第47回岸田國士戯曲賞選評(2003年)

受賞作品

『アテルイ』中島かずき

 

貪欲なところが上々吉   井上ひさし
 ドタバタ笑劇のギャグ(笑わせる工夫)、演劇論的なギャグ、シェイクスピアの史劇のような構えの大きさ、太宰治の『走れメロス』を映したような友情論、そして国家共同幻想論の入門知識などのごった煮を食べたような気分になるのが、『アテルイ』(中島かずき)である。もちろん、「ただの寄せ集めではないか」と不平をいっているのではない。逆に、作者の貪欲さにほとんど感動したのだ。
 さまざまなかたちの芝居が懸命に競い合うこと、そこにしか演劇の未来はない。こういう貪欲な芝居があってはじめて、ほかの芝居も引き立つのである。
 とくにすぐれていたのは演劇論的ギャグで、たとえば幕開き、夜盗一味に襲われて「あわやの危機」におちいった踊り女が笛を吹く。夜盗どもが「こんな都のはずれで誰が助けにくるものか。あの花道奥の引き幕がシャリンと開いて、刀を持ったいい男が助けに来てくれればいいなあなんて甘い考えを持ってるんだろうが、そんなことがあるわけなかろうが。ばかたれが!」とからかうと、〈その時、花道奥の引き幕がシャリンと開いて、男(坂上田村麻呂)が、「あるんだなあ、それが」と云いながら現れる〉……こういうのが、わたしのいう演劇論的ギャグである。ギャグを仕掛けた上で主人公を紹介するこの手口は上々吉、これからもこの手のギャグを貪欲に開発してほしい。この作品がそうであるように、劇構造さえカッチリと作っておくなら、いくらギャグを詰め込んでも芝居は崩れることはないだろう。これからも、この貪欲さを貫いていただきたい。
 受賞に価する作品として、『前髪に虹がかかった』(蟷螂襲)も推した。漫才師たちが師匠の墓参りに集まってくる一刻を、さまざまなタイプの漫才の形式で描くという趣向がすばらしい。じつに魅力的である。しかし、墓参りでは気分が高まらない。これでは舞台も客席も落ち込んでしまうだろう。たとえば、師匠追悼一周忌特別興行というような気合いの入る設定だったら……そう思うと惜しくて仕方がない。


『アテルイ』を推す   岩松了
 長塚圭史『マイ・ロックンロール・スター』:西谷という人物をもっと多面的に視て欲しい。まわりの人物との関係が単調すぎ。だからストーリー以上のドラマが生まれてこない。亀やハムスターなど、ネタどまりになっているのが惜しい。
 土田英生『南半球の渦』:野球に例えるなら、そんな投げ方では肩を痛めるぞと言いたくなるような筆づかい。構想の段階から、あまりにも小手先。暗転の効果もいきてない。腰すえて書いて下さい。
 蟷螂襲『前髪に虹がかかった』:せっかく様々な人間関係をこしらえてあるのに、構造がズサンすぎ。人物がたいてい「かけこんでくる」というト書きによって登場してくるってところに問題がありはしないか。ただ、海唄がはじめて師匠の前に出た時の描写など、ディテールが良い。
 長谷基弘『ダウザーの娘』:思わずセリフを飛ばし読みしたくなるような一言一言の軽さは何であろうか。これらの人物に百年後の対立もないということか。父親が娘を捨てるという発想に魅かれるが、そこに生半可な理由づけが出来ぬ深淵を見たい。
 鐘下辰男『ルート64』:会話に最も演劇を感じたのはこれだが……。まず、TVドラマの金八先生の言葉をバカにしてた奴がグルの言葉に心酔するのだが、この二つの言葉のどこがどうちがうのかわからない。総じてこの四人の見た世界がどんなものであったが故にこの事態が生じたのか、みごとに未消化。
 中島かずき『アテルイ』:演劇と格闘しているエネルギーを最も感じた。この戯曲のもつ方向性は時に演劇の疲弊を招き、時にそれを食いとめる力をもつものと思うが、ここに費やされたエネルギーは確かに演劇の原点にちがいない。そして候補作を並べてみた時に、そのエネルギーは今の演劇状況の混迷を逆に照射していると思えた。私はこれを受賞作として推した。


