴幸男)は、地球と宇宙に流れた時間と、地上の人間に流れた時間を相対化するという、壮大な遠近法で見せる。それは、ワイルダーの『わが町』の本歌取りとして、充分な詩情を獲得しているのだが、人物の会話は平板で物足りない。これが意識的なことなのか、このような描き方しかできないのかという疑問は最後まで私を迷わせた。この作品は最も高い評価を集めたが、受賞作とするかどうかの議論が長引いたのは、ここに起因していたと思う。だが、この立体構造は捨てがたく、設計士としての柴さんが勝利を収めた。舞台を見てみたいと思わせる作品だった。
 『五人の執事』(野木萌葱)は、今注目の「官僚的性格」を執拗に展開させる面白さがあった。だが、オシャレな包装を解いてみたら、中には豆一つといった味気なさが残ってしまったのも事実で、「年間正気を失っていた」この屋敷の主人が、なぜ執事という立場に分裂してしまったのかについては、種明かしというよりも、腑に落ちる何かが仕組まれているべきだったと思う。
 『その夜明け、嘘。』(福原充則)の入り組んだ構成は、同時進行する世界のダイナミズムに迫る可能性があった。そこに至らなかったのは、各人のエピソードが、あまりにもたわいなかったからではないだろうか。
 『セクシードライバー』(江本純子)の台詞は、俗っぽさのつかみが秀逸だった。ただ、戯曲自体がどこまでもタクシーで平面移動するだけのような構造のまま、安っぽいオチにたどり着いてしまったのは残念だ。
 『あの人の世界』(松井周)は、難解というより杜撰に感じた。この作者にしては、台詞から喚起されるイメージが少ない。視覚的な要素に頼り過ぎたせいなのか。
 『見えざるモノの生き残り』(前川知大)は、物語るだけで精一杯という罠に落ち込んでしまったのではないだろうか。会心の作ではないように思う。
 『ヘアカットさん』(神里雄大)では、ベタな台詞に複雑な構成という組み合わせに戸惑った。この構成でなければ描けない何かがあったことをもっと証明してほしかった。


寂しさを解く   野田秀樹
 寂寥感とか孤独といった、積み上げられた悲しみではなくて、ただ寂しさの様なものを『わが星』を読んだ後に感じた。
 「今ここに、光が届いているあの星が、とうの昔に消えているかもしれない」という話を誰もが子供のころに聞いた。その時に誰もが感じた《初めての寂しさ》のようなものだ。それは、人が初めて感じる《生き物としての寂しさ》と呼べる。ありふれていると言えばありふれたモチーフだ。
 だが柴氏は、このモチーフをただありふれたセリフや手法で表現していない。《ずらす》という手法で蘇らせている。韻を踏んだり、或いはラップというセリフの在り方で、コトバを《ずらし》、さらにそのコトバを発する主体を《ずらし》、その《ずれ》から、星の光を絞り出した。読み終わった後に、確かに、その星の光のようなものが零れている。涙を流すような悲しさではない。透き通って寂しい。ここまで徹底して《ずらす》手法は、新しいと呼んでいい。肉声を含めた肉体を使う舞台でしかできないコトバの扱い方である。この《ずらす》手法は数学の問題を美しく解いて見せた時の方法に似ている。答えは、《寂しさ》であり、驚きはない。だが解き方が美しいのである。この手法だけで、今後どれだけのことが表現できるのか、或いはどこかまでしか表現できないのか、それは私の預かり知るところではない。でも、今この時点で、この手法はひとつの才能である。この作品をためらわずに推した。
 江本氏の『セクシードライバー』は、セリフは上手いが今はやりのコントの台本である。芝居のサブストーリーだけで芝居を作っちゃったという風に見えた。どこかにあるだろう本編が見たい。
 福原氏の『その夜明け、嘘。』も、これもまたセリフが上手い。何気ないのに面白い。何度も笑った。だが、スランプの漫画家の世界を描いた作品そのものが漫画になってしまったのは、テレビの中でテレビを見せられている(この比喩でいいのか?)ようなつまらなさを感じた。仕掛けがない。
