第62回岸田國士戯曲賞選評(2018年)

第62回受賞作品

『バルパライソの長い坂をくだる話』神里雄大

『あたらしいエクスプロージョン』福原充則

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演劇における言葉の問題 岩松 了
 サリngROCK『少年はニワトリと夢を見る』は他の作品にはない独自の劇世界を創り出している。それは迷子感とでも言うべきか、世界を前にしたときの個人の所在の無さに作者が目を向けることによって生まれるものと思うが、劇の中の人物たちはその世界と個人の隔たりに自覚的ではない。そこに言いようのない寂寞があり、人物が明るくなればなるほど我々はその明るさの根拠の無さを自覚させられる、という仕組みだ。このあって然るべき言外のものへの作家の感受性を評価すべき(少年の犯罪を安易に作りすぎているという弱点はあるものの)と考えたが、他の選考委員の賛同を得られなかったのは残念である。
 それに対して、ほとんど言葉のみ、といっていい神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』の評価の高さは何だったのだろう? 今でも私はこれが演劇と言えるのかの疑問は拭い去れないでいる。人物はいちおう男が3人、女が1人と配されているが例えばオキナワでの話をするのが男2ということになってるが別に男1でもいいわけでしょ? と言いたくなる。舞台上に誰かの言葉を評価したり批評したりする人物がいないのだ。男3がずっと黙っていてもそれがさしてドラマとも思えない。むろん言葉だけとれば「物事は動き出す。静止した状態から動き出す。この瞬間、これ以上に劇的なことはない」など、うなずけるセリフは多々あるが、いずれもが所詮作者自身の腑に落ちるところに収斂してるにすぎないと思えるのだ。演劇にとって言葉の機能とは何であろうか。もしこれが新しい演劇の可能性を探ろうとするものなら、私はただ追いつけなかった、というだけのことで、作者には、ますます自分の演劇をおしすすめてくださいと言うしかないし、そうであって欲しいとも思うのである。
 山本卓卓『その夜と友達』も評価が高かったが、私には中心の三人の関係がさして面白いものと思えなかった。図式はわかるが内実に迫ってないと思えたのだ。ゲイだってわかることにさしてドラマがあるとも思えないし、何? 倫理感の話? と言いたくなる。三人で騒いでその後に「オレたち親友だよな」などと言うのだが、騒いだところをナレーションですませてあるのが問題。そのアナーキーであるはずの時間を現出せしめることが出来れば評価のしようもあったはず。同じように鍋を背負ってキャンパスを歩いた、それがどんな状況を生んだかを見せてもらわないことにはそんな人間信じるわけにはいかない。“それ”を描かないで、“それの意味”だけを説明しているのだ。例えば先の三人で騒いでるシーンだけで全編を貫けば、三人の関係を描くのに新しく、説明不可能な、とても面白いものになったろうに、と思った。
 そこで福原充則『あたらしいエクスプロージョン』だが、もしや作者にしては会心の作品ではなかったのかも知れないが、それでも劇作家のやるべきことをやってる、という意味では最も評価すべき作品だ。やはり言葉の問題になる。登場人物の言葉を「信じて、信じて」と言われてるような窮屈さを感じ続けた候補作の果てに読んだこの作品は、言葉など「信じなくていい」と言われているような安堵感を感じさせてくれた。実際そうなのだ、言葉など信じなくていい。信じたくなった時に信じるだけのこと。そのことがわかっているから人物の体の状態にドラマを見ようとする。石王の満洲からの引き揚げの話は語るべくして語られているから、つまり体がそれを要求しているから、信じたくなる言葉として機能するのであって、しかもそれは人が語る言葉は全て噓、という前提を覆すことはない。噓を信じる、という演劇の可能性に関わる問題だ。そこに挑戦するからこそ、構造に神経を使う。劇作家のやるべきことだ。
 だからフィクションにフォーカスしてる話だと期待して山田由梨『フィクション・シティー』を読んだが腰砕けの感が否めなかった。小説に書かれている事が自分のことだと言い張る(しかも自分が産まれる前に書かれているのに)女とその事態をもっと執拗に追って欲しかった。

