加賀野井秀一「味わい深い「哲学者」群像」

加賀野井秀一「味わい深い「哲学者」群像 ——『メルロ=ポンティ哲学者事典』完結にあたって」

 『メルロ=ポンティ哲学者事典』全四巻がついに完結! これで白水社の創立一〇〇周年記念出版にも多少の華を添えられ、ようやく私たちも肩の荷が下ろせそうです。それにしても本書は、メルロ=ポンティ総監修のもと、若き日のジル・ドゥルーズが「ベルクソン」を論じ、ジャン・スタロバンスキーが「モンテーニュ」を、そしてジャン・ボーフレが「ヘラクレイトス」や「パルメニデス」を論じていたりするのですから、訳者にとってみても、当初から興味津々の書物でした。
 執筆陣には、さらにオックスフォードのギルバート・ライル、ハイデルベルクのカール・レーヴィット、そしてニューヨークのハロルド・ローゼンバーグまでが名を連ねており、まさしく百花繚乱。これら一癖も二癖もある人物たちが、先輩思想家をどう料理するのか、それを知りたい哲学徒にとっては、まさしく垂涎の書であったといっても過言ではないでしょう。
 たとえばドゥルーズは、ベルクソンをめぐり、およそ伝記らしきものは一顧だにせず、この先達の創りあげた一連の新概念がもつ意味をひたすらにたどります。逆にスタロバンスキーは、伝記的事実をふんだんに織り込みながら、モンテーニュの身体が、自分自身から隔たりつつも、やはり自分自身へと回帰する道筋をくっきりと跡付けてまいります。そしてボーフレの描き出すヘラクレイトスやパルメニデスには、「ソクラテス以前の哲学者(フォア・ゾクラティカー)」を厚遇するハイデガーの影響が、ありありと看て取れることでしょう。つまるところ、一人の哲学者に対峙するもう一人の哲学者のユニークなアプローチは、互いの他者性を経由しながら、思いもかけぬ両者の特徴を際立たせるよう仕組まれているのです。
 さらに、この事典のもつスパンの広さもまた驚くばかりで、タレスやピュタゴラスに始まり、デカルトやカントから、デリダやドゥルーズへと至るのはもちろん、はるかインドのブッダやナンマールヴァール(こんな人物ご存じですか?)、中国の荘子や荀子にもたっぷりと言及し、さらには、先日の学会で顔を合わせたばかりといった感じのスティグレールやロゴザンスキー、サンデルやハーマンまでを登場させているほどです。
 でも、どうして一九六一年に逝去したメルロ=ポンティの監修本にサンデルやハーマンが収録されているのでしょうか。実はそれは、本書の第四巻(別巻)が、私たちの手で増補されているからです。この巻では、わが国における各分野の第一人者にお願いし、メルロ=ポンティの精神を生かしながら(ということは、ほとんど自由に)その後の哲学者たちの群像を書き下ろしていただきました。ですから読者の皆さんは、お望みとあればこの別巻だけでも、現代哲学の最新の手引書として活用することができるでしょう。
 そんなわけで本哲学者事典は、一九五六年にメルロ=ポンティのもとで刊行された『著名な哲学者たち Les Philosophes Célèbres』という味わい深い底本に、現代哲学をめぐる最先端の研究成果が接木されて出来ているのであり、おかげで、手前味噌ながら、類書にはない広がりと奥行きとを持たせられたように思われます。
 そればかりではありません。本書はメルロ=ポンティの意を汲んで、「哲学事典」でも「哲学史事典」でもなく、あくまでも「哲学者事典」という体裁をとっており、ここには一貫して、彼の深慮が潜んでいます。哲学事典であれば、まずもって哲学とは何かが問われねばなりませんが、もっぱらその構成要素たる概念の異同や整合性に拘泥するあまり、ますます本来の問いから遠ざかってしまうことになりがちです。また、哲学史事典であれば、前提となる哲学の何たるかがすでに分かっているようなふりをしながら、哲学への問いを封印し、学派や主義の比較分類に執着するあまり、結局は、個々の哲学を矮小化してしまう危険性があるでしょう。その点、哲学者事典であれば話は簡単。さしあたり問題にされるべき人物はそこにいて、古来、哲学者とされてきた人、哲学者と自称し他称される人、さらには哲学者らしき人……などをかなりラフに列挙できます。
 そのうえ哲学者は、必ずしも四六時中しかつめらしく哲学しているわけではなく、食べ、眠り、愛し、時に作家となったり、音楽家となったり、ついには、おのが哲学に反した生活をすることもあるでしょう。この場合、パスカル流に言えば、「哲学」は彼の内の「どこにもあり、どこにもない」のであり、結局、私たちは、ただひたすら当の哲学者の全体像によってのみ震撼されることとなるのです。
 古代ギリシアは遠くなりにけり、とはいえ、プラトンは読み継がれ、実存主義はいささか時代遅れになった、とはいえメルロ=ポンティは読むたびに新しい。してみると、哲学は流れ去り、哲学者は残るのでしょうか? いやむしろ「哲学者事典」が私たちに教えてくれるのは、「哲学」とは「哲学者」たちのはざまに、時折、かいま見られるたぐいのものだということかもしれませんね。

◇かがのい・しゅういち 一九五〇年生まれ。中央大学理工学部教授。専攻は哲学、言語学、文学、メディア論。著書に『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』(白水社)など。

ジャンル

シリーズ

  • 教育機関のオンライン授業における教科書のご利用について
  • じんぶん堂
  • エクス・リブリス
  • ニューエクスプレスプラス
  • 地図から探す 語学書ラインナップ
  • webふらんす