 神里氏の『ヘアカットさん』は、マイク・ジャクソンの条が好きだった。だが残念ながら、これがバイクで死んだ青年やその恋人の話とは何ら絡まない。結局ただの安いセンチメンタルなドラマに終わっている。せっかくマイク・ジャクソンなのに……。
 松井氏の『あの人の世界』は、構造を隠そうとしすぎて、複雑になり失敗している。もっとすっきりととぼけている方がいい。彼の面白さは、《無関係なもの》に無理矢理《関係》を持たせようとする我々人間の病気を利用したような台本にある。と、勝手に思い込んでいる。面白い才能なだけに、今回のはいただけない。私にはただ「動物実験に抗議した若い女性の自殺っぽいもの」の話に見えてしまった。この解釈があっていたらつまらない話だし、間違っていたとしても、そうにしか見せなかったこの構造が破綻していると言える(或いは、わたしが馬鹿か、ま、十分その可能性もある)。
 前川氏の『見えざるモノの生き残り』は、作家が多忙なのか? この作品は如何にも練られていない。作家が人間の「死」と真剣に向き合わなければならない理由はない。とことん逆の手もある。だが、ここで描かれているナナフシの死は芝居を終わらせるために用意された、ただのオチだ。「彼が強姦に及ぼうとした時に、座敷童子が女性を守ろうとして、プロレスの技を使って彼を殺した」ということになる。「死」に真剣でないばかりでなく「創作」というものに真摯でない。こんなオチのような結末は要らない。彼の旧作品、他作品には、面白いものがいくつかある。何故これが候補作に上がってきたのか、解せない。
 野木氏の『五人の執事』は、どうなっていくのだろう? という興味を持って読めた。空間を感じることのできる本だった。ただ、途中で、多重人格にオチをつけるのだと読めた時から、一気に興味が薄れた。芝居というのは、オチをつけるために、書かれるべきものではない。後半は、一人の多重人格者である主人と一人の執事の物語におちていくのだが、それが分かったからといって、何の驚きもない。数学として台本を構成することは悪くない。だが、これは悪い解答例だ。解答はあっているが解き方が美しくない。私たちが見たいのは、答え(=オチ)ではなくて、解き方(=芝居)である。


テン年代に向かって   宮沢章夫
 三本の戯曲に注目した。神里雄大の『ヘアカットさん』、松井周『あの人の世界』、柴幸男『わが星』だ。この数年の候補作にはなかった新鮮な手触りがこの三作品にはあった。とはいっても、心地よい感触とは異なる。あるいは戯曲のクオリティの高さともちがう。たとえば、ト書きが粗雑に書かれていることをはじめ、どこか荒れた筆致を感じるし、戯曲としての形のよさとはほど遠い。けれど、だからこそ出現したのだろう〈演劇的なジャンプ〉がそれぞれ魅力的だ。
 たとえばそのひとつは、ドラマにおける「役」というありようへの問いと捉えることができる。だから『ヘアカットさん』にしろ、『わが星』にしろ、「役」を演じる俳優が入れ替わること、一つの「役」がべつの「役」に入れ替わったり、複数の者がひとつの「役らしきもの」を演じることを躊躇しない。そしてさらによく読むと、ことさらそれを「新しい」として書いていないのが印象に残る。つまりそんな方法はさして大きな問題ではないのだ。演劇のあるルールは乗り越えられている。つまり〈アンチテアトル〉であることなどそこには存在しない。それは自明だからだ。
 『ヘアカットさん』では、冒頭に記される俳優のふるまいを指示したト書きが興味深い。舞台上で待機する演技していない俳優への指示である。
 「原則として客席を凝視すること」