日本語を換気する日本語 岡田利規
 われわれがついそれを日本語の「らしさ」であると捉えてしまいがちな、現実の日本社会のコンテクスト内で流通している日本語が自ずと帯びる各種の細やかな――もしくは瑣末な――ニュアンスや風情を、演劇のための日本語を書く際においても意識し、鋭くすくいあげること、それによってそれをヴィヴィッドな生きた言葉に仕立てること――そういった価値観から、神里雄大氏の日本語は無縁である。独自のセンス・詩情が備わっている。自分の声を持っている。
 美的な側面だけではない。日本語で書いたり芝居したりすることが相手どる対象がどうしたわけかいきおいドメスティックなところに限定されてしまいがちなところを、神里氏は、そんな傾向の存在など知ったことかと言わんばかりのそぶりで、しっかりデカいことを扱う。対象の関心領域が国境に規定されないこと。物理的に難しいことでは必ずしもないはずなのに、その実践は少ない。神里氏は実践者のひとりだ。日本語を、日本語で行われる演劇を、拓いたものにできる人の一人である。日本語を、日本を、換気できる言葉を書く人だ。今回の選考会では、虚ろな様子で車の中にずっと引き籠もっている女を場の核にすえ、彼女の息子である男1が死んだ父――女にとっては夫――の灰を撒きに行こうと話しかけ続けるという『バルパライソ――』の基本的なセッティングが「演劇的」であるという評価を割と得たこともあり、授賞作となった。よかった。
 松村翔子氏の『こしらえる』と山本卓卓氏の『その夜と友達』も授賞に値すると考え、選考会に臨んだ。
 『こしらえる』という戯曲と向き合う時間、この戯曲が持つ人間観・社会観・人生観と向き合う時間、この戯曲が見せつけてくる、人間社会から外れること・人間から外れることの可能性と向き合う時間は、グロテスクを味わうことのできた経験であった。
 『その夜と友達』を書いた山本氏は、自分の書きたいことを書きたいように書く、演劇というツールを使いたいように使う、そのための方法と技術を身に付けた人だけが享受できる自由を、ぞんぶんに享受している。そのことを心から祝福したい。
 福原充則氏の『あたらしいエクスプロージョン』に関しては、私にはこの作品に評価を下す資質が欠如していて、授賞に賛成することはできないのだが、反対もまたしていない。

欠席への反省 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 今回私は体調不良で選考会を欠席させていただいた。なので他の選考委員の方々の間で交わされた論議を知らない。担当氏には事前に4段階評価の採点表をお渡しした。選考会終了後、授賞作二作との連絡があった。福原充則氏の『あたらしいエクスプロージョン』と神里雄大氏の『バルパライソの長い坂をくだる話』。私は採点表で、前者を評価したもののやや消極的で、後者は評価しなかった。
 日本映画で初めてキスシーンを撮った映画人達を描いた『あたらしいエクスプロージョン』は楽しい作品で、読んでいて飽きず、笑えて、適度にカモフラージュされてはいるが過剰なロマンに溢れている。演劇ならではの飛躍とケレン、例えば一人の役者がシームレスに複数の役を次々と演じる仕掛けはワクワクさせる。だが、これが氏の真骨頂かと問われれば疑問で、ゆえの「やや消極的」である。これは多分に好みもあろうが、以前の作品にはもっと唸らされたものもあった。主に、独特な毒気に。笑うしかないほどの不幸への容赦のなさと、その裏に透けて見えるポジティヴィティに。この度は多少なりとも史実との葛藤があったのだろう。その制約と握手しつつ、すり抜けたい部分は軽やかにすり抜けていて、見事ではあるのだが……。
 いや、ここまで書いておいてなんだけど、作品だけでなく、これまでの功績への評価として素直に祝福しよう。やや消極的とは言え、今回の候補作の中では最も面白かった。「面白けりゃいいのか」と言う人もいるけれど、面白くなきゃダメだ。
 一方の『バルパライソの長い坂をくだる話』の話になると、頭を抱えてしまう。神里氏が候補になったのも福原氏同様初めてのことではなく、一昨年の候補作『+51アビアシオン,サンボルハ』を、私は最初、そこそこ強く推した。その時選考会で散々飛び交ったのは「これを戯曲として評価するべきか否か」という議論だった。今回はどうだったのか、欠席した私は知らない。
 「戯曲」は「文学」でもあるが、前提としてその向こうには「演劇」がある。かつて別役実氏は「現在我々が演劇に接して感動するのは、演劇にではなく、演劇の彼方にある『文学』に感動しているのである」と否定的に説いた。一昨年の選考会においては、まさしく「感動していた」私の頭にこの一文が去来し、いそいそと推薦を引っ込めた次第である。
 『パルパライソ〜』は、前作以上にこの人にしか書けない作品だと思う。日本と距離をとり、生者と死者を等価に扱う視座で立ち上がる世界はもはや神話的でさえあり、ブエノスアイレス、チリ、アフリカ、パタゴニア、シドニー、ニューヨーク、東京、京都、那覇、小笠原諸島を巡る。読み物としての成熟に感じ入った反面、演劇的なダイナミズムを鑑みた時に、改めて思った。「これは戯曲なのか」。
 すでに一昨年の選考会でその点における一応の決着はついていたようにも思え、評価を避けた。「これは戯曲なのか」「戯曲とは何か」「岸田國士戯曲賞は何を評価すべきか」。語り合う課題は多いだけでなく、時とともに更新される。選考会には出なければいけないと思った。