意識化の欠乏   太田 省吾
 私は受賞ナシと考えていた。選考委員の意見からも、〈コレハどうしても〉と強く推す言葉は聞かれなかったし、したがって受賞ナシの考えを積極的に覆すこともできずに選考を了えた。
 私が候補作の中で点を入れたのは、長谷基弘さんの『ダウザーの娘』であった。アメリカ大陸の各地を、求めに応じて井戸掘りをして歩く父について歩きながら少女時代をすごし、父を亡くし歳をとった今、その道を当時と同じくヒッチハイクしながらたどり直している女性がいる。この作品は、そんな彼女と出会い、その旅に興味をもって同行する日本人の若者たちを扱った作品である。
 この作品は、言葉というものを〈自然〉のものとせずに、あるいはそうできないといってよいようなところに置こうとしている。作者名の前に、原作/翻案/翻訳と記されている。
 英語で書いたものの翻訳であるという〈屈折〉の下にあるということで言葉への〈屈折〉が示されている。しかしそれは、アメリカ大陸を放浪する若者の漠然としたよるべなさの表現に作用しているように思えた箇所もあったが、もっと意識化されてなければという不満を払拭できず強い推しを通すことはできなかった。
 受賞作、中島かずき『アテルイ』については、私は点をいれることはなかった。この作品は〈大劇場〉での作品としての破綻の少なさといったところが評価されたが、私には〈大劇場〉演劇のエンタテイメント性を担うということが、どうしてもイデオロギー性を担うということをともなわなければならないという、興業形態の政治性を強く感じさせるものであり、そこを脱する、もっと〈荒唐無稽〉なものが構想できないものかと考えさせられた。
 世界的に、演劇のエンタテイメント性は新サーカスにとってかわられつつある。エンタテイメント演劇は、おもしろくないというより、無意識裡に死んでいるイデオロギーにたよっていて、それを観るのは苦行となるからではないだろうか。この作について、そんなことを感じている。


例えば、三好十郎のように   岡部耕大
 今年も議論が白熱した。「特出した戯曲がない」というのが選考委員全員の意見であった。 わたしは蟷螂襲氏の『前髪に虹がかかった』を推薦した。言葉の遊びや風景が懐かしかったからである。もう、古いとか新しいとかで戯曲を議論すべきではないと考えたからである。ただ、この戯曲は新しがろうとしたばっかりに折角のテーマを分散させた。「アングラの行き着く果て」といった選者もいたが、わたしはそうは考えなかった。出発はどこから出発してもいい。その書き手の素直な素材に辿り着くことが大切であると考える。この戯曲を読み辛くしているのは舞台設定と役名である。もっと素直に書いてよかった。その意味ではこの書き手は「人情物」を堂々と書けばいい。物を書くというのはなにかに拘ることだともいえる。故郷や人間や時代や思想。どこかに拘って物を書く。 長塚圭史氏の『マイ・ロックンロール・スター』は読み応えがあった。言語感覚が豊かである。しかし、ラストの20ページぐらいは頂けない。あれをやってはいけない。折角の氏のセンスがナンセンスになったのではないか。
 中島かずき氏の『アテルイ』は昔から繰り返し語られたテーマに毒々しく色付けをした戯曲と解釈した。これも読み辛かった。しかし、スペクタクルとしての舞台をイメージすれば相当な舞台のはずである。
 長谷基弘氏の『ダウザーの娘』には驚いた。たった一年で相当な進歩である。やはり、可愛い子には旅をさせるべきなのかもしれない。
 鐘下辰男氏の『ルート64』と土田英生氏の『南半球の渦』の評価は低かった。じっくりと書いて貰いたい。書きたいテーマがなければ書かなくてもいいのではないか。
 テーマ喪失の時代といわれた時期がある。しかし、いまはテーマであふれている時代である。故郷や人間や時代や思想。頑固に拘って書くべき時代ではないのか。そうも考えます。例えば、三好十郎のように。


アングラ演劇の「なれの果て」   佐藤信
 今回も、選考会での激論の対象になるような候補作はなかった。もしかしたら選ぶ側であるこちらの感性と現在の演劇のありようとのズレが、もはや並大抵の理屈ではどうにもならないところに来ているのかも知れない。
 だとすれば、戯曲賞の選考などというまどろっこしい「批評」の場にいつまでも胡座をかいていずに、さっさと現場に戻って自分なりの作業にはげめばいい。こころからそう思う。
 土田英生さんの『南半球の渦』の設定の底の浅さとアボリジニなどの「現実」理解の乱暴さ、長谷基弘さんの『ダウザーの娘』に登場する日本人たちの自己中心的な無神経さ、長塚圭史さんの『マイ・ロックンロール・スター』の安直なエンタテイメント、鐘下辰男さんの『ルート64』の世界観の幼稚さ、いずれもこの作者にして何故という疑問ばかりが先立ってもどかしかった。
 あとに残った二作を、ぼくは選考会で「アングラ演劇のなれの果て」と評した。貶めるつもりではなく、精一杯のシンパシーの表現のつもりだった。
 最終的には、蟷螂襲さんの『前髪に虹がかかった』の「こだわり」よりも、中島かずきさんの『アテルイ』の「確信犯」的爽快さを推した。もって瞑すべし。
 アングラ演劇から三十余年。新しい風が巻き起こる必要が確実にある。あるいは、その風の微かな気配を敏感に感じ取れる感性が。