 これをたとえば、舞台と観客とがどう関与し合うかという、演劇が根本的に抱える課題として考えようとすれば、まんまと戯曲の罠にはまる。意図はごく単純にちがいない。それは、そうしたかったから、ただ単にト書きがそう指示しているのである。作者はことごとく読者を裏切る。そこでは〈アンチテアトル〉もまた過去のものとして裏切られるのだ。戯曲の決まりごとを覆そうと意図しようとすること、演劇という括りそのものを異化し、ふざけた態度を貫こうするのは魅力的なふるまいだ。けれど、それらはすべてあらかじめ〈演劇〉によって〈容認〉されてしまうことを彼らは知っている。こうした種類の戯曲、あるいは演劇という制度からずれてゆこうとするスタイルはある時期から困難になった。演劇だけではない。現代のあらゆる種類の表現領域で発生した事態だ。すべてはたやすく〈容認〉されるのである。同様のことは、松井周の『あの人の世界』でも言えるだろう。
 つまり、どんなことも許される。
 そうした表現の空間とこの時代では、どんなラジカルな、あるいは過剰な態度もむしろあたりまえの演劇になる。しかも歴史(たとえば六〇年代演劇)がそれを実証しているからなおさら後進の者にとってはやっかいだ。それでもなお、わたしは『ヘアカットさん』を推し、そして『あの人の世界』を推した。演劇の現在性のある基準を示すからだ。
 さて、一読したとき私は、『あの人の世界』をもっとも強く推そうと考えていた。それというのも、この得体のしれない世界の造形と、組み立てられた〈物語る構造〉から出現する空気が圧倒的に強い力を持って読む者に迫るのを感じたからだ。松井周の作品世界を簡単にまとめるならおそらく次のようなものになるだろう。
 「なにくわぬ顔の変質者という特権性」
 そうした特権性を持った作家に私は憧れる。「踊りが好きでスケベな若者1」と「2」のような登場人物をごく自然に登場させるような書き方が自分ではうまく書けないからだ。けれどあらためて読んだ二読目、グロテスクさが、ある目的、つまり「グロテスクな世界造形」という方向に意図して書かれ、その強引な手つきは奇妙な登場人物をそのためだけに不自然に登場させることになったと思える。
 〈ファーリー〉というイメージによって描かれ、きわめて魅力的に歪んだ、あたかも変性意識に支配された空気(サイケデリカ)によって包まれた世界は、新しい六〇年代演劇(つまり俗にいうネオアングラ演劇)を思わせる。それは魅力的になるはずだったが、それもまたあらかじめ〈容認〉されている。ここから突破するにはもうひとつなにかが必要だ。『あの人の世界』に欠けているなにか。それは〈演劇〉だけの問題ではなく、テン年代に向かって文化全体が少しずつ動いている現在の反映にちがいない。
 だから、柴幸男の『わが星』は多くの選考委員に好感を持たれたのではないか。正直、これを推そうと思ったときわたしは、推すのはわたし一人だと感じた。だが、第一回の投票でほぼ決定していたことに驚かざるをえなかった。おそらく、この数年の潮流から、また異なるテイストを携え、ある切断を本作品がもっとも顕著な姿で表現していたからだろう。世界を、人類を肯定する前向きなメッセージはへたをすれば陳腐なものになっただろう。だが、ヒップホップの方法論を持ちこみ、□□□(クチロロ)というブレイクビーツ・ユニットの音楽も果敢にとりこんだ「建設的」なアプローチは、いわゆる現代口語演劇を再構築する。反復しつつ、微妙な差異によって紡がれる〈世界〉の小さな震えと、その巨大な〈世界〉のなかで、距離を縮小し新しいテレビを買うことを希望する矮小でどうでもいいような細かいディテールと欲望が平行して動くとき、読む者は、そこに自身の存在をあらためて見る。遠い宇宙の彼方からわたしたちはごく小さい存在であり、しかし、そのカメラを接近すれば、内宇宙がわたしたちのからだの内部で蠢いている。それを人は「セカイ系」と呼ぶだろうか。だが、いま演劇は、これまでとはまた異なる方法によって演劇ならではの新しい地平のひとつを切り開いたと言っていいだろう。わたしは『わが星』を推す。□□□を聞きながらあらためてその戯曲を読み、まだ見ぬ舞台に想いを馳せ。

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