作家の身の丈 野田秀樹
 例えば私は、第二次大戦が終わり十年後に長崎で生まれ、すぐに東京へ出てきて、十代は今の中国が経済発展をしているのと同じような感覚の都会で暮らした。これが、私の「身の丈」というものである。その後、二十四で母を亡くし、三十一で父を亡くし、三十三で、右目の視界を失くした。そのことで、少し「身の丈」が変わった。そういった「身の丈」から逃れられないのが、作家というものであり、作家はなにも「身の丈」にあったものだけを書けばいいというものではないが、常日頃、自分の「身の丈」を知るべきである。つまり、自分が書くことのできるもの、書いていいものを「自問自答」し続けるべきである。その意味で、今年受賞した福原氏も神里氏も、作家としての自分の「身の丈」をよく知っている作家に思える。
 福原氏は、この度、戦後や満洲のことなども書いているが、彼の興味はそこにはない。「何を書くか」が大事ではなくて、「如何に書くか」の方に、はるかに興味が向いている。だから読んでいて、こちらの心が弾むばかりに楽しい。言葉が踊っている。よくできているなあ、と唸らせる。古い言葉で言えば「達者」でありウェルメイドなものが書ける作家だ。「自分は何か書くものがあるわけではない、ただ書くのがうまいだけです」といったタイプの作家ほど、息が長く続き、やがて、自分が本当に書くものに出会う……ことがある。いつか、福原氏が、あの洒脱な作風で自分の書きたいものを見つけた時の作品を読んでみたい。
 それと対照的に、神里氏は「如何に書くか」ではなくて「何を書くか」を大切にしている。そんな身の丈の作家だ。この度は、神里氏は「人間の骨」のことを書いた。南米の海に散骨するべき「父の骨」、その南米における「人類初めての骨」そして、父という言葉から連想される「父島で散った戦士の拾われないままでいる骨」の話だ。この三つを舞台上の車の中から出てこない「母」に語るモノローグ的作品だ。モノローグというよりは、創作ノートからの抜粋にさえ思えるところもある。そこが彼の「如何に書くか」の弱さのようにも思えるのだが、彼が書いている「何か」は、南米に生まれた彼にしか書けない、その特殊な身の丈が作り出した、他にはない世界である。そのことだけは間違いない。前回の神里氏の候補作と異なり、今回のものは、確かに作品に「骨」があったのである。それを私は拾うことができた。
 今回、私はこの二人の作品を推したが、他にも、西尾佳織氏、サリngROCK 氏、山田由梨氏の作品を面白く読んだ。受賞作との距離はさほどないと思う。

