第44回岸田國士戯曲賞選評(2000年)

受賞作品

『兄帰る』永井愛

 

設定の問題   井上ひさし
 孤島の生理学研究所に異常に高い知能指数を持つ犯罪者が被験者として送り込まれてくる(はせひろいち『ダブルフェイク』)、ダンテの神曲を下敷にした天使捕獲工場にまつわる神聖喜劇(長谷川裕久『堕天の媚薬』)、たがいに夢を見合うという構造の上で展開する漫才風な終末劇(天野天街『くだんの件』)、糧流(カテル)島という独裁国家の卓球リーグの立て引き(泊篤志『IRON』)、そして、戦場の最前線に立つ鉄塔に籠城したコミックバンドの命運(土田英生『その鉄塔に男たちはいるという』)――どれも秀抜な設定である。劇的空間を、いくらでも作り出せそうな、すぐれた情況ばかりである。
 けれども、この五人の新鋭は、まことに惜しいことだが、せっかくの設定を充分に活かし切るまでには至らなかった。設定の外側をぐるぐる回るばかりで、設定の核心を力強く貫く仕事を避けている。そこで何だか思わせぶりな作物(さくぶつ)になってしまった。とくに惜まれるのは『その鉄塔に男たちはいるという』で、この設定の核心は、コミックバンドがいったいどんな芸を持っているかにある。
 選ばれて前線慰問をするからには、なにか面白い演目(だしもの)を持っているはずだが、少なくとも作品にあらわれた各人の持ち芸は貧弱で、この程度ではアマチュアの域を出ないだろう。つまり設定は卓抜だが、その核は弱かった。切に次作を待つ。
 その点、永井愛『兄帰る』の設定は地味である。蕩児が弟のところへ帰ってくるという設定は、菊池寛の『父帰る』を連想させて損でさえもある。だが、作者の登場人物に与えた性格づけの面白さ、そして台詞術の冴えが、平凡な設定を、やがて輝くようなものに変えてしまう。要点を常にぼかす胆芸の叔父、同じことをくりかえしてばかりいる非論理の塊の叔母、感情論でしかものが言えない姉、この三人に振り回される弟、そして何を考えているのか得体の知れぬ蕩児の兄。各人の台詞はすべて各人の性格から発せられ、みごとな台詞術になっている。山場は正論しか言わない弟の妻が蕩児の兄から激しく面罵されるところ。ここで設定が逆転して、逆ノラ劇になる。すばらしい本歌取りである。つまり作者は、よく知られている二つの設定を使って、そう簡単には古びない確固たる劇を一つ創造したわけだ。


〈劇的連関〉が見たい   太田省吾
 私の中では、土田氏の『その鉄塔に男たちはいるという』と、泊氏の『IRON』が残りつづけていたが、最終的に永井氏の『兄帰る』の授賞に賛成した。永井氏の作に疑問がないわけではなかった。それについて記しておきたい。
 舞台という空間はどのような空間なのだろう。たとえば、長靴が一足、舞台の上に置かれているとする。その長靴は、たとえば私の家の玄関の片隅に置かれていたものとは明らかにちがったものである。
 〈詩的連関〉という言葉がある。詩の世界では、日常のものごとの連関と異なる連関が可能であり、そこに詩の世界のわたしたちにとっての意味や魅力が生じるのだが、〈劇的連関〉というものもあるのではないだろうか。
 舞台の上の長靴は、〈劇的連関〉の中にあり、そこで現実の、たとえば私の家の玄関の片隅にある長靴とはちがったものとなりうる。それは、登場人物についても言えることではないか。
 〈劇的連関〉に身を置いたら、たとえばあのホームレスの男の過去が、ツアーコンダクターの時代のチェンマイでの女買いで説明したりすることは何の役にも立たない。登場人物たちのものごとの判断、価値観にしても、現在の日常の中でごくふつうの人はこのようであろうという枠の中から〈劇的連関〉へ出ないことに私は不満を覚えました。〈新聞・テレビ連関〉であると感じ、〈劇的連関〉が見たいと感じたのです。
 社会劇とは、〈社会〉の中の人間を書くということだが、それは同時に〈劇〉を書くということでもあるはずで、〈社会〉は〈新聞・テレビ連関〉の語法で書かなければならぬということではないように思われます。
 これからのご健闘を期待しながら記しました。