事件と問題   竹内銃一郎
 今年も該当作ナシでいいのではないか。そして、二年続けて受賞作を出せなかった責任をとって、選考委員は総退陣する。たまにはこれくらいの〈事件〉や〈問題〉を起こしても、などと不謹慎な思いを抱えながら、選考の場に赴いた。
 スタイルばかりで、言葉がない。六本の最終候補作を読みおえての感想を、ひとことで述べればこういうことになる。
 『ルート64』は、例の「坂本弁護士事件」を素材としている。〈事件〉の加害者たちの内部を象徴するような密室。そこに置かれた一台の車。物語は、〈事件〉前、〈事件〉中、〈事件〉後が綴られるのだが、劇は、この場を動かない、夢のような構造となっている。考え抜かれた仕掛けだが、いつものことながら、この作者特有のマッチョな匂いが気になった。健全な市民感覚への懐疑と嫌悪の表明は、この作者の、他の作品でも見られる、いわばメイン・テーマである。この作品の、読み手の神経を逆撫でするような〈殺し〉の描写も、それを踏まえた意識的なものであろうが、明らかに悪趣味の範囲を超えている。〈事件〉や加害者である〈信者〉たちへの視線も、ワイドショーのそれと大差ない、過酷かつ通俗的なものであるように思われた。
 『ルート64』が、最終候補の六作品の中でもっとも多くの〈問題〉を抱えた作品だったとすれば、受賞作となった『アテルイ』は、もっとも〈問題〉の少ない作品であった。ふたりのヒーローと、彼らをとりまく多彩な登場人物。恋と友情、そして、裏切り。戦いがあり、魑魅魍魎も跋扈する手に汗握る物語。笑いあり、涙あり、おまけに、古代史に関するちょっとした豆知識も得られる、大衆娯楽作品としては、まさに万全の構え。しかも、あれもこれも誠にうまく案配されている。しかし、それ以上でもなければ、以下でもない。御簾の向こうの天皇に実体がないのであれば、どう波瀾に万丈を重ねようと、この物語に〈事件〉や〈問題〉など起ころうはずはないのだ。


日本の漫豪   野田秀樹
 われわれより少し上の世代あたりから、漫画というものを、とてもよく読むようになった。日本の漫画は今や世界的に見ても大きな力を持つ文化だ。当然、その影響力は日本のあらゆる文化におよんでいる。小学生の展覧会の絵などを見ても、およそわれわれの時代には許されなかったお目々パッチリの絵が並んでいる。文学然り、そして日本の戯曲においても、もはや漫画の影響力は否定しがたい。
 中島かずき氏は、漫画の原作を書いていたという出自からもわかるように、いよいよでてきた、そうした劇作家の本格派である。
 善悪をはっきりと描き、誇張と省略を用い、近代的な人間の心理描写を無視する。そして明らかに「見られる戯曲」としての意識がある。その意味で歌舞伎の脚本に通じるものがある。
 コトバでは、人間の明と暗、人間の光と陰を書いているのだが、実はすべて説明され、陰の部分にも光が当てられる。
 漫画が、短絡的であるというそしりをのがれられないように、彼の作品にもそうした批判が集中することは想像できる。
 だが文化というものは、今一番力のある表現形態と共に再生していくものだ。こうした新しい、今迄ありえなかった戯曲が、この先どうなるか? とか、今の文化を短絡的なものにさせるのではないか? とか、そうした心配をする前に、われわれは文化の現況を、彼のようにひきうけるべきである。中島かずき氏は、誰とも違うものを書いて、そして、面白い。筆にも勢いがあり、短絡的とは云ったものの、粘り強く説明し、善悪ものとしての矛盾がない。だから彼独特の「裏切り」のキャラクターというものが生まれる。今後も、ロシアの文豪の如く日本の漫豪としてもっともっと書き殴っていって欲しい。

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