おめでとうございます 平田オリザ
 最後に残った三つの作品(福原さん、神里さん、山本さん)は、いずれも完成度が高く、受賞に値すると考えた。ただ、昨年、一昨年のように圧倒的に推したいという作品があったわけではなく、「賞は出した方がいい」という、いずれも消極的な賛成となった。そのようなわけで、それぞれの作品の善き点については他の選考委員に任せて、申し訳ないが否定的な部分のみを先に書いておく。
 山本さんの『その夜と友達』は、LGBTに対する偏見の問題を基調にしているにもかかわらず、なぜゲイの登場人物が急にキスをしたり、性交を迫ったりする設定としたのかが私には理解できず人物造形が雑に感じた。
 福原さんの『あたらしいエクスプロージョン』は、上質のコメディであるのに、映画人の戦争協力や満洲からの引き上げの悲惨さが、何か免罪符のように挿入されていることが気にかかった。福原さんの筆力ならば、題名の通り、もっと闊達に、戦後の開放感を描くこともできたのではないかと感じた。
 神里さんの『バルパライソの長い坂をくだる話』は、なぜ、これを一人語りの形式にしなければならないのか、やはり最後まで私には理解ができなかった。たとえば、男1は兄弟ではダメだったのか。あるいは姉と弟なら、他の膨らみはなかった。自己の経験や見聞からもっと距離を置いて、劇空間を豊かにする構造についての吟味がまだまだできるのではないか。
 いや、豊かさなど求めていないのかもしれないが、しかし、「女」(母)という設定によって、この空間が、まさに「劇的に」成立していることは間違いない。だとすれば、他の点についても、もっと貪欲になっても良かったのではあるまいか。
 岸田賞を受賞することによって得られる最大の果報は、もう岸田賞について考えずに済むことだ。今回、幾度目かのノミネートで受賞となったお二人には、それぞれ異なる方向のその才能を、もっとのびのびと伸ばしてもらいたいと願う。
 おめでとうございました。

戯曲における「距離」への感覚 宮沢章夫
 戯曲における──あえて漠然と書くが──、「距離」はどのようにあるかを強く意識したのは、受賞作のひとつ、神里雄大の『バルパライソの長い坂をくだる話』で語られる世界の広さと、その距離の感覚、位置の意味、あるいは詳述される場所のあり方がきわめて興味深いからだ。
 たとえば、松村翔子の『こしらえる』も、よく書かれたテキストだ。あるいは飛躍の愉楽を感じる作品だが、さまざまな意味で「距離」への感覚が稀薄だと感じる。ドラマの舞台となるレストランのある街の広さや、単純なことを書けば、入口からどれくらい歩けば厨房まで行けるのか。もちろん、それは寸法のことではなく、まして、距離が数値で示されるという意味ではない。あたりまえだが、多くのテキストがそんな記述などせず、読むことを通じて想像させる。だから、典型的な技術の側面から「距離」を考えるなら、ト書きが「距離」を語るのではなく、むしろ、せりふの積み重ねによって──物理的にも、心理的にも──、人と人との距離が表現されるし、人と人との距離から空間を想像させる。ここではせりふは単なる発話のことではない。小説の発話の形式とも異なり、コミックの吹き出しの言葉ともべつの表現だ。演劇の技法にとって特別な要素だ。
 せりふの組み立てによって世界が生まれる。
 けれど、その技法こそ否定の対象とするテキストもある。
 使い古された技法はときとして退屈だ。神里雄大の『バルパライソの長い坂をくだる話』は、こうした退屈から深い場所で逃れようとする。松村翔子の『こしらえる』の「距離への無自覚」は、神里と異なり典型的な技法の否定ではない。たとえば次のせりふのやりとりは、どこか性急だ。レストランのパティシエの夏目が無断欠勤していることを前提に、夏目から教えを受け、修行中の池澤が出勤する。店長の三島と言葉を交す。

  池澤 おはようございます。
  三島 あ、池澤。
  池澤 はい。
  三島 今日もまだ夏目さん来てないんだよ。
  池澤 え、そうなんですか。
  三島 パティスリー頼んだよ。
  池澤 えー、僕自信ないですよー(去る)。