遠い記憶   岡部耕大
 遠い昔、小学校四年二組で論争をした記憶がある。相手は論客八百屋の知恵ちゃんであった。なにを論争したかは忘れてしまったが、知恵ちゃんの舌鋒は鋭く、級友のすべてを味方にしてしまった。優勢であったはずのぼくは孤立していたのである。あれは悔しかった。今年の選考会は遠い記憶を呼び起こしてくれた。「荷担できない」「立ち位置の問題」といった言葉が飛び交い、激論が激論を生んだ。初めての体験であったといっていい。ぼくは土田英生さんの『その鉄塔に男たちはいるという』を推薦した。この人のなんでもない作風とその裏にある悪意の攻撃性と毒気は並々ならぬと感じたからである。戯曲が毒気と悪意を喪失して久しい。天野天街さんの『くだんの件』にも確信犯的な悪意と毒気はあった。しかし、夢に逃げる物語は損をするし、ある意味で微笑ましい古さが邪魔をしたのかもしれない。泊篤志さんの『IRON』は好きな作品である。
 ただ、徹底して卓球のギャグを書くべきであったのかもしれない。しかし、言わんとしているテーマは貴重である。強烈な海のにおいを感じて、これも遠い昔に北朝鮮へ帰った級友の記憶を呼び起こしてくれた。ファンである長谷川裕久さんの『堕天の媚薬』はつまらなかった。この人独特の古本屋の棚の隅で眠っていた歴史の本をめくる、あの興奮とカビ臭いにおいがなかったからである。駄洒落が嫌みとなり読み辛かった。長谷川さんはもっともっと攻撃を仕掛けることのできる劇作家である。期待している。今回は実力の永井愛さんの『兄帰る』に軍配が上がった。しかし、土田英生さんも天野天街さんも岸田戯曲賞の意味をしっかりと感じさせる作品だったのです。一人になってから、選考委員の一人一人の言葉を反芻した。永井愛さん、おめでとうございます。継続していい本を書かれている実力が高く評価されました。次の作品に期待をいたします。


選考のあとで   佐藤信
 選考では、天野天街さん『くだんの件』、土田英生さん『その鉄塔に男たちはいるという』、永井愛さん『兄帰る』の三作品を中心に議論した。
 個人的には天野さんの作品にもっとも強くこころひかれた。名古屋を本拠にした着実な演劇活動で天野さんがきづきあげてきた劇世界には、はっきりとした独創性がある。冒頭から一気呵成にたたみかけてくる演劇ならではの遊戯性の解放感から、終幕の巻きがおわってスカッと切れるセロテープの感触まで、あくまでも演劇という「なまもの」を大切にしてきた、天野さんならではの手仕事の様子が楽しかった。読む戯曲としての整合をあえて回避して、稽古場の俳優たちにとどけることを第一義とする、字面の乱調とところどころのすき間にもぼくには親しみがある。
 土田さんの作品は、一見破綻なく、楽しそうな舞台上演が容易に想像できる。なによりも、戦場に建てられた得体のしれない塔の中ほどにいるコメディアンたち、という状況設定がいい。
 なにやらキナ臭い昨今のご時世への批判精神もまっとうなものだと思う。しかし、劇中のコメディアンたちの持ち芸など、卓抜な状況設定に比較して内容のつっこみの浅さを指摘する意見にもうなずかされるところが多かった。可能性をもった資質が、もう一歩、独自性のある演劇の困難に向かって歩み出すことを期待したい。
 永井さんの『兄帰る』の完成度は高い。ぼくたちの棲息する「いま」が、どこか表層的で嘘くさいリビングルームの空間を中心に、無理のないはこびで批評的にしめされる。良質の風俗喜劇として読んだが、作者の意図はもう少し深く、現代の病理の解明に向かおうとするものだったかも知れない。だとすれば、作者本人の病への自覚をもっと見せてほしかったという欲は残る。終幕の兄のせりふに、なにかもうひとつ書き切れていないもどかしさを感じたのは、たぶんそのせいだったのではないか。


真っ当なるものへの懐疑   竹内銃一郎
 私が一番に推した『その鉄塔に男たちはいるという』の設定は抜群だ。兵士の慰問のために日本から戦地へ送り込まれたコントグループが、戦争への加担を躊躇って戦線から逃げ込んだその先が、森の中に立つ鉄塔の半ばに組まれた櫓なのである。いかような読み込みも可能な、間口も奥行きもたっぷりとある、演劇ならではの物語の構え。となれば、繰り出されるエピソードは、些細であればあるほど効果的であり、すでに劇作の道に精通している作者は、そのように物語を運ぶ。剥き出しになった〈戦争〉にあくまで中腰でヘラヘラと立ち向かうという物語の結末も、感動的である。と書く一方で、罪もない一般市民が不条理な戦争の犠牲になるというのは、よくある良心的な反戦もののパターンではないのか、と意地悪なわたしが待ったをかけ、更に、この作品の後味のよさは、作者の登場人物たちに降り注ぐ眼差しの優しさのせいだが、しかし、彼らの無垢や善良さが信じられすぎてはいないか、本当に彼らに罪はないのか、と追いうちをかける。
 授賞作となった『兄帰る』は、登場人物の形象の差異を鮮やかにあぶりだす歯切れのいい台詞といい、さりげない伏線の張りめぐらし方といい、まるで戯曲の教科書のような出来ばえである。けれども、『鉄塔』とは逆に、作者と登場人物たちとの冷ややかとも思われる距離感が気になった。物語の進行とともに、孤立無援となる真弓には、奇妙な言い方だが、作者だけでも支援の手を差し延べるべきではなかったろうか。兄に欺瞞をつかれて彼女が取り乱すという、建前より本音とでもいいたげな結末は、凡庸といって悪ければ、あまりに哀しすぎる。
 天野さんの『くだんの件』には、読み手にとりついて離れない異様な力を感じた。とりわけ、後半の自動筆記風な短い台詞の応酬には、ほとんど呆然としてしまったが、夢と終末論で物語の全体を括るのは、あまりに真っ当に過ぎるのではなかろうか。