 このやりとりはこう書くこともできる。

  池澤 おはようございます。
  三島 ……。
  池澤 (薄々察し)……え?
  三島 ……いや、……おはよう。
  池澤 きょうも? きょうもまだ夏目さん、
  三島 来てないんだよ。
  池澤 ……そうかあ(と、ひとりごちると、ゆっくり奥の部屋に向かう)。
  三島 (その背中に)頼んだよ。
  池澤 (立ち止まり)僕ですか?
  三島 パティスリー。
  池澤 僕……、自信ないですよ(とまた、ゆっくり奥の部屋に向かって去る)。

 決してうまい例ではないが、やりとりを通じて二人のあいだに漂う空気が描かれれば、「距離」は自然に浮かんでくるのではないか。結論に向かって性急にことを運ぼうとするのは、作家の「都合」だ。できるだけ早く池澤に、「僕自信ないですよ」と言わせたかった。こうして『こしらえる』は、いくつかの部分で無自覚に「距離」を書き忘れるが、ただ、そうした無自覚さの破綻が、とんでもない飛躍も生む。レストランを舞台にした人間模様の中、シェフの磯辺と不倫しているウェイトレスの内山は、磯辺の妻、幸枝に呼び出される。磯辺家を訪問する内山は、なにがどうなっているのかわからないが、飼い猫を失った幸枝から、猫になってくれるよう懇願される。内山は猫になる。それもただごとではないが、さらに先を読むと、猫になったことで店を休んでいた内山は、猫としてレストランに復帰する。見事な不条理劇だ。なにしろ、猫としてウェイトレスをする者がいるレストランだ。
 さらに飛躍は留まることを知らず、幕切れ近くの次のト書きが読む者を驚愕させる。
 「泣きじゃくる幸枝、やがてゴリラになる。」
 なにごとなのかと思うのだ。
 ゴリラになった幸枝は森に消えてゆく。その森とはなんのことだろう。すぐれたト書きだ。だからこそ、「距離」についてもっと自覚していればと残念に思う。
 そして、技法そのものを対象化する、神里雄大の『バルパライソの長い坂をくだる話』は、また異なる手つきによって「距離」の考え方を示す。
 なにより驚かされるのは、先に書いたように、語られる世界がどこまでも広がっていることだ。男1と男2の独白がほとんどの出来事を語る。語りによって描かれる地理的な位置がきわめて興味深い。それは、パラグアイやパタゴニア、オキナワであり、父島だ。けっして世界史で語られるような「中心」ではない。「中心」から逃れる土地の把握の方法にまた異なる演劇の可能性がある。あるいは、異なる土地から戯曲を見つめ直すからこそ、それ自体が演劇への誠実な応答になる。冒頭、男1は自分の位置を口にする。
 「……このまえインターネットにいたんだ。」
 ネットはたいてい、「閲覧した」とか、「使っていた」「していた」と表現される。男1はごく近い過去、インターネットにいたらしい。つまり「いた」ことによって、男1は、ある場所への訪問者になったし、べつの書き方をするなら、観光客になった。東浩紀は、「観光客」について、「人間が豊かに生きてゆくためには、特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる『観光客』的なありかたが大事だ」(『観光客の哲学』より)と論じる。そして、アントニオ・ネグリらが語る、「マルチチュード」という概念について論考は続くが、それは新鮮で、魅力的な「主体」の提起だ。そう考えると、神里の作品に登場する観光客たちの姿が、生き生きとしたものになる。観光客の視点によってさまざまな場所の出来事が語られる。男1が言った。
 「あのときのパラグアイには、皆既日食が起こるっていうことで、世界各地から観測隊や大学生たちが集まってきていた。ドイツやアメリカ、オーストラリア、日本、そしてたぶんもしかしたら、宇宙からも。」
 すでにパラグアイにいた男1は、考えてみれば、観光客としての「観測隊や大学生たち」を迎える側だが、皆既日食という特別な出来事は、「観測隊や大学生たち」と同じように男1をも観光客にする。だから男1はその瞬間のことを興奮した調子で語る。
 「パラグアイでダイヤモンドリングが輝いたとき、草原のどこに隠れていたのかもわからないカエルや鳥や虫たちが大きく鳴き始め、観測隊に緊張が走り、子どもたちは息をすることを忘れた。」
 父親の仕事の関係で男1はパラグアイに居住したことのある日本人だ。だからはっきりとした根拠をその土地に持つのではない。半分はそもそも観光客だ。では、男2はどこの国の人間なのだろう。ブエノスアイレスに住む友人や、自分が住んでいる地区(=ブエノスアイレスの一角)について語るのを読むと、どうやらアルゼンチン人らしい。アルゼンチン人らしき男2は、やがて観光客としての、自身のことを口にする。
 「去年の冬に、おれと彼女とで日本に遊びに行ったんだ。おれは二回目の日本で、彼女は初めてだった。東京、京都と観光してから、おれたちは初めてオキナワに行った。」
 ここで、「東京」「京都」が漢字で記されるのに対して、沖縄が、「オキナワ」とカタカナで記されるのは、このテキストが「中心」から遠ざかり、多くの日本語を使う者にとって感じる、パラグアイやブエノスアイレスと同じ響きをもたらすからだ。その響きが、「中心」から逃れるテキストの主旋律だ。だとしたら、「父島」が漢字で記されるのはなぜか。それを語るのが男1だからだと考えられるし、男1が父島で会った「愛想のわるいバーのマスター」が、日本が父島の領有権を主張するより三〇年以上前から島に住み着いたアメリカ人の末裔だったからだとも考えられる。つまり父島は、男1にとって、どこに属するかわからない曖昧な空間としてある。
 これは奇妙なテキストだ。
 おそらく神里雄大は、観光客の視線で演劇を見つめている。所属する共同体がありながら、ときどきべつの共同体を訪れる者のように。あるいは、それを専門としながら、あたかも門外漢のような態度でテキストを書く。そのことが強く印象に残る。
 同じように、西尾佳織の『ヨブ呼んでるよ』が印象に残ったのは、たとえば、いかに「夢」を言語化するかが試されているからだが、そこにも「距離」への感覚がある。誰もが経験するのは「夢」を誰かに伝えることの困難だが、無謀にも西尾佳織はテキストとしてそれを記そうと試みる。それもまた距離を縮める行為であり、「夢」を外部から見つめる観光客のふるまいだ。とても魅力あるテキストだ。けれど、残念なのは、もっとも重要だと思われる、「ヨブは語り尽くした(けれどわたしたちは?)」と記された場面のト書きに、次のような指定があることだ。
 「*劇を上演する者は、このシーンのための言葉(語る言葉を持たない者の言葉)を探すこと。」
 選考会でも指摘があったが、それは作家が為すべき仕事だ。
 では、福原充則の『あたらしいエクスプロージョン』はどうか。すでに新人とはいえないほど劇作の筆力があるのを感じ、見事な筆さばきに感服する。おそらく、巧みなせりふによって、意識的に「距離」は表現されるから、世界が立体的に立ちあがる。
 けれど、だからこそ材料さえ整ってしまえばたやすく戯曲を書いてしまう陥穽があるのではないか。
 終戦直後の日本映画がGHQによって検閲された出来事が描かれ、日本の映画や演劇の製作を統括するデビッド・コンデの「史実」が語られる。あるいは、劇中に登場する、「闇市」「パンパン」といった道具立てが揃えば、お話はたちまち出来てしまうが、あまりに手垢のついた素材ではないか。テキストに指定はないが、「リンゴの唄」が聞こえるかのようだ。こうした達者な筆致のテキストを否定する気はまったくないし、作品の価値も認め、あるいは趣向の切れ味にも感心しつつ、けれど、なにか腑に落ちない。いまとなっては──戦後七〇年以上が過ぎ、描かれている世界や要素が、この国の多くの者にとって、共同体に属する「村人」のような感情を喚起させ、大西巨人の言葉を借りれば、どこか俗情との結託を感じるからだ。もちろん、「俗情との結託」は演劇とは無縁かもしれない。劇場という特別な空間に、観客と対面することで表現され、公演される演劇には、少なからず俗情を煽る側面があるだろう。なぜなら、いまそこで、俳優が生きているからだ。
 福原の見事な技術にはもっと大きな可能性がある。神里とは異なる距離を生み出すことができる。候補作のすべてに刺激を受けた。最後に付け加えておくなら、ゴリラもまた、観光客である。

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