『げ』でないもの   野田秀樹
 『兄帰る』が今年の候補作の中では一番良い作品だと思った。冒険はないのだけれども、巧いというのは、こういうものなんだろうなあと、自分にない資質なだけに余計感心して読んだ。新しい登場人物によって話が展開していくのが芝居というものだが、それを、いきなりの登場ではなくて、冷蔵庫の修理を間にはさんでいくつくりなど、ああ、よくできているなあと、唸った。然りげないけれども、書きなれている永井さんならではだと思った。
 そうだ、永井さんは、書きなれているのだ。今更、岸田賞ではないのかもしれない。それがまた、今年永井さんに反対する選考委員の理由だったようにも思える。つまり、去年、一昨年の作品の方がいい。とかいう反対理由である。けれども、それは、永井さんがコンスタントにいい作品をつくっているからであって、反対する理由にはならないと思う。今年は永井愛さんという作家のこれまでの活躍すべてに与えられた賞だということでも良いのではないか。私はそう思って執拗に永井愛さんを推した。  裏を返せば、今年の他の作品に私は魅力を感じなかった。どれも、作家としての方法が中途半端な気がした。
 それに比べて永井さんの作品はいつも、決してドキッとする新しさはなくても、ハッ、とさせる巧さがある。それが永井さんの真骨頂でもあるし、御本人もそんなことを知り尽くして書いている気がする。
 「新しそうに見える」ことなんて、どれほどのこと? と思っているかもしれない。そうした方法に徹しているところが良い。
 そしてこの『兄帰る』という作品そのものが、「中流意識」に溺れつつある日本にありながら、やはり徹底的には「中流」でいられない、せめて「新しそうに見せたい」そんな今の都市に生きる日本人のありようを描いている。確かに今時の都会にある新しげな家も雑誌もレストランも空間もすべてが、結局は、「げ」なだけで、新しくはない。だったら、そんな風にしなくてもおもしろいものはつくれる。永井さんの作品はそう語りかける。私のような「新しそうに見えるもの」好きにそうした苦言を呈する。
 これからも、私らとは違ったところで、どんどんい いものを作って、芝居の世界を共に豊かにしていきましょうねと、思わず声をかけたくなる才能が、やっと授賞できて、とにもかくにもおめでとうございますである。


歯切れ   別役実
 私は今回、天野天街・作『くだんの件』を授賞作として推していたが、議論の過程で、最終的に、永井愛・作『兄帰る』を授賞作とすることに賛成した。他では、土田英生・作『その鉄塔に男たちはいるという』も、同様にして問題になったが、私は賛成しなかった。
 『くだんの件』は二人の少年が、それぞれを夢の中の登場人物としながら、世紀末的な幻想を展開するものであり、「舞台は障子をのぞいて全体にのっぺりと白い」という設定でも明らかなように、従来の演劇的陰翳によらないイメージの表示が、新鮮であった。持ち出されてくる道具も、「物」であることから「記号」であることまでの境界がとり払われ、同時に、「意味」であることと「無意味」であることが、無造作に混在し、この点でも歯切れが良かったと言えるであろう。ただ、いささか残念であったのは、後半に至ってやや情感過多になっている点であろうか。この破天荒な展開の、背後に情感を感じさせるのはいいが、それ自体のものになると重いのである。
 『兄帰る』はベテランらしい科白さばき、人物さばきのうまさを感じさせる作品である。特に導入部の、いわゆる「芝居への入りこみ」のうまさは、見事と言っていいものと思われる。行方をくらましていた兄の、突然の帰宅によって生ずる、どこにでもありそうな家庭の困惑が、まさしくあり得てしかるべく描かれて、その展開も極めて巧みである。しかしそれだけに、全体の骨格となるべき構造が、ややあいまいになってしまっているのではないかと、私は考えた。幕切れが、今ひとつ歯切れが悪いのも、そのせいではないだろうか。
 『その鉄塔に男たちはいるという』は、どことも知れぬ戦争にかり出され、やむを得ずそこを脱走した喜劇役者たち、というアイデアが面白かった。しかし、ややアイデア倒れに終っているように見えたのは、やはりその状況の特異性が、説得力を持ち得ていないせいと思われる。

ジャンル

シリーズ

  • 教育機関のオンライン授業における教科書のご利用について
  • じんぶん堂
  • エクス・リブリス
  • ニューエクスプレスプラス
  • 地図から探す 語学書ラインナップ
  • webふらんす